「キモノというものは、本当に怖いものですね。」以前、ある「ホテルマン」から、しみじみ言われた言葉である。なぜ彼が、「キモノは怖い」と思うようになったのか。それには訳がある。少しお話してみよう。
勤めているホテルでの出来事である。あるパーティの宴席で、式場の係が、料理を誤って座っていたお客様の上に落としてしまった。その方が着ていたのが、「高価そうなキモノ」。どの場所に、どのくらいの汚れを付けてしまったのかはわからないのだが、当然「直すこと」を要求された。
ホテルとしても、その場で「脱いで頂いて」直しに回すことなど出来ない。そのお客様が自分でキモノを「しみぬき」に出し、「直し」にかかった代金をホテル側が負担することで話がついた。
ところが、である。その方が「どんなところへ」キモノのしみぬきを頼んだのかわからないが、結局その汚れを落とすことができなかった。こうなると、「キモノを一枚駄目にされた」ということになり、「全額弁済」ということになってしまった。そして、その金額を「何十万」と請求されたのである。
だから、このホテルマンは、「キモノが恐ろしい」のだ。
こういう「トラブル」の対処方法として、このやり方は正しかったのだろうか。「ホテル側」に「キモノを直す手段」というものがわかっていれば、「ホテル側」がモノを預かって「直し」を受けることも出来たはずだ。
また、お客様が、ある程度「キモノ扱いに知識のある方」ならば、腕の良い職人や信頼出来る呉服屋に「直し」を依頼して、キモノを元の姿に戻せたかも知れないと思える。「補正職人」の「ぬりやのおやじさん」に言わせれば、汚れを付けてから、時間があまり経過していないものであれば、ほぼどんな「しみ」でも直すことが出来るそうだ。それが、「油」であれ、「酒類」であれ、「血液」であれだ。
問題は、時間が経ってしまった汚れや、変色であり、これは時と場合により落とせないものもある。
これを考えると、しみや汚れを直すには、まず「どこへ依頼するか」ということが肝心である。「出す職人や呉服屋」により、「直る場合」と「直らない場合」が出てくる。消費者が、どこに「腕の良い職人がいるのか」ということを、予め認識するのは、かなり難しい。
前回のこのカテゴリーの続きとして、「補正職人・ぬりやさん」へ仕事を依頼する前に、自分で何をしなければならないのか、お話していこう。
(四手紐で丁寧に梱包されて、職人の仕事場へ出される)
たとえ「直し」へ送る荷物でも、包むことがいい加減であってはならない。なるべく「シワ」にならないように丁寧に扱う。今は、配送する業者の質も向上したので、昔のような「厳重な梱包」は必要ないのかもしれないが、「品物の扱い方」は変えられない。上の画像の紐の縛り方が、「四手紐」と呼ばれる結び方。一本の紐で結び目は一つ。使う紐の長さに無駄が出さない工夫と、「解けず、固く結べる」という利点がある。
最初にご紹介するのは、男物の袴・仙台平の直し。前回の洗い張り職人の太田屋さんへ出す仕事の稿で、「男物の紋羽織と長襦袢」を例にとってお話させて頂いたが、この袴は、同じ依頼人のもの。
全体をくまなく観察し、どこにどんな汚れが付いているのか確認する。どこの職人へ仕事を依頼する場合でも、まずしなければならないのは、「品物の現状を把握する」ことだ。
紐の上、「腰板」部分の「黄変色」。画像からもはっきりわかる汚れ。
「襠(まち)・袴のひだの部分」に同様の「黄変色」が多数見受けられる。長い間箪笥に眠っていたものなので、「カビ」から変色したものなのか、それとも「汚れを放置したもの」が変色したものなのか判然としない。
「汚れの箇所」を一つずつ確認しながら、「白い絹糸」で「糸印」を付けていく。「仙台平」のような「縞」が連なっているものを、長い時間見続けていると目の感覚が狂ってくる。少し遠めから見たり、間をおいて見たりする。また、真上から汚れを探すばかりでなく、生地の断面や横から見ていくことも大切である。
袴全体に広がった「糸印」。「腰板」から裾まで「万遍なく」付いてしまった黄変色の汚れ。個々のしみを見ると、どれも同じような色なので、「同じ原因で付いたもの」と類推することが出来る。ということは、一ヶ所直すことが出来れば、全部直るだろうし、一ヶ所直せなければ全部無理であろう。直しの成否は、「全てか零か」ということになる。
汚れが多ければ多いほど、確認作業に時間がかかる。職人さんにどこに汚れが付いているのかを知らせるための手間だが、いくら丁寧に見ていても、「見落とす汚れ」というものもある。だが、職人さんの目というのは優れたもので、私が見落としたしみも、しっかり見つけて手を入れる。返送された品物の伝票には、そのことがしっかり記されている。
と、お話しているうちに、ぬりやのおやじさんから、品物が戻ってきてしまった。どのような状態になって返ってきたのか、お見せしよう。
糸印を付けた「黄変色」のところは、ほとんどわからないほどきれいな仕上がりだ。ぬりやさんによれば、全部が完璧に落ちたのではないと言う。一部は「薄く」残っているが、それが、汚れかどうかわからないほどの「薄さ」に出来たということらしい。それでもここまで直れば、依頼されたお客様には、十分納得頂けるものになった。
さて、この袴に依頼された仕事は「汚れ落し」だけではない。上の画像は汚れの糸印を付けた際に、測った「袴丈」の現状寸法。袴の長さというのは、「紐下」から袴の裾の下端部までである。この丈を長くしなければならない。現状寸法は2尺2寸5分(85cm)。これは、身長165cm程度の方の長さである。
新しく袴を使う人は180cmもある。とすれば、今の丈より最低でも10cm(2寸5分)は長く直さないと使えない。中に丈が出せるだけの縫込みがあればよいのだが、トキをしてみないとわからない。
「袴の仕立」というのは、難しいもので、出来る職人は限られている。残念ながら、うちの仕事を請け負っている和裁職人の中にはいない。そんな訳で、「袴」に関する仕立ては、産地のメーカーに依頼して、その会社が抱えている「袴を扱える職人」にお願いしている。
うちが依頼するのは、袴の織産地である、山形県米沢市のメーカー、「神尾(かんお)織物」。古い米沢織の袴メーカーであるが、最近は袴生地を使って「和履き」というスリッパを作ったり、中々意欲的なモノ作りもしている。
ということで、甲府から東京へ、また甲府に戻って今度は米沢へ、品物を受け継いで使う人のために、何人もの職人達の手が入れられる。お客様から依頼を受ける呉服屋の役割は、いわば「コーディネーター」のようなものと言えようか。
もう一つ、「黄変色直し」の品物を簡単にご紹介しよう。これは、「洗い張り」をしても取ることが出来なかった「汚れ」である。
品物は、七歳の祝着として使う「四つ身友禅小紋」。数年前に、「洗い張り」をして反物の状態に戻したのだが、今年これを使うために出してみたところ、「黄変色」部分が見つかった。おそらく、「洗い張り」を終えた時点で、「汚れが落ちずに残っていたもの」と類推される。
この汚れの箇所は、「袖」にあたる所。このまま仕立てると、「目立つところ」に出てきてしまうので、どうしても直さなければならない。もし、とれない場合は、「柄足し」をしてしみを隠す必要が出てくる。
「汚れのある場所」がどの部分であるか、ということは「直し」の仕事においてかなり重要な要素になる。もし、「下前」や「帯の下に入るところ」の汚れならば、万が一取れなくても、着た時に表から見えることはない。また、「上前」や「衿」のしみがどうしても落ちない時は、「衿の切り替え」、「上前と下前の入れ替え」など「仕立ての工夫」で対処することも出来る。
「汚れが落ちない時」にもっとも困る「しみ」の箇所が、「袖」なのである。「袖」は「代用がきかない」ところである。だから、ここの汚れが落ちない時は厄介で、様々な工夫をして、うまく「ごまかす」ようなこともしなければならないのだ。
これも、ぬりやさんから戻ってきたので、お目にかけよう。
上の画像、左上の「毬」の下あたりに、「黄変色」汚れがあったはずだが、きれいに消えている。見事なものである。これで安心して、仕立をすることが出来るのだ。
お話してきたように、「時間が経過した汚れ」というものは、様々な状態となってキモノの上に表れる。呉服屋はその「症状」を見て、どんな職人に仕事を依頼するのかを決める。いわば、呉服屋が「内科」、職人が「外科」のような役割を持つと思える。
丁寧に正しく状態を確認して、職人の手に委ねる。「直し」の仕事を受けるということは、「手の掛かること」と認識していなければ、依頼人であるお客様の信頼に答えることは出来ない。そして、この仕事は、「利益」を期待するようなものではないことも、覚悟しておく必要があるだろう。
けれども、我々が予想した以上に、うまく手が入れられ、新しい品物に生まれ変わって、お客様の手に戻すことが出来た時は、「新しい品物」を売った時とは、全く違う充実感がある。もしかしたら、「直しの仕事」の方が呉服屋の本質と呼べるものなのかも知れない。
「汚れ」というのは、時間が経過するほど厄介なものになります。しみに気づき、早い手当てをすれば、ほとんどのものが直るのです。
ご自分で、水で流したり、生地を擦らないで、「そのままの状態」で、直しに出されることが理想です。依頼する際には、どんなものでその汚れを付けたのか、例えば、酒をこぼしたものであるとか、油料理を付けたものであるとか、具体的な状況がわかれば、それもお話頂けると、有難いですね。
これがわかれば、職人の方へ「汚れの原因」を伝えることが出来て、「しみぬき」や「補正」を、的確に効率よく進めることに繋がります。ぜひ、しみには「あわてず」に対処することが大切と、覚えておいて頂きたいと思います。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。