当店の特徴は、「扱う品物」と「それを扱う人」の落差が大変大きいという点である。
これまで、このブログで取り上げたような品物を扱っている「店の主人」は、それなりの品格と格式を持ち、「専門店」としての気構えのようなものがある。たまに、そのような店のHPを覗かせていただき、「あるじ」のお姿など拝見すると、皆さん上品で、知的であり、いかにも「呉服屋さん」にふさわしい風貌で、店にお出でになる。
京都あたりへ仕入れに行くついでに、「いちげんさん、お断り」の「高級料亭」など利用していることを、「容易に想像することが出来そう」な雰囲気がある。
「錆びたバイク」で「御用聞き」をしながら、「荷台の紐」に「預かった大量のしみぬき依頼のモノ」を括りつけて疾走している姿や、仕入れの際、人形町駅隣の「小諸そば」や「冨士そば」で、「二枚もり・イカ天付き」や「カツ丼セット」を食い込んだりしている姿など、「間違っても」想像できない。
よその「旦那衆」からすれば、「品物と扱う人」の品格は比例しなければいけない(私は、専門店の主人としてあるまじき姿)と思われるだろうが、三十年近く、このスタイルで仕事をしてきたので、今更変えようもない。
今日も、そんな「バイク呉服屋」とかなりギャップのある「品川恭子」さんの品を紹介しながら、その中に施されている「色と文様」について話してみたい。
(品川恭子 鬼シボちりめん 白茶・しらちゃ地色 天平花喰い鳥文様訪問着)
「正倉院」については、以前書いた「聖徳太子と飛鳥文様」のところで、少しお話をさせてもらったが、元来役所における「納税された物品の保管庫」という場所の「正倉」が、寺社の収蔵品の倉に変わり、それが、「宝物」を納める所となった。
南都七大寺には、それぞれ正倉院が存在したが、のちに廃止され、東大寺だけが残った。756(天平勝宝8)年、聖武天皇の后である光明皇后(光明子)が天皇のゆかりの品と薬を東大寺の盧舎那仏に献上し、それを納められたのが、東大寺正倉院の始まりである。
納められた品は、絵画や書、刀剣、ガラス品、楽器など様々であり、遣唐使により伝えられた文物が数多く含まれていた。「唐」のみならず、遠いシルクロードの果ての西アジア(ササン朝ペルシャ)などから運ばれたものや、その影響を強く受けたことを思わせる品々が残されていた。
宝物は、その文物に施された文様を見ることで、当時のデザインがどこからもたらされたのかを知ることが出来る。そして、構図や使われているモチーフには、「異国が薫る」。天平という時代がいかに「国際色豊かな」時代だったかを理解することが出来るのである。
では、上の品のほどこしで「天平」という時代を考えて見よう。まず、文様から。
上の画像は、上前におくみと身頃を写したものだが、柄全体は二種類の「花喰い鳥」と四種類の「植物」とで構成されている。柄の大きさもほぼ均等であり、全体に散りばめられているという趣だ。この鳥と植物が、「天平」の文様を強く意識したものと見ることが出来る。
正倉院の御物に描かれる鳥は、おおよそ40種類。それは、「花喰い鳥」とひと括りにされているが、それぞれ使われた文物が違い、その意図されたものにも違いがある。
「鳥」をモチーフにしたもの、例えば、聖武天皇の碁盤である「木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)」に描かれているのは一対の「インコ」であり、宝飾が散りばめられた鏡「平螺鈿背八角鏡(へいらでんのはいのはっかくきょう)」には、嘴をつき合せた「鴨」がいる。
では、この訪問着に描かれた「鳥」は何であろうか。
頭の上の「冠」に特徴のある「ヤツガシラ」。
「ヤツガシラ」という鳥は、全長30センチほどで、頭を広げると「扇」のような冠状の羽が現われるという特徴を持つ。上の鳥の頭、まさしく「扇のような羽」が付いている。頭、背、胸の色は橙褐色で、翼と尾は白と黒の縞模様。挿し色こそ違うが、特徴は掴んでいる。
御物の中に「紅牙撥鏤棊子(こうげばちるのきし)という名の付いた碁石があり、それに彫られている花や枝を咥えている「花喰い鳥」が、この「冠」を持っている「ヤツガシラ」なのである。この鳥は、ヨーロッパから中国やロシア沿海州にかけて広く分布されており、「オリエント」の香りが漂うような姿として描かれたものと見ることが出来よう。
長い尾をなびかせた「サンジャク」。
「花喰い鳥」のイメージとして、使われる「鳥」の代表格である。この図案では、何も「くわえて」ないが、元来は、花や授帯(じゅたい)をくわえている。「授帯」というのは、「官職を表す印をつける時に用いられる紐や帯」のこと。
天平期のササン朝ペルシャでは、この「授帯」をくわえる鳥のことを「含授鳥」と呼び、「高貴な鳥」という意味でモチーフにされていた。「帯」以外にも「真珠」をくわえた鳥の姿も見られたが、これは、「真珠」というものが、「王の象徴」として、冠や首飾りに使われていたことに依るものであり、含授鳥は権力の象徴でもあった。
「サンジャク」は、御物の中で「花氈(かせん)」と呼ばれるフェルトの敷物の図案の中に見える。この敷物は、シルクロードの経路にあたる「敦煌」や「トルファン」で出土した織物に似ており、西アジアから伝来されたものと見ることが出来る。
この鳥の本来の姿は、全長70センチほどで、体の大半は長い羽の付いた尾で占められている。頭は黒、体と翼は光沢のある青、嘴と足は赤。分布は、中国やヒマラヤなどで、2000m級の山が広がる高地と森林に生息する。このことからも、シルクロードの奥地から伝えられてきた鳥ということも理解出来よう。
さて、鳥とともに描かれている植物に目を移して見よう。
古代エジプトやメソポタミアで「聖なる樹木」とされた「ナツメヤシ」。
正倉院御物の中の図案に使われている植物の代表とも言えるのが、この「ナツメヤシ」である。よく知られた「羊毛臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)では、羊の背後にこの「ナツメヤシ」の木が描かれている。
この「聖なる樹木」の下に動物を配したような図案(羊の代わりに象を描いた「象木臈纈屏風」というものもある)は、ササン朝ペルシャの「聖樹獣紋」の影響を強く受けている。この文様は、「イスラム美術の代表的なモチーフ」と言えるものだ。
古代のペルシャでは、天に恵みの雨を降らせる深海があり、その海で「聖なる木(ハマオ)が成長し、木から霊薬が作られると信じられていた。この「聖樹」を中心に動物が左右対称に置かれる構図が「聖樹獣紋」である。木の下は「聖地」であり、その下に配される動物は「清められる」。「聖樹」は「生命の樹」として大切に扱われていたのである。
このことから、正倉院に伝わる宝物に描かれる「樹木」も、その木を中心に置いて、その下や左右一対に象や羊、鹿、鳥など様々な動物や鳥類が配されているのである。
上の植物は、「棕櫚(しゅろ)」と思われる。これも、稀に正倉院文様の中に見られるヤシ科に属する常緑樹。幹の先に熊手のような形状の葉を広げ、黄色い実を付ける。この図案は、「熊手のような葉と実」だけに視点を置き、描かれたものであろう。
また、下の「落款」と一緒に添えられているものは、判然としない。形状をみれば「つくし」のようにも思える。もうひとつの小さな青い花を付けたものは、「釣鐘草」を想起させる色と形になっている。
最後に、もう一度全体像をどうぞ。
天平の文様は、シルクロードを通じて、遠く西アジアや西域、そして中国大陸の各所から伝わった「異国情緒」にあふれたものであった。図案の中に描かれた動物には、伝説上の生き物である、「龍」や「鳳凰」、「麒麟」なども登場し、そのデザインはバリエーションに富んでいる。
「金銀山水八卦背八角鏡(きんぎんさんすいはっけはいのはっかくきょう)」という宝飾された鏡の周囲には、「水鳥」・「亀」・「鶴」・「鳳凰」・「龍」・「孔雀」・「鴛鴦」・「鸚鵡」・「鹿」がずらりと配され、さながら「天平のオールスターキャスト」といった観がある。
植物も、今日見てきた「ナツメヤシ」や「棕櫚」のほかに、「唐草」「葡萄」「百合」などが使われ、架空の植物である「宝相華(ほっそうげ)」ももたらされた。この花は、唐草と架空の五つの花弁を組み合わせた模様になっている。花弁は、「蓮」・「石榴」・「パルメット」・「芙蓉」・「牡丹」などで構成されているが、これも「唐」を発祥とする、天平を代表する文様である。
長くなってしまったので、「色」編については、また次回に。
「天平」と文様のかかわりについて言えば、書く材料が多すぎて、まとまりがつきません。それだけ、この時代に遠来した文物に描かれているものから、現代の「キモノや帯」の図案や色が取り込まれている証ということがいえるのではないでしょうか。それは、当時の人々が感じた「デザインとしての文様」が今に息づいていることにも繋がっているのです。
品川恭子さんの描くデザインは、「モダン」な印象が強いものですが、文様一つ一つをよく見て行くと、作品上に配される理由と、作品全体にテーマが感じられます。「モダン」なデザインではあるが、文様の意識の深さが伺え、それが一層作品の魅力を引き立たせているように思います。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。