先日、あるお客様よりとても「あきれた」話を聞いた。あまりにも「情けない」ので、このブログに書くのも憚られるほどのことだ。
その方が、自分の振袖一式を娘の成人式に使いたいと思い、ある呉服屋(振袖屋)に持っていって相談した時のことである。その店の店員は、帯をひと目見て「これは、昔のモノなので寸法が短すぎて使えない」。振袖も「寸法直しのほうが高くつくし、娘さんの体格の通りに直せない」。と答えたそうだ。
私が、「物差しを当てたかどうか」聞いてみると、寸法を測ることもせず、見ただけだという。「問題の帯」を測れば、「1丈2尺弱」の「帯丈」がある。第一、大概の場合、寸法など当てなくても、母親が「成人式の袋帯」として着用できたものが、「使えない訳がない」。
キモノも「袖付け」部分の縫込みが十分あるので、「裄直し」は可能であるし、その上「身丈」の寸法は母と娘で2,3cmしか違わないのだから、「直す必要」もない。もちろんキモノの寸法も測っていないという。
「使えない」から「買ってください」とか「直せない」ので「買ってください」、と言う話に「嘘」がある。その「嘘」が消費者には見抜けない。店側が「見抜けない」と考えるからこそ「嘘」を付く。その店の従業員に「直す智恵」がないのかとも思うのだが、「帯丈が短い」などとは、誰かの「入れ智恵」(つまり経営者からの指示)と考えられる。つまり「古い品」を持ち込んできた客には、そう「対応」しろと普段から言っているのではないだろうか。
「いい加減」な話は、この「振袖」に限ったことではない。モノを売る際の「出まかせ」ともいえる「非常識」な「セールストーク」にも驚く。例えば、「紬の訪問着」を「正式な席」に着ることが出来るとか、「紬」から「黒留袖」までどんなものにも使える「万能な帯」とか、どんな「教育」をしたら、こんな「売り方」が出来るのか「不思議」である。
この話のような店は「特別怪しげな店」ではなく、堂々と「呉服屋」の看板を掲げ、従業員を何人も使い、「手広く」商いをしているところや、NC(ナショナルチェーン)として全国展開しているようなところである。
「売り上げ」を上げるためには、「何でもあり」ということだが、こうなると「呉服」に不慣れな一般消費者は、何が本当で、何が間違っているのか訳がわからなくなる。だからもっともっと難しい「品物の価格」を判断することなど、「至難」であろう。
これまで二回に亘り、「価格」の問題について書いてきた。いずれも「呉服屋性悪説」に立って話を進めたが、そうせざるを得ないほど「業界の劣化」は進んでいる。この原因は、急速な呉服市場規模の縮小により、「生き残る」ためには、「モラル」など構っていられないという事情によるものだ。
「モラル」の著しい低下は、結局一層の「呉服離れ」を進ませるだけなのだが、業界はそれに気づいていながら、止められない。いわゆる「山本リンダ状態=どうにも止まらない」である。
昔の例えに、「呉服、五層倍・薬、九層倍」という言葉がある。これは、「掛け率」の高さを表したもので、「呉服は原価の五倍、薬は九倍」という意味である。この話は、あまりに極端であるが、昔から「呉服や薬」が「差益」を高く取っていたことがわかる。
「呉服」も「薬」も原価がわかりにくい商品と言う共通点がある。現代の「薬」は、大衆薬に関しては、チェーン展開をする大規模ドラッグストアの出現で、「価格競争」を強いられている。だから、昔のような「九層倍」という訳にはいかない。しかし、「呉服」は相変わらずだ。
「売れなくなった」ことで、何を考えたかといえば、「手管」を使い、「買わせようとした」ことである。20年ほど前から(今は少なくなったが)、京都観光(祇園祭見物や保津川下り)に名を借り、「呉服販売」と抱き合わせて客の勧誘にあたったり、歌舞伎や相撲見物、各地の花火大会見物などとセットで「展示会」に連れていったりと、明らかに「目的外」のものに「目をくらませて」商いをしていた。
当然、この旅行(観光)付き「販売会」は「問屋」が企画するもので、小売屋の業務は「参加者」を集めるだけである。一般の人では、中々入れない「名刹の寺」を見物コースに組み入れたり、豪華な食事を用意したり、グレードの高いホテルを使ったりと「勧誘」しやすいように、ありとあらゆる「おもてなし」が考えられていた。
この企画の「経費」は一部が「参加する呉服屋」の負担だが、ほとんど「問屋」持ちといってよいものだ。なぜ「問屋」はこんな「負担」に応じられるのか、といえば、「販売会」に出品する「商品」の「価格」に経費を転嫁出来るからである。もちろんその品はすべて「問屋」の持ち商品であり、小売屋は何一つ出品することはない。
品物も用意せず、展示会会場や観光経費も問屋持ち、果ては勧誘するパンフレットも問屋が作る。「ただ人を集めるだけで売り上げが出来る」のなら、こんな楽なことはないと考えた者が多かったのだ。これでは、呉服屋としての仕事を何もしていないのに等しい。
「参加」する消費者も、大層な「おもてなし」を受けたからには、「空手」では帰れない。必要でも必要でなくても「何か一つくらい」買わなければならない。こんな場面で、「手ぶら」で会場から出ることが出来る方は、よほど「腹がすわった」方であろう。もちろん「勧誘」の際には、店側が参加者に「買うことを強制」してはいない。
ある呉服屋にこの商いのやり方を問いただすと次のような答えが返ってきた。「このような企画に参加する消費者には、喜ばれている。展示会があるのを承知の上、勧誘して来ているのだから、無理矢理品物を押し付けている訳でもない。消費者にも小売屋にも問屋にもメリットがある手段なのだ」。
こんなことが長年「まかり通っていた」から、本来の商いの方法やその「価格」にも麻痺を起す。この頃から、「品物」の良し悪しから「目を背ける」業界の姿が見受けられるようになった。「普通に呉服屋をしていたら、今までのような利益が出ない」、「店が維持出来ない」と考えたのである。
これが、今の「振袖屋」に繋がる。「品物の質」よりも、それ以外のサービスに消費者の目を向けさせる商いの仕方である。以前の「旅行や観劇」が「着付けと前撮り写真」に変わっただけのことである。「利便性や効率」をうたうサービスであろうとも、その本質に何ら変わりはない。
今は、もっとひどい商いも散見される。「キモノが当たりました」と成人対象者に葉書を送り、法外な値段の仕立て代と劣悪な帯や小物を購入させる業者。「着付け教室」に名を借りて、不必要な器具や品物を買わせようとする業者。最初に例を挙げたように、「普通の呉服屋(振袖屋)」でも、非常識な消費者との接し方が見受けられるのだから、もう「モラル」などというものは、どこかに吹き飛んでしまっている。真に、「恐ろしいこと」と言わざるを得ない。
今日の話は「価格」以前の問題になってしまった。「品物の質」が疎かにされているのだから、「価格」の付け方などは押して知るべしと言えよう。「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉通り、この業界の行く末は決して明るいものではない。
「バイク呉服屋」として仕事をするのは、どんなに頑張ってもあと20年であろう。その頃「呉服屋」はどうなっているのだろう。「幸い」ともいうべきか、私には後継者がいない。それは、この業界の行く末を心配する時間が限られているということになる。
私は親しい友人や、娘の友達、家内の友人などに対して(まして、自分の同窓生などはもちろん)、「商売の勧誘」をすることはありません。先方から依頼されれば、出来るだけのことはしていますが、「義理」を使う商いは「正統なものではなく、品がない」と思えます。きれいごとと言われてしまえばそれまでなのですが、「勧誘」された側に「断り難い」思いをさせてはならないと思います。
それ以前に、本当の人間関係を大事にするのであれば、「商い」にそれを使うことは躊躇するはずです。「商売上での」人と人の信頼関係は、「品物」や「仕事の進め方」、また「持っている知識や智恵」に共感してもらって始めて成り立つものであり、決して「今までの繋がり」ありき、で仕事を受けることは少し違うのではないでしょうか。
都会と異なり、地方都市では、この「今までのありとあらゆる繋がり」を軸に商いが成り立っていることは事実ですが、そのことが、「消費者」として、本来の品物の質や各々の商いの質に、目が行かない原因ともなっているのではないかと思います。
業界や様々な「呉服屋」の実態をお話しましたが、読んでいる方に、こういう「暗部」もあるということを少しでもわかって頂ければと思います。残念なことに、私がこのブログに書いたくらいでは、この状態が変わるはずはありません。また私自身が「変えなくてはならない」と意気込むこともありません。これからの全ては、お客様一人一人の「消費者としての意識」の持ち方に掛かっていると言えましょう。業界の「自浄能力」など、とっくに期待できるところを通り過ぎているのですから。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。