バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

海を見ていた午後 浜中・嶮暮帰島

2013.09 22

「海を見ていた午後」は荒井由実の隠れた名曲だと思う。「横浜・山手」にある「ドルフィン」という店で、別れた恋人を想い出しながら「一人もの思いにふける」という情景を描いている。

バックパッカー時代の私の「海を見ていた午後」は、北海道浜中町琵琶瀬という漁村から1キロ先にある無人島「嶮暮帰島」に渡り、昆布番屋から、一人見ていた海である。

松任谷由実(荒井由実)は、東京八王子にある「荒井呉服店」のお嬢様だったことは、よく知られている。この店はうちの店と違い、大店舗であり、規模も大きい。同じ「呉服屋の子ども」として生まれても、「バイク呉服屋」の私とは育ち方もかなり違うと思われる。

ユーミンが横浜から見ていた「海」も、バイク呉服屋が北の無人島から見ていた「海」も同じ太平洋だ。ユーミンの目には「ソーダ水の中に貨物船が通る」情景が映ったのであるが、私の目に映ったのは「ウミウの群れの先に昆布漁の船が通っていた」風景である。

ということで、今回のむかしたびは「北の無人島、嶮暮帰島」の話である。

 

この「嶮暮帰島」は「ムツゴロウ」こと「畑正憲」さんが動物たちを引き連れて住んだことで知られている。1971(昭和46)年の1年間だけだが、この無人島の番屋で暮らしている。それ以後は、昆布漁の時期だけ使われている「昆布番屋」以外に島に渡る人もなく、「無人島」に戻っていた。

私は、この「無人島」である「嶮暮帰島」に足しげく通っていた時期があった。1981~1985(昭和56~60)年頃のことである。ここは「島」なので、渡ることを手助けしてくれる人がいなければ行けない。以前は引き潮になると対岸の「琵琶瀬」の浜から歩いて渡れるようであったが、この頃はもう「船」でしか行けない場所になっていた。

この島のことを教えてくれ、また「船」を出してくれたのが、この琵琶瀬湾の「中の浜」という場所でコンブ漁師をしている「渡辺三夫」さんだ。渡辺さんの家は、海をへだてて真向かいに嶮暮帰島が見えるところにある。そして、島に自分の「番屋」も所有している。

北海道で働いていると、様々な人に出会うことにより、情報が得られる。現代は、パソコンのボタン一つで「知らない土地」のことを調べることが出来るのだが、「人と人との触れ合い」を求めることは難しい。「生身の情報や繋がり」というものは、直接人と人が出会うことでしか得られないものがあると思う。今の私の仕事のやり方に対する「こだわり」は、若い頃のこんな「経験」に基づいているからかも知れない。

「渡辺さん」と私の出会いは、「バックパッカーの友人」の紹介によるものだ。当時渡辺さんは民宿を始めたばかりだったが、その友人がそこに泊まってみて「私の趣きに合う」ところと考え、教えてくれたのだ。

 

浜中へいくにはまず、釧路から根室方面ゆきの列車を使う。当時知床で働いていた私は、半島のウトロの町から釧網本線の斜里へ出て、釧路に向かうか、あるいは途中の標茶(しべちゃ)というところからバスで根室本線の厚岸(あっけし)に出て、浜中に向かうことにしていた。

釧路ー浜中間の乗車時間は約1時間ほど。降りたら東邦交通(今はくしろバスに社名変更)の霧多布(きりたっぷ)行きのバスに乗り換える。列車とバスはだいたい接続しているが、バス便がない時は「歩く」ことになる。歩けばおよそ3時間ほどかかる。

浜中町は、「酪農地帯」と「漁村」に地域が分かれている。駅のあるところは町の北部の酪農地帯である。ここは良質な牛乳の生産地として知られ、今は高級アイスクリーム「ハーゲンダッツ」の原材料の生産地でもある。バスは駅から海のある方に向かい下ってゆく。当時途中に「ミンク場」というバス停があり、ミンクの生産も行われていたようである。浜中ユースホステルの前(今は風力発電の風車が廻っている)を通り、榊町でようやく坂を下り終わる。榊町は古くは町の中心地だったが、「港」の場所としては適さず、今の霧多布市街の方に移ってしまった。

まっすぐ海に向かっていた道は、「海」に行き着く直前に大きな十字路がある。左に折れ、「霧多布大橋」を渡れば霧多布の町である。渡辺さんの住む「中の浜」は右の琵琶瀬湾の方へいく。ここのバス停「新川十字路」で降りる。そして30分ほど歩くと到着である。

新川から中の浜まで湾の向こうに島が見えている。これが「嶮暮帰島」だ。道沿いの家々の庭先には「コンブ」がずらりと干されている。どの家も「海」に面して立てられているため、道の左側に家が並んでいる。右側は湿地帯や原野が広がっている。ここには夏になると様々な花が咲く。エゾカンゾーやスズランや名もない花が咲き乱れる。この頃は訪ねる人もなく、自然のまま、一面に花を付けていた。

当時の「渡辺民宿」はまさに「民宿」にふさわしく、家の中の二部屋を「宿」にしていた。だから、個人の家に泊まらせてもらっているような感じである。渡辺さんと奥さんのシモさん、それに一人娘のメグミちゃんの三人で宿を切り盛りしていたのだが、本業が「漁師」であるため、「採算を度外視」した宿だった。それは、出される料理のすごさにある。

ある秋の日の夕食のメニュー。秋鮭のチャンチャン焼き(鉄板の上で丸ごと一匹の鮭を置き、沢山の野菜と一緒に味噌仕立ての味付けで食べる。)、ホッキ貝のカレー、大ざるに盛られた茹でた花咲カニ。そのほか名もしれぬ魚の刺身や焼き物。

さすがの私も「目を剥いて」しまった。いくら「漁師」で仕入れは「海」だとしても、度を越したものだ。渡辺さんは「全部食べろ」という。この頃は民宿を始めたばかりであり、泊まる客は少なかったのだろう。そして、ここ琵琶瀬を訪ねる人はほとんどなく、霧多布さえ知る人も少ない時代だった。この宿の料金は三千円ほどだったように記憶している。

 

渡辺さんの出身は福島県の相馬である。先年の震災には心を痛めたと思う。だが、この霧多布の地は過去数度にわたり、「津波被害」を被ってきた場所でもある。1952年の十勝沖地震、1959年のチリ津波は町を壊滅させ死者を出した。これは湾が「ラッパ」のように海に向かって広がっていることで、津波が何倍にも高くなり、被害を増幅させてしまうという地形のせいである。先日の調査で、この「琵琶瀬湾」の最大の津波の高さは「30メートル以上」との予測がされている。渡辺さん自身、この地で災害を経験してきただけに、衝撃は強かったのではあるまいか。

相馬出身のため、話す言葉は「相馬弁」。最初の頃ほとんど理解できなかった。私のことを「スゥンゲルくん=しげるくん」と呼ぶ。傍にいる「シモ」さんと「メグミちゃん」が通訳してくれる。「スゥンゲルくん、スマ、イグベサ」(しげるくん、島行こうよ)。こんな感じで誘われたのが最初だ。コンブ漁師の朝は早い。3時にはもう起きて5時からの漁に備える。漁の季節は7月~10月。この間に一年分の収穫をする。嶮暮帰島にある「コンブ番屋」はこの時期に使われるものなのだ。

コンブ漁に使う船は1トンほどの小さな船である。この船に乗り水深2~7メートルほどの漁場に向かう。船の上から「ネジリ」という棹を使いコンブを引っ掛け、根元から束ねて船の上に引き上げる。そして、「満載」するまで採り続ける。それを陸にあげ、「干し場」と呼ばれる砂利が敷き詰められたところに「天日干し」される。この「干す」作業は人手がいるため、何度か手伝ったことがあるが、かなりの重労働である。何しろ採れる量が半端でないのだ。

この漁の合間に私を島に連れていってくれる。浜から島まで1キロである。ものの5分で島に着く。「ココサ、トマレ」とまず案内されたのが、「番屋」である。岸に面して建っていた番屋は4,5軒。例のムツゴロウさんのいた番屋は右端、渡辺さんの番屋は舟を付けた場所にほど近いところにある。いずれも木造でかなり古いもの、当然電気もなくランプが吊るされている。中は、すこし煤けたようになっているが、かまどで火をおこした時の煙によるものだろう。

「イタイダケ、イロ、マタムカエクルベシ」(居たいと思うだけ居ればよい、迎えには来るから」といつも言い残して船は出ていく。「無人島にたった一人」になった。ここには水道がないので「水」だけは持ち込まなければならないが、あとは何もいらない。食料は岩場から「網」ですくえば何とでもなる。「火」は番屋のかまどでもおこせるが、手っ取り早いのは、浜に打ち上げられている木切れや廃材を使えばよい。シュラーフがあれば、番屋で泊まるのは楽である。

 

嶮暮帰島は周囲が4キロほど、東西2キロ南北700メートルの「台地状」の島である。遠くから見ると島の周囲は断崖になっていて、上は平べったくなっている独特のものだ。人の存在がないため手付かずの自然を残す。

番屋のそばから、「台地」に向かって急峻な小道が付いている。道というよりも「踏み跡」というべきか。島の標高は60メートルほどなので、台地上にはわけなく登れる。上がってみると、結構広い。笹が一面に這っているところが広がり、花が終わった後のエゾカンゾーやヒオウギアヤメが群生している。この花たちの見ごろは7~8月なので、ここに来るときはいつもその時期を過ぎている。

この島に川も水源地もないが、花を育てる「湿原」がある。なぜ出来るかというと「霧」のせいだ。ここは夏に近づくと毎日「霧」が出来る。「霧多布」の語源もその「霧」から採られているほどだ。霧のせいで、水分には事か欠かない。そしてそのため気温は低く、夏でも10℃を下回る日がある。

この島はまた「野鳥の宝庫」とも言われる。コシジロウミツバメはこの島と厚岸沖の大黒島にしかもう繁殖しないとされているし、ウミウやオオセグロカモメの巣も沢山見られる。また世界最小の哺乳類トウキョウトガリネズミ(モグラの一種)もここだけにしかみつからない「幻の生き物」である。

 

霧が晴れれば、台地の上は日差しが直接当たり、秋はさわやかな風が吹く。天候の悪いときの風は猛烈だが、快晴時の島の上は快適だ。私はよく「笹の波」に仰向けにひっくり返り空を見ていた。時には「オジロワシ」が飛来する。秋空は抜けるようにどこまでも広い。「島をひとりじめ」しているような贅沢な気分になる。

島の台地の端にいくと、太平洋の海が広がる。断崖になって切り落ちたような場所なので、いきなり、前面が「海原」なのだ。秋の晴れた午後、長い時間、崖の脇から海を見ている。飽きることはない。ただ静かに見ている。これが私の、「海を見ていた午後」だ。

何も考えず、ただ自然の物音のみを聞きながら過ごす時間は、何と贅沢なことなのかと今思う。この島に行くと、「たったひとり」の孤独感はなく、心が満たされる満足感でいっぱいだった。おそらく、これからこのような経験はできないように思う。今、こうして稿を書いていても、島の光景が甦る。この地を案内し、私に自由な時間を与えてくれた「渡辺さん」には、感謝の気持ちでいっぱいである。

 

現在、「嶮暮帰島」の自由な立ち入りは禁止されています。ここは、浜中町の管理下に置かれ、ツアーなどでの立ち入りも一部にしか許可されていません。あの頃の私のように「ひとりで自由に」ということが出来なくなってしまいました。だから、なおのこと幸運だったと思います。

渡辺さんの民宿もすっかりきれいに立て直され、「民宿」というより「ペンション」のようになったようですが、料理は相変わらず豪快で素晴らしいものと思います。今は娘さんのメグミちゃんが中心になり頑張っていると聞きます。私の所に年に一度「中の浜のコンブ」が送られてきます。そのコンブの味はどこのものより美味しく、頂くたびに中の浜や嶮暮帰島の美しく、静かな光景が甦ります。私は何と贅沢な時間を過ごしたのかと、改めて感慨深いものがあります。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

(浜中・中の浜の行き方)

  根室本線 浜中駅下車  くしろバス霧多布行き・新川十字路下車 徒歩30分

  釧路駅より くしろバス厚岸経由霧多布行き・中の浜下車 所要1時間30分(1日朝夕に2往復)

  民宿「わたなべ」は中の浜バス停の目の前にあります。

(嶮暮帰島の渡り方)

希望者は「わたなべ」近くにある、「霧多布湿原センター(NPO法人霧多布湿原トラスト)」に連絡し、相談のこと。ここで島へ渡るツアーを企画している。自由な渡航は不可である。

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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