「キモノ」が日常のものとされていた頃、「羽織」は無くてはならない存在だった。昭和40年代以前が舞台になっている、映画やTVドラマの女性の普段着(ウールや紬あるいは小紋、銘仙など)の上には、必ずと言ってよいほど、「羽織」がある。
この時代、女性がキモノを着て家事をすることは、どこの家でもごく普通のこと。食事の支度や掃除に掛かる時は、羽織を脱いで「白い割烹着」や「キッチンコート」を付ける。仕事が終われば、また羽織を着て日常を過ごす。部屋の中でも、キモノだけで上に何も羽織らない(いわゆる帯付きと言われる状態)というのは、あまり見られなかった。
「羽織」は「普段使い」のモノばかりでなく、「礼装用」の「黒紋付羽織」や、母親が使う入学式の定番「黒絵羽織」は、誰もが持たなければならないモノで、この時代に一人の女性が持っている羽織の枚数はかなりの数だったはずである。
「家での日常着」として、キモノが使われなくなった頃と時を同じくして、「羽織」は姿を消していく。おそらく昭和40年代末あたり、「女性は家を守る者」という意識が薄くなり始めた頃からだと思う。
それ以前の家庭は、「夫婦共稼ぎ」のところは少なく、女性の仕事は「家事」であった。結婚したら「夫の親と同居」が当たり前であり、「結婚適齢期」の娘は、学校を卒業しても「就職」などせず、「家事手伝い」という何とも「中途半端」な立場が、社会の中で容認されていた。
女性の生きる場所が「家」に限定されなくなったことと、キモノの衰退は無縁ではない。「結婚前」の「家事手伝いの娘」には、母や祖母から様々なことを教えられる。料理や掃除、洗濯など毎日の「主婦」としての仕事のほか、裁縫やキモノの扱い(着方や始末の仕方)も「覚え込まされる」。だから「否応なく」、キモノというものが、日常に入りこんだのである。
「家父長制」の時代と、まだその色を少し残した昭和40年代までが、「キモノ」を一般的な日常着とする位置づけだった理由が、ここにある。
そんな時代からすでに40年以上。「母や祖母」から、キモノの知識や着方を教えてもらったような、「家事手伝い」という立場を経験した女性達も高齢になった。現在70歳を越える人達は、そもそも自分の娘や孫と同居しているような人は少ない。当然「キモノ」に関することなど、教えてもいないだろう。それは、キモノばかりでなく、世代を継いで伝えられてきた様々なこと(家にまつわる習慣や風習など)が、ここで途切れてしまったことに他ならない。
「遠い過去のもの」となった「羽織」だが、10年ほど前から、少しだけ見直されてきたようである。キモノに興味を持つ若い世代などは、その着姿が格好よく映るという。また、「羽織」の地色や柄行きと、キモノをどのように組み合わせるかという楽しみも、そこにはあるということが、再認識されている。
若い人の持つ感性で、「羽織」というものが見直されることは、我々にとっても嬉しいことだ。たまたま先月、二枚の「羽織」の依頼があったので、今日はそれをご紹介してみよう。どちらも「春」を感じさせてくれるような、優しい地色の小紋を使った品である。
(勿忘草色 色紙四季花文様 飛び柄小紋 ・菱一 灰桜地に小茄子模様羽裏)
「勿忘草」は、この小紋の地色に近い、淡い水色のような青い小さな花を付ける。花弁は五つで一つの大きさは7~8ミリ。日本中どこにも見られ、花を付ける季節は3~5月。今が旬とも言える春の草で、この「地色」そのものが「春の色」にふさわしい色。
柄は、様々な花を描いた「色紙」を不規則に飛ばしたように付けられている。また、見ようによっては、四角に切った「切金」の中に、模様が付けられているようにも感じられる。「色紙文様」というのは、色紙や短冊、冊子の中に様々な図案が描かれているものを、キモノの意匠として使っているもの。例えば、「百人一首カルタ」の中の一枚が、そのままキモノの柄として置いてあるようなものもある。
前から見たところ。地色である「勿忘草色」が、「優しく、春らしい雰囲気」にさせている。合わせるキモノが濃い地色のものでも、これを羽織っているだけで「はんなり」とした印象を持たせることが出来る。もちろん「白や薄地色」のキモノでもよく、下に身に付ける色をあまり選ばずに使うことの出来るような、使い勝手の良い羽織だと思う。
後ろから見たところ。飛び柄小紋は、以前このブログの中でも取り上げたように、仕立てをする際の柄の位置取りをどのようにするか、悩まなくてはならない。羽織の場合、特に「後ろ姿がどのように見えるか」が問題だ。どこから見ても、無地場と柄の間のバランスが取れているような印象を持たせることが必要になる。一部で「柄」が片寄ったり、無地場が多く広がったりすようなことがないように、配慮する。
今請け負うカジュアル用の羽織の丈は、ほとんどが「長い丈」のものである。長さは膝の少し下から、ふくらはぎ辺りまでの間で、決められる。160cmの身長の方であれば、2尺5寸から6寸(95cm前後)になる。着る方の好みで、ここから1寸(3.75cm)前後の長短差はあるが、おおよそこの範囲で作られる。
羽織の丈というものは、その時代により「流行」があった。大正から昭和初期あたりの羽織を見れば、ほとんどが長い丈になっている。それが、戦後どんどん短くなり、昭和30年から40年代初めの丈は、かなり短い。寸法で言えば2尺(75cm)ほどしかない。
今でも時折この頃の羽織を見ることがある。現在、40歳代以上の方の母親(つまり70歳以上の方)が使っていた羽織は、「短い丈が流行していた」頃のものなので、当然短い。よく依頼されるのは、「丈を長くして欲しい」ことなのだが、もともと「短い丈」の反物を使って作られているので、長くすることに限界がある。
当時使われていた羽織や道行コート用の反物は、「羽尺」と区別されている、丈の短い反物であった。長さはおおよそ2丈5,6尺まで。この長さでは、「丈」はせいぜい2尺2寸(82~3cm)ほどにしかならない。つまり、今のような長い丈の羽織にはどうやってもならないのだ。
短い丈が流行した頃の寸法は、着る方の身長の半分というのが、目安になっていた。150cm(4尺)の身長の方なら、羽織丈は75cm(2尺)。もっと短い1尺9寸前後の丈も作られた。この時代、一反の反物を二人で分け合い、二枚の羽織を作るようなこともよくあり、これを「半反羽織」と呼んでいた。当時の女性は身長も低い上、流行は短い丈なので、こういう芸当が出来たのである。
もちろん現在の「長羽織」を作る上で、昔の短い「羽尺」で出来る訳はなく、使われるのは、「着尺用」の反物である。着尺というのはキモノを作ることが出来る「用尺」がある反物のことで、長さは3丈4,5尺は十分にある。だから、上の画像の羽織で使った小紋も、「キモノ」にもなる長さを持つものだ。
(黄土色 更紗文様 飛び柄小紋・トキワ商事 虹ぼかし模様羽裏)
以前ブログで書いた「小紋を見直そう」の稿に登場した品だが、「羽織」として使われることになった。地色の「黄土色」は、砂漠の砂の色を思い浮かべる色。絹の生成の色より少しだけ黄味が強いが、優しい印象を受ける色だ。春の陽光の下、ふんわり羽織られる色にふさわしい。
前から見たところ。使われている更紗の唐花模様の大きさは様々。花の形が一ヵ所に片寄らないように配置を考える。小さい柄を上手く使い「散りばめた」ような印象にしてみた。
後ろから見たところ。後ろ袖と後ろ見頃のほぼ同じ位置に、同じ大きさの花が来るように工夫された柄の配置。花で使ってある色のうち、水色が印象的。この小紋は柄は型を使うが、中の色挿しは手によるもの。このような仕事がなされているものは、小紋の中でも「加工着尺」と区別されている品である。だから微妙な色のぼかしや濃淡が効果的であり、上品さを際立たせているように思える。人の手で色挿しされているものは、反物の時よりも、このように品物として完成してみると、その良さがなおわかる。
「羽織」を使って、季節感を出す。もちろんキモノや帯だけでも「旬」を表すことも出来る。春には春の、秋には秋の、その時々を感じさせる色がある。それは、キモノと帯、またはキモノと羽織を組み合わせ、全体の着姿として表現することも可能だ。
それぞれの季節において、着る方の工夫と個性を出すことが、「キモノ」を嗜むということの本来の形なのだと思う。カジュアルにキモノを楽しむということは、自由に色や柄を使い、その人なりの合わせ方やセンスをその「着姿」で体現することであろう。そこには、難しい決め事はなく、着る方が楽しみながらコーディネートされればよいのだ。フォーマルの場とカジュアルの場(晴れと褻)におけるキモノの自由度の差は、キモノ文化の奥深さをよく表しているのではないだろうか。
箪笥の中でもっとも多く「眠っている」品が羽織ではないでしょうか。たとえ丈が短いものであっても、使えないものではありません。丈の長さはどうあれ、使うキモノとどのように組み合わせるかを考えることは、楽しみにもなります。羽織は、より様々な着姿を演出することが出来る、実に重宝なものです。
若い方なら、お母さんやおばあちゃんの箪笥の引き出しを、一度開けてみたらいかがでしょう。そこには、思わぬ美しい色の羽織が、眠っているかも知れません。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。