バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

日本のシンボル花・桐文様 「黄櫨染御袍」に見る由来

2013.12 21

花札は「日本の季節」をあしらった「伝統的」カードゲームである。1月は松、2月は梅、3月は桜そして12月は桐。「ピンからキリまで」といわれるが、「キリ」は「区切り」という意味として、一年の最後の月「桐=キリ」に言葉が掛けられている。

師走も二十日を過ぎ、そろそろ今年の「キリ」が近づいてきた。そこで、今年最後の文様の話として、「桐文様」を取り上げてみよう。

 

「桐の花」が咲くのは初夏のこと、その色は「紫色」。桐が日本人にとって特別な花になったのも、この「紫」という色が関っているようにも思える。「冠位十二階」に表されている色の最上位が「紫」であり、「高貴な色」とされていたからである。

決定的に「桐」が日本のシンボルになったのは、平安時代の初期、812(弘仁3)年のこと。当時の天皇である嵯峨天皇(桓武天皇の皇子)が、重要な儀式に使う束帯装束(御袍・ぎょほう)の色と文様を制定したことに由来する。例えば、820(弘仁11)年二月の詔(みことのり)に、「則用 黄櫨染衣」の記載が見えることなどで明らかだ。

この「御袍」は「黄櫨染御袍(こうろぜんぎょほう)」と呼ばれ、特別な色と文様から形作られていた。この「黄櫨染」の色合いは「黄赤色」。元の草木である「櫨(はぜ)」の木に含まれる黄色に「蘇芳(すおう)」の赤を掛け合わせた色である。この色の掛け合わせは当時の法令により厳密に定められていたことがわかる。

それは、平安時代の律令の細目を定めた、三代格式の中の「延喜式」にその記述が見えることでわかる。「三代格式」というのは、「弘仁、貞観、延喜」の三代のことで、「延喜式」は醍醐天皇の命を受けた藤原時平によりまとめられ、927年に完成したものである。御袍に使う黄櫨は、「黄櫨綾一疋ニ。櫨十四斤。蘇芳十一斤」とその染料配合の割合まで定められている。

この時から、「高貴な色」が「紫」から「黄櫨色=黄赤色」に変わったのである。では、何故嵯峨天皇が、「色を変えたのか」ということだが、それは、やはり中国(唐)に影響を受けたことによるのであろう。

唐では、皇帝が着用する色は、「太陽が昇り光り輝くような色」であった。おそらく、それに習い、この「黄赤色=真昼の太陽」を発想したのではないかと思われる。そして、この色を作るのに「櫨と蘇芳」を用いたのだ。嵯峨天皇は、唐の皇帝と同じように、この色を「絶対禁色(皇帝以外着用できない色)とした。

それと同時に、日本が「日い出る国(ひいづるくに)」と呼ばれているように、古来より「太陽」を信仰し、皇室のご神体である「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が太陽神だったことに由来しているのであろう。日本の国旗の「日の丸」の中の赤い丸はまさしく「太陽」である。考えてみれば、この「日の丸の赤」は本当ならば「黄赤色=黄櫨色」にしなければならないかもしれない。

 

「色」の話が長くなったが、「文様」の話に移ろう。この「黄櫨染御袍」に使われていた文様は、「桐」、「竹」、「鳳凰」、「麒麟」の四種類。中でも桐と竹と鳳凰を組み合わせた「桐竹鳳凰文」は、これ以後「特別な文様」として認識されるようになる。

(鳳祝桐竹文様 錦袋帯 龍村美術織物)

上の品物は、「桐」「竹」、「鳳凰」を使った「桐竹鳳凰文様」といえるもの。製作は「龍村」である。龍村は、モチーフの出所を大切にするメーカーなので、このような文様を図案化する。「高貴な文様」ということで、「鳳祝」とは「奉祝」に掛け合わせて付けられたものなのかも知れない。

この「桐」をよく見ると、三枚に分かれた葉の上についている花のつぼみの枚数が、右から「5・7・5」で「五七の桐」になっている。これが「3・5・3」なら「五三の桐」。

「桐」の文様は「皇室」の文様として使われ、のちに、天皇から政権統治者にその「証」として、賜られた文様となった。「足利尊氏」や「豊臣秀吉」もこれを賜り、後に明治政府になってからは、天皇が直接任命した「勅任官」の上着にも付けられ、以後「日本政府の文様」として定着したのである。

現代でも、様々なところにこの「五七の桐」文様は顔を出す。例えば、日本国のパスポートの顔写真のところに、この「桐」が印されていたり、首相官邸のHPにも見られる。近しいところでは、「500円硬貨のデザイン」を見てもらいたい。このように、「桐文様」は「日本のシンボル花」になっている。

柄を近接して写したところ。龍村独特の「金糸」がふんだんに使われている。特に「鳳凰」は糸の濃淡がリアルに織り込まれていて、躍動感がよく出ているようだ。この金糸は、光の当たり方により変化し、この文様を引き立たせるものになっている。

 

(祥映桐唐草文様 錦袋帯 龍村美術織物)

「桐」と「唐草」を組み合わせた文様。「唐草柄」といえば年配の方であれば、濃緑色の風呂敷を思い起こす。昔はどの家にもこの柄の大風呂敷があり、布団包みや引越しの際に使われていた。「唐草文様」は「蔓を繋いで」表されているが、上の品の「桐」のように、花そのものに「蔓」のないものにまで、「繋ぎ合わせて」意匠化されたのは、桃山時代あたりからである。

「唐草の蔓」というのは、模様を合わせるのには、とても便利なものとなり、「桐」ばかりか、「松」や「牡丹」、「菊」など「蔓」のない花や植物に次々と組み合わされ、バリエーションを広げていった。「唐草」という文様は、時代とともにもっとも変化した模様と言えるかもしれない。

柄を近接して写したところ。「桐」に使われている色は、本当の花の色と同じ「紫」。文様としては古典的なものだが、龍村の手にかかると、どことなく「モダンさ」が出てくるようだ。「唐草」の先に織り出された「水色」がアクセントになっている。シンプルな「白地色」を使うことで、優しい印象の帯になる。

 

今日は、二点の「龍村袋帯」を例として、「桐」という文様を見てきた。帯ばかりではなく、キモノの意匠としても様々なところに使われている。「桐の花」は初夏のものであるが、「高貴な花」として意識されており、文様として、季節を問われることはない。特に、最初の品のような、「桐と鳳凰」の組み合わせは「吉祥文様」として、「格調高いめでたさ」を表しているものになっている。

日本のシンボル色「黄櫨色」と、シンボル花「桐」を生み出した「嵯峨天皇」という人物は、「文人・書の達人」としても知られている。この方が「唐」を手本にして「文化的な国家」を形作るという意識があればこそ、シンボルとなる花と色が生み出されたのであろう。

「文人」たる嵯峨天皇は、自ら詩文集である「経国集(けいこくしゅう)」を執筆・編集し、「凌雲集(りょうううんしゅう)」や「文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)」を編纂したが、彼が「和歌」より「漢詩」に傾倒していたことでも、「唐文化」の影響を受けていたことがわかる。

また、「書」は「空海」、「橘逸勢(たちばなのはやなり)と並び「三筆」の一人に数えられていたことは有名だが、特に唐へ留学していた「空海」と深い交流があったことで知られ、ここでも「唐文化」との関わりを見ることができる。

現在の皇室で執り行われる最も重要な祭祀、例えば、「即位の礼」や「立太子の礼」などに使われる束帯装束は、忠実にこの「黄櫨染御袍」が使われている。今に続く皇室の伝統柄と色の基を作った人物として、もっと世に知られてもよい人物であろう。

 

 

「高貴」な話の最後に、少し「世俗的」な話をしましょう。「花札」の原型が日本にもたらされたのは、「天正年間」のことです。「天正」というのは、キリスト教や鉄砲などがポルトガルやスペインから伝えられた時代。「天正遣欧使節」として少年達がキリシタン大名の名代として遣わされた1580年頃のことです。

その後、江戸期の安永年間には、庶民の遊び道具として爆発的人気を呼び、幕府はその遊戯を度々禁じて、「花札」そのものの製造も「ご法度」になりました。明治になりようやく解禁され、何軒もの「花札製造者」が現れます。

「任天堂」の創業者は山内房次郎という人物で、元々は「木版工芸家」であり、自ら「花札」を製作していました。この当時花札は、「花歌留多(はなかるた)」とか「花骨牌」と呼ばれていたようです。1889(明治21)年の創業以来、この会社は「手軽に楽しめる遊び」が何かを考え続けてきました。

1907(明治39)年には、日本初の「トランプ」を製造し、戦後の1959(昭和34)年には、いち早く「ディズニーキャラクター」に目をつけ、「ディズニー絵柄トランプ」を作り大ヒットをしたようです。面白いのはその「販路」で、任天堂が目をつけたのが、「タバコ屋」でした。そして、製造している「日本専売公社」と交渉した末、花札やトランプ類を売る認可を取ったのです。

昭和40年代に、「光線銃」というレーザービームのようなものを出す玩具を開発したことを端緒に、「ゲーム開発」が進められ、その後の「スーパーファミコン」や「ゲームボーイ」そして、今に至る「ニンテンドー3DS」まで、進化を遂げてきたのです。

ただ、あくまで「原点」である「花札製造」は今も続けられています。私なりに考えれば、「花札の運は天に任されている」という意味で付けられた社名、「任天堂」が息づいている証と言えるのではないでしょうか。

余談ですが、「日本の四季」が表現される「花札」の現代版(洋版)を、ぜひ任天堂にはつくって頂きたいと思います。例えば、12月の札絵柄「桐と鳳凰」を洋版にすれば、「ポインセチアとサンタクロース」になるという風に。今日も話が長くなりすぎましたので、この辺で「キリ」にします。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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