朝顔・撫子・ほおずき・鉄線・露草・菖蒲・桔梗・萩・・・。いずれも「竺仙・浴衣」の図柄・モチーフとして使われている花植物である。これらは皆、初夏から初秋(立夏から立秋)の頃に花が色づき、暑さに負けずと咲きほこる。
江戸天保年間に浅草で創業した竺仙は、今に「江戸のデザイン」を伝える会社だ。麻の葉や瓢箪、波に千鳥など、また「役者柄」ともいえる、くる輪繋ぎや菊五郎格子などがその代表柄で、そのどれもが、「江戸の粋」を感じさせてくれる。
昨日ようやく梅雨入りしたが、その前は、30℃を越える日が続いていた。先日、当店も薄物に模様替えした。今日は、久しぶりの「取引先散歩」として、夏には欠かすことの出来ない取引先、「竺仙」さんのお店の様子をご紹介しよう。
「竺仙」には小洒落た、いかにも竺仙らしいHPがあり、その店の雰囲気を伝えているが、店の中の様子までは伺い知れない。ここでは、HPには載せてない店の売り場や、店先のことなどをお話していくことにする。
渋い竺仙の玄関先。木の引き戸になっているところなど、すでに「歴史」を感じさせてくれる。
竺仙に向かうには、地下鉄人形町駅のA5出口から出る。階段を上るとすぐ左手は人形町の交差点。ちなみこのA5出口の右2軒目に「バイク呉服屋御用達」の「小諸そば」がある。
竺仙のある小舟町は、人形町の西隣の町会なので、人形町交差点から西へ歩く。辺りはビル街になっていて、江戸情緒などを感じることはできない。100mほど歩くと、正面に首都高速の高架が見える。江戸橋のICで、その下には川が見える。
この川は日本橋川で、ここにはかつて、東西から堀留川が流れ込んでいた。江戸初期のこの辺りは「河岸」であり、物資輸送の基地として重要な場所であった。「こぶな町」の名は、そんな江戸みなとの「荷揚げ場」から由来して、付いたものである。以後、明治・大正期になっても、そんな荷揚げ場の名残を留めていた。すなわちそれが、廻船問屋や、鰹問屋(鰹節)、綿布問屋がひしめく「問屋街」としての、発展である。
歩き進むと、小舟町の交差点(上の画像)近くに、「みずほ銀行・小舟町支店」があり、ここを北へ入る。実はこの銀行支店は、由緒正しい支店なのだ。なぜか、と言えば、ここは、みずほ銀行(この銀行は、バブル崩壊後の金融危機に伴う金融再編で、日本興業・第一勧業・富士の三行が合併して出来たもの)の前身の一つ、富士銀行発祥の地だからである。
明治期の小舟町には、実業界、金融界の大物が多く居を構えており、その中に、四大財閥の一角だった、安田財閥・安田善次郎がいた。彼はこの地に新しい銀行、安田銀行(後の富士銀行)を作ったのである。そんな訳で、昔の富士銀行では、この小舟町に支店長として赴任することは、「出世コース」とされていて、他の支店とは格の違う位置づけになっていたようだ。
竺仙の前へ到着。隣は駐車場だが、周りは鉄筋のビルばかりで、「のれん」が掛かっていなければ、見落としてしまうような店構えだ。この辺りではめずらしい木造3階立ての建物で、相当年季が入っている。近藤くんという、うちの担当者(まだ30代と思われる若い社員)に、「耐震は大丈夫か」と聞いたことがあるが、たぶん何とか持つでしょう、と心もとない返事である。
では、木の引き戸を開けて、中に入って見よう。
玄関先には、上がりまちがあり、靴を脱いで上る。その先は畳敷き、正面の奥は事務所になっていて、脇には階段がある。入り口の棚には、竺仙の型紙で染められた、色とりどりの日本手拭が並んでいる。問屋ではあるが、小売もしてもらえる。
日本手拭のほか、これからの季節に出番の多い「ガーゼてぬぐい」や、風呂敷類もある。朝顔や千鳥など、「夏柄」のものが多い。
商品が置かれているのは二階。一階左側の木の階段を昇る。結構勾配のきつい階段だ。
のぼりきった二階は、幾つかの部屋が襖で仕切られている。一部屋は6~8帖ほどで広くはないが、外観で見たところよりも大きい建物ということがわかる。間口は狭いが、縦長なのだ。この木の階段はかなり使い込まれていて、黒光りしている。歴史ある「綿布問屋」にふさわしい階段だ。
一部屋に集められている浴衣。二足の木の板の上に五反ずつ「さぎ」に積まれた反物。呉服問屋では、反物をまとめて置くとき、このような状態にする。これで、何反品物があるのかすぐ数えられる。
コーマ白地、コーマ地染め、男モノ、玉むし、綿紬など、種類別に積み分けられている。先にも話したように、「小売」もしているので、ここに置いてある品物を消費者が直接購入することも可能だ。ネット販売も積極的にしている。
我々小売屋に対しては、まだ寒い時期(1~3月)にその年の新柄発表会を行い、そこで見本帳や実物を見せながら、商売をする。つまり「受注」による生産が主であり、これにより、「染める浴衣の量と種類」を限定することができるのだ。
この稿に載せてある店の様子は、4月中旬頃のものだが、この時期はすでにほとんどの小売屋では受注が終わった後である。竺仙はやはり問屋としての位置づけに注力しているので、普段店に置いてある品物の量はそう多くはない。だから、夏の浴衣シーズン前にいきなり訪ねて行き、仕入れをするのは難しい。やはり、「発表会」などで事前に柄を選び、注文して置かなければ、思うような品物を手に入れることは出来ない。
竺仙は、浴衣や夏帯(麻やミンサー帯)に関しては小売の値段を決めて送ってくる。これは、扱う店が勝手に価格を決めることが出来ず、消費者がどこで買おうと、「竺仙の製品」は同じ値段ということになる。それだけ、作る品物の質に自信を持っている証ということになろう。
竺仙の浴衣に貼られたラベル。「鑑製」の意味は、江戸から伝えられている型紙と、染める職人の勘で作られている品物に込められている「覚悟」だと言う。「鑑(かがみ)」は手本になると言う意味であり、それが今に脈々と受け継がれている、モノ作りの「規範」なのだ。(竺仙HPより)
この日、竺仙を訪ねた目的の品物が、上の画像のもの。今年はもう作られていない、「さやま縮」と「みじん縞・コーマ地染め」の品を無理を言って、探しておいてもらった。男女共用に出来る、小粋な縞の浴衣はいかにも竺仙らしい「江戸好み」の品物である。もちろん三反とも買い入れることにした。
毎年作られるポスター。コピーが添えられ、その年の「代表柄」となる。今年の「ポスター柄」はまだ届いていないのでご紹介できないが、上の画像は、ここ数年のもの。「萩柄・玉むし」、「万寿菊・綿紬」、「朝顔・コーマ白地」など、その年により様々だ。いずれも、伝統から離れない、涼やかで粋な江戸好みの浴衣である。
竺仙さんのお店散歩、いかがだったでしょうか。鉄筋のビルの間にひっそり息づくような店構え。それは、頑なに江戸の伝統を守る心意気を、そのまま伝えてくれるような気がします。
「店」そのものよりも、「品物を作ること」に傾注する姿勢が感じられ、そこに「老舗」としての矜持を見ることが出来るといえましょう。そして、古い店でも、大切に使い続けようという意識も伺い知ることができます。
1842(天保13)年、といえば、大塩平八郎の乱や蛮社の獄(幕府の鎖国政策を批判した高野長英・渡辺崋山らが言論弾圧された事件)といった、江戸末期の混乱期に当たります。そんな時代に創業した竺仙の江戸染めの品物は、まさに「不易流行」を代表するような、今に生き続ける製品ということを、改めて感じさせてくれました。
竺仙の方々には、今回の店の写真撮影などのご協力、ありがとうございました。
せっかく「竺仙」さんを取り上げさせて頂いたので、次ぎの稿から二回に分けて「6月のコーディネート」として、年代別の「竺仙浴衣・コーディネート」を考え、載せてみようと思います。よろしければ、またご覧下さい。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。