「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は、よくご存知だろう。「華」という例えが適切かどうかは疑問だが、江戸市中において、大火災がかなり絶え間なく起こっていたという証でもある。
江戸の三大大火は、1657(明暦3)年1月の「明暦の大火」、1772(明和9)年2月の「明和の大火」、1806(文化3)年3月の「文化の大火」。中でも、「明和の大火」は、江戸城の天守閣を始め、多数の武家屋敷や町家を焼失し(大名屋敷500・旗本屋敷700・社寺300・町400以上が罹災したと伝えられる)、死者は10万人にものぼる。関東大震災や東京大空襲以前では、最大の厄災だった。
最初の「明暦の大火」は、別名「振袖火事」とも言われている。なぜこの呼び名が付いたのかには、「怪談めいた訳」がある。
この火災の火元は三ヶ所。真っ先に火の手を上げたのが、本郷丸山(現在の文京区本郷5丁目あたり)にあった法華宗の寺「本妙寺」。時は明暦3年1月18日(今の暦では3月2日)の未の刻(午後2時)頃のこと。
この日、本妙寺では、「寺と因縁のある振袖」を焼く「供養」が行われていた。この振袖には、「焼いて供養しなければならない訳」があった。長くなるが、お話してみよう。
この日を遡ること丁度2年前。日も同じ1655(明暦元)年の1月18日のこと、本妙寺に一枚の振袖が納められた。この振袖の持ち主は麻布の質屋、遠州屋彦左衛門の一人娘「梅野」であった。
この梅野の振袖は、紫のちりめん地に荒磯と菊を染め出した、袖丈の長い「大振袖」である。この品の色と柄は彼女自身の強い希望で誂られたものだった。それは、上野へ花見に行った時に出会った、一人の「寺小姓」が着ていた衣装に似せたもの。梅野はこの寺小姓の少年に「一目ぼれ」したのだ。
以来、この少年の「面影」を忘れることなく、着ていた「衣装」も忘れられなかった。そして、自分にも彼の衣装と「同じ色・図案」の「振袖」が欲しいと望んだのである。つまり「片思いペアルック」ということになろうか。
振袖そのものは、豪華絢爛たるものである。梅野は、これを着て、再び少年に出会う日を夢見ていたのだが、「病」に臥せり、亡くなってしまった。両親は「恋も知らず早世してしまった娘」の冥福を祈るため、思い入れのある「振袖」を菩提寺である本妙寺へ納めた。
さて、受け取った寺としても、こんな豪華な振袖をどうすることも出来ないので、古着屋へ売り払った。ところが、一年後の1656(明暦2)年、1月16日にまたもこの振袖が寺に納められた。今度は上野の紙商人、大松屋又蔵の娘、「おきの」の品としてである。寺では、再びこの品を古着屋に売り払った。
そして、翌年、この大火の年の正月、寺では三度この振袖と対面したのだ。今度は本郷元町の麹商人、喜右衛門の娘「おいく」の棺の上にかけられていた。
さすがに寺も、この振袖を手にした娘が、三人ともすべて亡くなるという「祟り」を諌めるために、「焼いて供養すること」を決めた。
本妙寺の庭で「振袖供養」が始まったのが、未の刻(午後2時)。読経のうちに火がたかれ、そしてついに、「因縁の紫ちりめんの大振袖」を火の中に投げ入れた。その時、突風が吹き、火の付いた振袖が舞い上げられ、本堂の屋根に引っかかった。そして、見る見るうちに、火は堂を包み込み、やがて寺から隣接する建物に次々と燃え移っていった。まさに、この振袖がはらむ「狂気」のようなものが感じられる。夭折した「梅野」が持つ、現世に対する「恨み」がこもっているのだろうか。
これが、「振袖火事」といわれる所以のことだ。今日の本題に入る前の前置きがまたまた長くなってしまった。
現代の「大振袖(加賀友禅)」。
「振袖」の「振り」とはどの部分のことなのか、そのあたりから話を始めてみよう。この形態のキモノ(小袖)が現われたのは、鎌倉や南北朝時代に遡る。この時代に見られた「脇を小さく開けた子どものキモノ」がその原型とされている。
「振り」とは、「あけられた脇」のことで、これが付けられたキモノが「振袖」であった。だから、現在のように「たもとが長いキモノ=振袖」なのではない。室町期になると、この形態が定着したが、「脇開け」のものは、15,6歳までと着用が決められていた。
近世の江戸期に入ると、この「脇開け小袖」は嫁に行くまでのもの、すなわち当時の結婚適齢期である16,7歳くらいに着用するものと意識され、20歳になる前には、「脇を閉じたもの=脇を留めたもの(これが「留袖」の由来でもある)」を着なければならなかった。
現代における振袖の「脇開け」部分。「袖付け」の下、両側に開いたところ。
画像上の身頃側の「脇開け」が「身八つ口」。下の袖側の「脇開け」が「振り八つ口」。袖側の「振り八つ口」が閉じられず、開いたままになっていることで、「振袖」の名が付いた。
現代のキモノの形態では、喪服にせよ浴衣にせよ、全ての長着にこの「振り八つ口」が付いている。つまり、袖側の脇は開けられていることになり、「形的」に言えばすべて、「振袖」ということになるのだ。もちろん、現在の「振袖」という名称は、振りの形ではなく、未婚の女性が着用したキモノという「用途」から付けられているのは、言うまでもない。
さて、江戸期の振袖に話を戻そう。先ほどお話した、「振袖火事」のエピソードの中で、この振袖が誂られる「きっかけ」のところを思い返して頂きたい。麻布の質屋の娘「梅野」は、上野の花見で出会った一人の少年の「衣装」を真似て、同じ色、柄の振袖を作らせた。ということは、少年が着ていた衣装が、「振袖」だったということになる。
この時代、「元服(13歳)」になる前の少年も、「振袖」を着用していた。それを裏付ける資料をご紹介しよう。
1687(貞享4)年に刊行された「男色大鑑(なんしょくおおかがみ)」。著者は、江戸の民衆生活を書かせたら、この人の右に出るものはいない「井原西鶴」。西鶴のことは、以前大晦日の掛け取りの話「世間胸算用」(昨年12月28日の稿)を紹介したが、これは「町人物」というジャンルにあたる。
西鶴の「浮世草子」の中でも、もっとも得意としたのが、「好色物」(いわゆる「性的」なもの・今でいう「アダルト本」)。昭和の「エロ小説」の三大巨頭と言えば、「川上宗薫・宇能鴻一郎・富島健夫」、これにSM小説の帝王「団鬼六」を加えれば、「エロ四天王」である。バイク呉服屋も若い頃、随分世話になった。今は、「映像」での「性表現」が氾濫しており、大変憂慮する時代だが、一昔前は、「巧みな文章表現」だけで「想像を膨らませてた」ような、なんとものんびりした、有る意味では、「健康的」ともいえる良い時代だった。
「昭和のエロ小説」を語り出せば、ブログ一回分では、足りないので、この辺りでやめておく。ともあれ、西鶴は江戸の「アダルトモノ」の分野でもトップランナーの位置を占めていた。
この「男色大鑑」は、その名でわかるように、「男色」つまり、「同性愛=ゲイ」の話である。その中には、大人がうら若い少年を愛するような「稚児愛」なる話が書かれている。今なら当然、「児童ポルノ禁止法違反」になる。具体的な内容はともあれ、この本には、当時の少年達が身に着けていた「衣装」も細かく描写されており、この時代の「服飾文化」を知る上では、貴重な記述になっている。
「小姓」などを勤めていた少年の振袖には、「裾模様」のものや「無地モノ」、「雲取りや縞」、また「総模様」ともいうべき、全体に柄が付けられていたものなど、様々な意匠があった。色、図案とも女性モノと遜色ないもので、その着方も同じだった。だから、「梅野」が「少年が着用していた振袖」と同じ衣装を誂ることができたのである。
つまりは、「振袖」というものには、男女の区別がなく、単純に「年齢」を表す品物であったことがわかる。男子も女子同様に20歳前になると、脇の開いた「振袖」ではなく、脇の閉じられた「留袖」を着用しなければならなかったのである。
袖における「振り」の話から、「丈の長さ」というところに話を移そう。
「大振袖」と「中振袖」の袖丈の比較。画像の上のブルー地の品物の袖丈は3尺(約114センチ)以上。下のレンガ地の品物は2尺5寸(約95センチ)
キモノというものの原型は「小袖」にあり、江戸時代にこの「小袖の意匠」が変化したことで、「袖丈の長さ」も変化していったと考えられる。江戸期以前の小袖の模様というものは、有る程度「固定化」したものだった。なぜならば、着用できる人は、武士などの「上流階級」の者に限られていたためで、「流行」と呼ばれるような変化にはなかなか至らなかったのだ。
江戸に入り、時代を追うに従って、一般町人の中から金銭的に余裕のある商人たちが現われ、その者によりあらためて「衣裳」というものが見直された。それは、今までの「小袖」に付けられていた模様や施しを進化させ、「贅を尽くした衣裳」になるような模様や柄付けが考え出されたのである。
これが、江戸初期(1615~24年)に流行した「慶長小袖」であり、その30年後(1658~73年)の「寛文小袖」であり、革新的な「友禅」という技法が生み出された元禄期の「元禄小袖」である。
慶長小袖は摺箔と刺繍、寛文小袖は鹿の子絞りと刺繍、元禄小袖は友禅と、それぞれ柄を付けるための技法に特徴があり、柄行きも年を経ることに、「大胆に自由に」しかも「豪華」になっていった。
もちろん小袖そのものに表現される柄行きや施しで、「豪華さ」を競っていったのであるが、それと同時に注目されたのが「袖の丈の長さ」だった。特に、「脇の開いた、振り八つ口」のキモノを、身に付けることができる「うら若き女性」の「小袖」は、「柄のあしらい」が豪華になるのと比例するように、「袖丈の長さ」が長くなっていった。
資料を見ると、「寛文小袖」が流行した頃の袖丈は、1尺5寸(約57cm)程度で、特に「長い」と思われる丈ではないが、「元禄小袖」の頃は、2尺2寸(約83cm)となり、さらに19世紀初頭の文化年間には、今の大振袖の寸法とほぼ同じ、3尺(約114cm)にまで長くなっていった。
「袖丈」が長くなるということは、それだけ、「袖の振り八つ口」も長くなるということであり、「若さ」を強調する意味もあったのではないだろうか。そして、これだけ袖が長くなると、もうそのキモノを「小袖」と呼ぶのには似つかわしくなく、それが「振りが長い袖のキモノ=振袖」という意味に変化していったと思われる。
今、ひと世代前の母親達が使った振袖を見ると、「中振袖」すなわち「袖丈・2尺5寸程度」の品物が多い。上の画像でみると、袖丈の短い方の振袖を参考にされたい。しかし、今の振袖を見ると、ほとんどが「大振袖」すなわち「袖丈3尺」で仕立てられている。もちろんこれは、女性の体格の変化(高身長になり、袖が長い方が見映えがするということ)が大きな要因であるが、同時に、より品物を豪華に見せることができるという、意識の「象徴」と見ることも出来るだろう。
ともあれ、現在の3尺という振袖の袖丈は、すでに200年も前から、形作られていたものなのであるが、改めて、この「振袖」という品の原点から歴史を辿れば、また違う見方も出来るような気がする。
次回は、今のキモノにおける「袖丈の寸法」について考えて見たい。キモノのアイテムにより変えられる袖丈の寸法。持っているキモノの袖丈が「まちまち」なため、襦袢の袖丈と合わないものが沢山ある、という人の話もよく聞く。
キモノの種別により、「袖丈」の変化はあるのか、また「標準」となる袖丈の寸法があるのか、またあるとしたら、それは守るべきものなのか、その辺りのことを中心として話を進めてみたい。
「江戸の華」だった「火事」と「喧嘩」は「リンクするもの」と考えられる説があります。どういうことかといえば、ここで使われている「喧嘩」というのは、「火事場での喧嘩」であり、「火消し同士の対抗意識」の果てに起されるものだということです。
「町火消し」が誕生したのは、1718(享保3)年のこと。発案は当時の南町奉行大岡越前守忠相、あの大岡越前です。この時「町火消し」に採用されたのが「鳶職人」達。彼らは身軽に飛び回り、また「家の構造」にも詳しいことから、火を消す仕事にはもってこいの業種。これ以前はそれぞれの町には、「火消し」はなく、「定火消し」という各藩の武家屋敷を守るための「火消し」しか存在しませんでした。
町ごとに作られた火消しは、「いろは48組」に区分され、それぞれ「町の名誉と誇り」を持った集団でもあったのです。だからこそ、他町の組との「対抗意識」も強烈なものがあり、それと同時に、それまでの火消しを一手に引き受けていた「定火消し」に対する意識や反発も相当なものだったのです。
この「火消し同士」が火事の現場で、消火の仕方や仕事の手順において「仲たがい」をして「喧嘩」になることは、「日常茶飯事」。それで「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉が生まれたと解釈できるようです。
また、長い稿になってしまいました。飽きずにここまで読んでいただいた方、本当にありがとうございました。