バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

遺されしものに、会いに行く(前編・鉄道編) 上茶路・北進

2018.12 09

1871(明治4)年、明治新政府は、藩に代わる新たな地方の区割を決める。いわゆる「廃藩置県」である。最初は、3府72県に分けられたが、分割と併合を繰り返し、1都1道2府43県・47都道府県と現在の形に定まったのは、1890(明治23)年のことである。

日本は小さな島国だが、その範囲は、東西3100k、南北2800kにも及ぶ。これが、同じ日本人でありながらも、地域ごとに際立った特徴を持つことになり、それは県民性・お国柄という言葉で、表現される。

 

県民性は、それぞれの地域が持つ歴史や風土、そしてそこに根付いた文化に大きく影響を受け、形成される。例えば、現在東京に住む多くの人が他県出身者だが、本来の江戸っ子は、気風が良く、宵越の金は持たない粋人とされる。これに対して大阪人は、商人の街として繁栄してきただけに、実利主義と言われる。だから、言葉をぼやかさずに本音で語る人が多く、それが東京人から見れば、羨ましくもあり、疎ましくもある。

では、バイク呉服屋が住む山梨県はどうだろう。甲府は、四方を山に囲まれた盆地の真ん中に位置するが、こんな地勢的なこともあって、他所から来た人にはなかなか心を開かない気質がある。身内意識が高く、その分結束力が強い。よく言えば、郷土愛が強いのだが、この閉鎖的な県民性が、東京に近い地の利を生かせず、地域としての発展を阻害している大きな要因かと思える。

 

こんな閉鎖的な山梨県人と対照的な県民性を持つのが、北海道の人たちである。北海道には、「三日住めば道産子」という言葉がある。よそから来た者でも、すぐに快く受け入れる北海道の人々。それは、自分達も元々は他所から移り住んで来た者という意識を強く持っているからだ。

北海道に移り住む人が本州(北海道の人は「内地」と呼ぶ)からやってきたのは、明治初年に政府が北海道の重要性を鑑みて、開拓使を設置してからのことである。その最初は、北方警護と開拓を目的とする屯田兵制度であった。

そして、その後様々な事情を抱えた人たちが、新天地を求めて北海道へ渡る。土地を持たない農民や、継ぐべき土地を持たない農家の次男や三男が、北海道の開拓に賭けた。また、一つの地域から集団で移住することもあった。例えば、石狩の新十津川集落は、奈良・十津川村からの移住者、雨竜の新成生(しんなりう)は、山形・成生村から来た人達が、開いた土地である。開拓者は自分の故郷の地名を、そのまま新しい土地に付けたのだった。

北海道を目指した人々は、開拓民ばかりではない。それは石炭産業に従事する人たちである。明治政府は産業の育成にも注力し、中でも道内に埋蔵されていた石炭採掘の重要性を早くから認識した。1879(明治12)年に、官営幌内炭鉱が採掘を開始し、その後次々に、道内各地で炭鉱開発が進められることになる。そして北海道は、筑豊とともに、日本にとって最も重要なエネルギー基地として、役割を果たしていった。

 

厳しい自然の中で未開の土地を切り開き、作物を植え、牛を飼う人がいる。一方、「黒ダイヤ」と呼ばれた石炭の採掘に、懸命に従事した人もいる。北海道の歴史は、生活の糧を求めて、新たに人生を切り開こうとした人々の、苦闘の歴史でもある。そしてそれを言い換えるとすれば、「トライアル アンド エラー」、つまり「試行錯誤」だったのではないか。

今日は、その痕跡を辿る旅の話をしたいと思う。毎年この時期には、むかしたびの稿を書かせて頂くが、本業に関わることではないので、いつも気が引ける。けれども、これは私のライフワークでもあり、読者の方々には、どうかお許しを頂きたい。

 

(旧国鉄・白糠線 上茶路駅  白糠郡白糠町・上茶路)

JR北海道では、現在営業している路線の半分以上を、この先経営上運行困難と位置付けている。もしかしたら近い将来、稚内や根室、北見、網走から鉄道が消えてしまうかもしれない。民営化以前、最大で4000k以上あった鉄路も、すでに半分近くが廃線となった。これは、1970年代以降に道路整備が進んだことで、住民の足が車やバスに奪われ、貨物輸送もトラックに転換したことが原因だが、根底にあるものは、産業の喪失や離農者に伴う人口減少であった。

 

今から40年前の旧国鉄時代の北海道路線図を見ると、よくぞこんなところに鉄道をひき入れたものだと感心するくらい、辺地に路線が広がっている。だが、そこに鉄路を敷いたことには理由がある。それはその多くが、炭鉱から石炭を積み出したり、山から切り出した木材を運ぶための、産業路線だったからである。

産業が発展すれば、人が集まり、町が生まれる。そしてそこには、人々の生活を支える様々な施設も出来る。そんな暮らしの中で、人々が日常の中心として拠り所にしていたのは、やはり駅と学校であっただろう。

今、駅は林の中に消え、校舎は建ったままで、朽ち果てている。それは、夢と理想を持って北海道へ渡ってきた人々の、苦闘の跡ではないか。そんな「遺されしもの」に会いに行くことは、多くの人の生き様に思いを馳せることになる。そしてそれは、つかの間の時間旅行にもなろう。今年の秋は、こうした場所を幾つも訪ねてきたので、その中から、三つの集落のお話をする。今日は前編として、ある廃止ローカル線の駅をご紹介しよう。

 

最初にお話するのは、上茶路(かみちゃろ)。上の画像は、1981年の時刻表・北海道路線図だが、根室本線の釧路から西へ五つ目にある白糠(しらぬか)から分岐する、白糠線という行き止まりのローカル線があった。上茶路は、終点の北進から二つ手前の駅。地図でわかるように、釧路空港の北西に位置している。

太平洋に面した漁業の町・白糠から北へ向かって延びるこの路線は、白糠丘陵やその先に続く阿寒山地からの森林開発・木材運搬が目的だった。最初に計画されたのは、1918(大正11)年と古く、当時の鉄道施設法の中に、「釧路国白糠ヨリ十勝国足寄ニ至る鉄道」と敷設予定路線であることが明記されている。

戦争の勃発で手付かずになっていたこの計画は、戦後の1953(昭和28)年になって、建設に着手する。そしてまず、1964(昭和39)年に、白糠ー上茶路間が開業し、その8年後の昭和47年に、白糠町の最北集落・北進まで鉄路は進んだ。

白糠線が開通したこの時期には、丁度上茶路では炭鉱開発が始まり、この線は石炭運搬の役割も担うことになった。当時の上茶路は、炭鉱住宅が立ち並び、商店や学校もあった。かつてここは、白糠線の中心地として賑わいをみせていたのである。

だが、上茶路炭鉱が操業を開始したこの頃は、すでに国のエネルギー政策が石炭から石油へと転換され、石炭産業は斜陽の時代を迎えていた。そして、案の定わずか6年で、ヤマは閉山となる。他の産炭地同様、操業が止まればあっと言う間に人々はいなくなる。そして白糠線沿線人口は急減し、ピーク時の半分以下になってしまった。また林業の衰退により、木材輸送の目的も果たせず、白糠線は大赤字路線となった。80年代には、営業成績で常にワースト5に入り、廃線が本格的に取り沙汰されるようになった。

そして、1983(昭和58)年10月23日に廃線となる。廃止になる直前、上茶路駅の一日の利用客は、わずか3人。それはすでにこの地域から、人が消えつつあったことを示している。

 

終着駅・北進に停まる一両のディーゼル列車。1982年・9月の撮影

私は、昭和56~58年にかけて、三度この白糠線に乗っている。いずれも秋のことだが、上の画像は当時の時刻表で、一日3往復しかないことが判る。当時の乗客は、ほとんどが白糠へ通う高校生で、一般客と合わせてもその数は20人足らず。一両の座席が埋まることは無かった。

終着駅の北進は、ホーム以外に何も無く、駅舎も無い。また、集落から少し離れているので、通学の高校生の中には、駅まで車で送ってもらう生徒もいた。ただその集落と言っても、中心に簡易郵便局と小学校、商店が2軒あるだけである。

廃線から35年。白糠線の跡は、今どうなっているのだろう。もともと観光には無縁の地であり、過疎化の波が著しく進んでいることは、容易に想像出来る。白糠町の人口は80年代初頭の14000人から、8000人弱へと、ほぼ半減している。そこで、前から気になっていたこともあり、今年の秋、廃線の年以来35年ぶりに、訪ねることにした。

 

例年では、帯広空港から北海道に入るのだが、今年はこの白糠線跡を辿るために、釧路空港に降り立つ。空港からレンタカーを使えば、上茶路までは1時間ほどの距離である。この日は、朝一番のエア・ドゥで羽田を発ち、釧路には9時半に着いた。

空港からは、道東自動車道の庶路ICへ向かう。そこから白糠までは8k・一区間である。道央の千歳と釧路を結ぶこの高速道路だが、着工から23年経ってもまだ全通していない。道路の規格は、片側一車線しかないが、交通量が少ないのでこれでも十分であろう。走っていて、こんな高規格道路を作って、果たして採算が合うのだろうかと心配になる。採算を無視し、道を作ってしまうのは、先の見通しを持たずに鉄路を建設することと同じである。

 

白糠ICは町の北部にあり、旧白糠線の縫別(ぬいべつ)駅に近い。高速を降り、国道392号(白糠国道)を北へ走る。白糠線は元々、この国道が寄り添うように走っていた。つまり、貨物輸送を考えなければ、十分バスでまかなえたのである。

国道に入るとすぐに、鉄路の遺構が目に入る。白糠線は、茶路川沿いに敷設されたために、蛇行する川に従い何本も橋が架けられている。その数は、北進までの間で23本もある。上の画像は、縫別近くにある第10茶路川橋梁だが、コンクリート製の橋脚を八本もつけて、広い川幅の茶路川を渡っている。

国道の上をまたぐ橋梁。廃線後35年も経つのに、撤去される気配は無い。そもそもこの路線は、開業してわずか19年で廃線になったため、傷みも少ない。線路こそ撤去されているものの、こうして手付かずの橋を見ていると、今にも列車が走ってきそうだ。

橋の姿を何本も見ながら北上し、やがて上茶路の集落に入る。駅へは、国道から左へ分岐する道道の先にある。駅跡を示す表示など何も無いので、注意しながら入り口を探さなければならない。

目安にしていた地区集会所の小さな建物の前に車を止めると、その脇の草むらに一筋の道がある。到底車が入れそうもないこの道が、道道665号・上茶路停車場線。県や道が管理する道なら、舗装されているのが当たり前だが、これでは廃道同然だ。665と記された青い標識は新しいが、設置する意味はまるで無い。

草だらけの665号を200mほど歩くと、広場に出る。そして、樹木の陰に、建屋とホームのようなものが見えてくる。ここが、旧上茶路駅の駅前だった。今は晩秋なので葉が落ちて姿を見通せるが、これが雑草蔓延る夏や、雪に覆われる冬であれば、駅とは判らないかも知れない。

近づいてみると、ホームと確認できる。この駅には、コンクリート製の武骨な駅舎があったと、35年前のおぼろげな記憶を辿ってみるが、ご覧のように何の痕跡も無い。では、粗末な屋根をのせたホームはどうなっているだろうか。

私は、白糠線に乗車した際、この駅の風景を一枚も写していなかった。どこかに当時の上茶路駅の姿が判る画像が無いかと、家にある古い鉄道関連の雑誌をひっくり返しているうちに見つけたものが、下の白黒写真である。

 

廃線直前の上茶路駅ホーム。列車の傍らには、通学している女子高校生の姿がある。(鉄道ジャーナル・1983年11月号より)

偶然だが今回、この古い雑誌の写真とほぼ同じ位置から駅の姿を写している。それが上の二枚。プラットホームと屋根は、確かに同じ形状で残っている。厳しい冬を30年以上も越えて、よくぞ崩れなかったものだ。

しかし、駅の変わりようはどうだろう。もちろん、35年前の駅のホームには、樹木など一本も生えていない。しかし、長い間を経て、コンクリートの間から樹木が伸び、ホーム全体が森のようになっている。自然に帰る姿とは、こういうことなのかと、改めて思う。

だが、不謹慎かも知れないが、私はこの駅の姿を美しいと感じた。捨て去られた駅と錆びたレール、それを森が優しく包み込んでいる。滅びゆく美とも言うべきなのだろうか。この35年の間、全く手付かずで残されていたこと。この「為すがまま」であったことが、心に深い印象を残す。これが、廃線跡を観光地化しようと考え、人を呼ぶこむためにどこかに手を加えていたら、駄目であろう。

ホームから先、錆びたレールは林の中に消えている。この一帯は、ヒグマの出没地域。昨年6月には、ここから少し下った茶路集落で、山菜採りの人が襲われ死亡している。さらに、ここ上茶路でも、三頭のクマに遭遇したハンターが、親熊に襲われて発砲する事件も起きている。

もう少しゆっくり森を探索したいが、やはりクマは恐ろしい。ヒグマ除けの三種の神器、クマ鈴・ホイッスル・爆竹を身につけているものの、それとて確かな防御にはならない。その上、ここには民家はなく、人の姿は全くない。だから、襲われて叫んでも、どうにもならない。ヒグマにとって晩秋は、冬眠を前にして、最後に食べ物を腹に蓄える時期でもある。餌食になってはたまらないので、名残惜しいが去ることにする。

 

ここからさらに国道を北上して、白糠線の終着駅・北進へ向かう。相変わらず道の傍らには、橋の遺構が現れる。画像は、北進集落の入り口・北進橋から見える、第22茶路川橋梁。

北進の集落。ここの本来の地名は、二股である。この先で、本別へ向かう国道392号と、足寄町の上稲牛へ向かう道道143号(途中で林道になるが)が分かれる。道が二つに分岐する場所なので、二股という集落名が付いている。そして集落内には、右股と左股という二つの地区が存在する。

では何故駅名が「北進」なのか。それは、元々この線は、この二股が終着ではなく、池北(ちほく)線・足寄まで繋げて、北十勝線となる予定であった。二股の住民は、さらに線路を北へ延ばし、鉄路を計画通り作ることを願い、駅名を北へ進む・北進としたのである。しかし、その望みも空しく、鉄路は消えた。

(終着駅・北進 1983年・9月の撮影)

朝の一番列車に乗る高校生の姿を写している。画像の左、車の停まっている先が、集落へと向かう道。この駅は、集落から下へ降りた谷の開けたところに作られていた。おそらく、ここから先に線路を延ばす予定があり、その都合でこの立地になったのだろう。

今回残念ながら、北進駅への道を見つけることが出来なかった。少し探してみたものの、道そのものが無くなっている可能性が高い。これは想像だが、駅の痕跡は何も無く、ただ草地が広がっているだけではないかと思われる。

集落に残る、北進小・中学校の跡地。学校があったことを示す「学びの里」の記念碑が建てられている。今から17年前、2001(平成13)年には廃校となり、茶路小・中学校に統合される。統合の時の児童・生徒数は4人であった。そして校舎は撤去され、広々とした校庭と碑だけが静かに残っている。

なお、この続編として、二つの開拓地を訪ねた後編を書く予定にしている。

 

(上茶路・北進の行き方)

根室本線・白糠駅より、白糠町営予約バス・茶路沢線(一日3本)で約1時間。なおこのバスは、前日までに、運行しているくしろバス本社に予約を入れることが必要。

車では、白糠から国道392号を本別方面に向かい、33k・約50分。

 

毎年のことですが、朝、飛行機に乗り、数時間後に北海道の最初の目的地に辿り着くと、そこでは何か頭の中が真っ白になり、一時的に思考停止に陥ります。これは、短時間のうちに、過密から過疎へと環境が一変することに対して、順応できないということになるのでしょう。

今年は、羽田から僅か3時間のうちに、35年もの間、時を止めたままになっている上茶路に着いたので、その傾向はなお強かったように思います。現在から過去へのタイムラグが、たった3時間というのでは、体に変調をきたすのも無理はありません。

年に一度ですが、こんな非日常の旅が出来るからこそ、また新たな気持ちで仕事に臨むことが出来ます。しかし、毎年長々とした下手な旅の報告を書いては、このブログの読者にとっては迷惑ですよね。本当に申し訳なく思います。

次回は、また呉服屋に戻って話を進めますので、よろしくお付き合い下さいますよう、お願い致します。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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