バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

シダティに願いを込めて  与那国花織紬

2020.07 01

先頃、首都圏や北海道との往来自粛が、ようやく解除された。県を跨ぐ出張や旅行は出来るようになったものの、まだ大手を振って出掛けられる状況ではない。誰しも、「ウイルスを持ち込むこと、あるいは持ち帰ること」を恐れる。ワクチンや特効薬が確立していないのだから、この状態は当分続くだろう。

ほとんどの人は、この数か月は家に籠りきりで、近くへ外出することもままならなかった。だからこの機会に、思い切って観光に行くという人もいる。また、長いこと取引先に出向いていなかったので、ここで県外訪問をする営業マンも多いだろう。実際に6月からは、うちの店にも取引先の社員が来ている。

無論、経済を回すことも大切で、こうした行動を咎める訳にもいかない。ウイルス感染の防止と社会経済活動を、どのように両立させていくか。この難しい問題を解く処方箋は、なかなか見つかりそうにない。

 

今は思い切って「遠くへ行く」ことは難しいが、完全にコロナを封じ込めた暁には、「今まで経験したことのない旅に出てみたい」と考えている人は、多いのではないか。無論、国外に旅立つのも良いが、国内だって負けていない。日本は6000以上の島で形成され、東西南北それぞれの距離間は、3000キロにも及ぶ。

では今、日本の四隅はどこに当たるか。最北端は北海道蘂取村・カモイワッカ岬、最南端は東京都小笠原村・沖の鳥島、最東端は同じく東京都小笠原村・南鳥島、最西端は沖縄県与那国村・西崎トゥイシである。

北のカモイワッカ崎がある択捉島。この日本固有の領土を、戦後不法に実効支配しているロシアが島を返還しない限り、ここにおいそれとは近づけない。また小笠原村に所属する、東端と南端の二つの島。南の沖の鳥島・北小島は、海から小さな岩礁が突き出しているだけで、とても上陸できるような島ではない。東の南鳥島も、自衛隊の基地と気象庁の観測所だけがある島で、一般の者は上陸出来ない。ということで、自由に観光で行くことの出来る日本の端は、西端の与那国島だけである。

 

東京から、実に2000キロ。最も遠い島・与那国島。人口は1680人、島の周囲は僅か27キロ。日本の中で、最後に夕陽を見ることが出来る孤島・与那国島。ここで、500年も前から織られている与那国織について、今日はお話することにしよう。

 

(与那国花織紬・草木染糸使用 手織  織手 玉城悦子)

そもそも与那国は、16世紀まで独立国だった。支配したのは、女酋長のサンアイ・イソバ。身長2m以上、肩幅1mもの巨躯を持つ伝説の支配者である。台湾に近く、東南アジアとの海上貿易の中継地となっていたこの島では、古くから様々な国を融合した文化が、育まれてきた。

16世紀に入ると、石垣島を始めとする先島諸島が、次々と琉球王国の支配下に入り、与那国でも、1522(大永2)年、イソバの跡を継いだ宮古島出身の鬼虎が討伐され、琉球尚氏王朝の傘下に入った。

琉球の織物について最も古い記載は、15世紀の李氏朝鮮の王・成宗の記録「成宗実録」であるが、その中に、済州島の漁民が琉球へ漂着した時の記述・琉球見聞録がある。そこには、この当時の与那国島の様子も描かれており、すでに藍染の麻織物を織っていたことが判っている。

その後、琉球王国が支配した17世紀(1637年)になると、過酷な人頭税が課せられるようになり、与那国の島民は他の先島諸島と同様、布を納めて(貢納布・こうのうふ)税の代用とした。この与那国の織物は、琉球王府の一定以上の身分の者だけが身に付けることの出来る、特別な献上品であった。

 

幾何学的な花織図案。模様それぞれに花の名前が付く。横段縞の直線的構図だが、花織模様と格子縞が美しく織り合わせられ、色合いに深みが感じられる。こうした優しい雰囲気の花織が、与那国板花織の大きな特徴だろう。

与那国の織物は、戦後の一時期まで商業用というよりも、自家用として織られていた。それは、贈答用の品物を知人から依頼されて織る仕事が主体であり、とても産業と呼べるものではなかった。生地は木綿か苧麻、あるいは糸芭蕉が主である。実際に、昭和30年代まで最も多く織っていたものは、芭蕉を用いた自家用の蚊帳であった。

この時代、織物を作るための物資も不足しており、原料糸は漁業用の網を解いて代用する始末で、花織には使用する色糸も無く、昭和40年頃までは、台湾製の帯を解いた糸を使っていた。この時期与那国の織物技術は、すっかり衰退していたと言えよう。

 

だが大きな転換点が、1965(昭和40)年にやってくる。この年、琉球政府が打ち出した「工業振興奨励補助」により、事業として与那国の織物技術を養成することとなり、工芸指導所が設置されたのである。このことが、島の産業として踏み出す大きな一歩になった。

先に述べたように、この頃まで与那国織の生地は、綿と麻がほとんどだった。生産者は、材料となる綿や麻を家の裏で栽培し、芭蕉は近くの山などで採取した。そして糸績み(いとうみ・長く細い植物繊維を割いて撚り合わせ、糸にする工程)は、公民館の広場を使って、共同作業で行われていた。

だが、この糸績みの出来如何が価格に直結することや、綿や麻の製品は価格が安いことなどから、次第に素材は絹にシフトしていく。原料は業者から仕入れ、染色は植物染料にこだわり、自分で染める。与那国の織物が、地場産品として定着し、また価値の高い製品となっていくのは、作り手が時代の需要に、敏感に対応した結果であった。

そして1970年代に入ると、二人の女性・徳吉マサさんと崎原キヨさんを中心に技術の伝承が進み、今なお、美しい与那国花織紬は織り続けられている。伝統的工芸品への指定は、1987(昭和62)年だった。では、どのような特徴があるのか。具体的に品物をご覧に入れながら、説明していくことにしよう。

 

与那国織には、花織の他に、ドゥタティ・シダティ・カガンヌブーと合わせて四種類の織物がある。

ドゥタティは、衿に黒い無地を使った、細かい格子模様のキモノ。生地には、苧麻や木綿、芭蕉を使う。格子の色は白・黒・青。ドゥタティとは、与那国言葉で、ドゥ=四枚、タティ=仕立てる、つまり四枚の布を使い合わせて作るという意味。袖、着丈共に短く、着ていても涼しい仕様になっている。以前は日常着だったが、今は祭りや行事の衣裳として島人には欠かせない。

カガンヌブーは、ドゥタティを着る時に使う細帯。カガンは鏡で、ヌブーは紐という意味。帯の中央には、四角の絣模様をずらして置いてあるが、これをミウト(夫婦)絣と呼ぶ。二つの絣位置が上下に少しずれているのは、夫に従う妻を意味している。

 

シダティとは、手巾のこと。読谷では「テサージ」と呼んでいたが、沖縄各地に見られる「想う人に手巾を手渡す風習」は、ここにも残っている。与那国の場合は、島の周囲が常に激しい風浪にさらされており、航海はいつの時も厳しかったので、特に「旅の安全」を祈念する意味で、手渡されることが多かった。

与那国シダティは、五つ並んだ格子模様を七スジ付けて織り、布の両端にも二スジ付ける。全部で九つある横段格子模様は、贈りびとの「九つの願い」を表す。この市松四角文様が、花織図案の基本にもなっている。シダティの生地は、麻、木綿、芭蕉で、文様には綿糸を使っている。この模様は、地の表裏が交互に入れ替わることで、市松模様となる。こうした織り方を、板花織と呼ぶ。

 

紬に織り出した花織の図案。五つの小さな四角の点で表している花が、イチチンバナ。四つが、ドゥチンバナ。この市松格子は、シダティで織りなされている図案と同じ。

こちらは、横に並んだイチチンバナと、菱形に配列したミングバナ。この品物の図案構成は、二通りの横段配列を交互につけた総模様で、シダティの雰囲気を色濃く残している意匠と言えよう。一つのパターンを連続させた単純な総模様の与那国織が多い中で、こうした品物は大変珍しい。作り手が、「シダティ」を強く意識して、図案を創っていることが判る。

板花織は、二枚の花綜絖と一枚の地綜絖を使い、色糸を緯に上下させて浮かせることで、小さな四角形が市松状に配列された図案となる。読谷山花織は、色糸が裏で遊んでいるが、板花織は地の表裏が入れ替わり、賽の目が連続したようになる。従って文様は、表裏同一。

品物に貼られている証紙。与那国伝統織物協同組合の証紙と沖縄県織物検査の証。そして、お馴染みの伝統的工芸品の伝マーク。与那国で織物組合が生まれたのは、1974(昭和49)年。その後名称を変えながら組織を改編し、法人化したのは、1983(昭和58)年のこと。組織としての体制が整ったところで、1987(昭和62)年に伝統的工芸品への指定を受けた。

与那国花織の色糸は、100%草木染。この紬に使っている植物が、組合証紙の上に記載されている。また織り人の名前も、きちんと明記されている。

イボタクサギは、沖縄の海岸に多く自生するシソ科の低木。蔓を持ち、ヒゲ状の白い花を付ける。ムラサキシキブもシソ科の低木だが、琉球に見られるこの植物は、本州のものより一回り大きく、オオムラサキシキブとして、区別されている。その名前の通り、薄紫の花が咲き、秋になると小さな粒状の実を付ける。

またシイノキは、ブナ科の常緑樹。カテキューは、別名ペグノキとも呼ばれるマメ科の喬木。古来この植物の葉や枝は、乾燥させて、胃腸薬の原料・阿仙になった。また幹の煎液は染料にもなり、鉄や石灰など媒染剤を変えるごとに、様々な色に発色する。

この花織の色糸には、橙や柔らかい茶系を使っているが、カテキューの媒染に石灰を使うと、こうした色が出る。与那国の水は元々石灰分が強いので、柔らかい色が出る。例えばシャリンバイは、他の沖縄地域だと濃い茶色に染まるが、与那国の水だとピンク色に発色する。この柔らかみのある色糸が、そのまま織に表れる。与那国の品物が柔らかく、優しい姿に見えるのは、こんな理由からだ。

 

キモノとして誂え終えた姿。横段の花織縞を交互にあしらい、全体を統一した模様として仕立て上げている。シダティの「九つの願い」を、キモノ全体で表す。そんな与那国伝統の意匠の意味が、そのまま生かされている品物であろう。

今、沖縄本島の那覇から与那国島まで、飛行機で1時間20分、フェリーだと4時間あまりで到着する。しかし戦前には、航路で二週間もかかり、与那国の人にとって、本島は遠いところだった。この物理的な距離があったことで、言語を始めとする様々な特有の文化を、今に残してきた。そして、現在伝承されている四つの織にも、この地域だけの独自性がはっきりと伺える。

人口1600人の島に、織手として仕事をしている人は30人ほど。生産量にはどうしても限界があるが、希少なだけに、この先も技術を守りながら、織り続けられていくだろう。作図、糸染め、織まで、作り手が一人で作業を貫く。そのことがまた、それぞれの品物の個性となり、作り手独自の創意工夫に繋がるのではないだろうか。

東京から最も遠い島・与那国。南海の孤島で織っている布には、今も「相手を想う心や願い」が、込められている。それは、もしかしたら、日本人が忘れかけている大切なことかも知れない。

 

与那国には、一年で、大小30もの祭礼や行事があります。琉球王朝の文化と、台湾からの大陸の文化、そして東南アジアの島々の文化。融合した文化が、祭事には表れています。祭りにおいて、神と島民の間を取り持つのは、今も女性の役割。これは中世以前に、女酋長が島を支配してきたことと、どこかに関りがあるからでしょうか。

国内と海外の狭間にある与那国島。若い時に訪ねておきたかったと、後悔しています。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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