バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

おはしょりの謎(前編)  江戸の法令が、女性の着姿を変えた

2018.09 16

バイク呉服屋では、譲り受けた古い品物を直す仕事が多い。大概が、元の品物より寸法を広げる依頼だが、縫いこみの入り具合により、直すことが出来る範囲が決るので、中にはどうにも使えないケースも出てくる。

特に多いのが、内揚げが少ないために、身丈を長くすることが出来ず、新しく着用する方の寸法通りに仕上がらないキモノ。通常では、2寸程度の縫込みを入れておき、大きい寸法の方へ譲る時の「備え」をしておくものだが、古い品物では、そもそも反物の長さが今より短いものも多く、内揚げに廻す生地が残っていなかったと考えられる。

縫いこみが無くても、胴に別生地を足し、身丈を長くする方法(胴ハギ)もあるが、ハギの位置を着姿には出て来ないところ(帯の下や、おはしょりに入る部分)に付けなければならず、その位置取りは難しい。だから、胴ハギをしてまで寸法の出ないキモノを使おうとする方は稀で、キモノとして着用することを諦めてしまうことが多い。

 

身丈として生地が足りないのは、2~3寸のこと。ひと昔前の女性の平均身長は152cmくらいで、身丈寸法は4尺前後。現在は159cm程度で、4尺2寸~3寸。だから、内揚げが2寸あればうまく直せるが、無ければ厳しくなるのだ。

私は寸法通りにならない時に、「これでは、おはしょりが出ませんね」とお客様によく話すが、この2寸(約7.5cm)というのが、おはしょりに要する生地の長さなのである。「男性のように、おはしょりの無い対丈(つったけ)で着用出来れば、良かったのに・・・」と、残念がる方もおられるが、女性の着姿で、おはしょりが無いという訳にはいかない。

けれども、このおはしょりが現在のような形となって確立されたのは、明治になってからで、江戸初期までは、そもそもおはしょりは無く、男女とも対丈であった。

現代の女性の着姿にあって、どうしても必要な「おはしょり」は、どのようにして生まれたのか。そして、どのような変遷を経て、今の形に辿り着いたのか。今日から二回に分けて、不思議なたくし上げ・おはしょりの話をしてみたい。

 

家内の小紋キモノ前姿。帯の下端から、約2寸のおはしょりが付いている。

現在のキモノの原型となっている小袖は、平安期以来、貴族をはじめとする上流階級が、公家装束として重ね着する「大袖」の下に着用する下着だったのに対し、一般庶民の間では、古くから表着として使われてきた。

貴族から武家が支配する社会に変化するにつれ、上流社会の服飾にも変化が表れる。鎌倉期はまだ、前時代の権威的な装束・大袖が公的な場所で使用されていたが、私的な場所では、小袖を多用していた。これは、武士はそもそも庶民の出身であり、小袖を表着にすることが、当たり前であったからだ。

その後、室町期になると、完全に公家の権威は失墜し、それとともに、権威的大袖を着用する意味も無くなる。そして、小袖は上流階級でも、表着として位置付けられたのである。ただ、その小袖は、庶民が着用していた綿や麻素材の無地モノとは全く異なり、絹素材で刺繍や絞りなど、贅沢なあしらいによって模様付けされた特別なものである。

こうして桃山期から江戸初期になると、小袖は、すっかり表着として定着したが、その形は、上流階級・庶民を問わず、同じだった。この時代の小袖の大きな特徴は、男女問わず「対丈」で着用しており、そのために着丈が短いこと。そして、身巾が極端に広いことが挙げられる。この時代の着姿に、おはしょりが無かったことは言うまでもない。

 

こちらは、家内の紬単衣の前姿。

かなり前に、江戸期の奢侈禁止令についてお話したことがあったが、士農工商と身分を区分けして封建体制を確立した幕府は、様々な法令で人々を統制し、秩序の維持に努めた。

その中でも、身にまとう衣服の内容を規制することは、ひと目で人がどの階級に属しているのかがわかり、体制側からすれば、手っ取り早い統制方法と言えるだろう。だから、幕府は頻繁に衣服統制に関わる法令を出し、その公布回数は、江戸幕藩体制下の260年間で、132回にも及ぶ。

人々に強いた衣服規制の内容は、武家、農民、町人と階級ごとに内容は異なるが、着用する衣服の素材から始まり、品物の染め方や織り方などの技法、色、文様に言及し、果ては被り物や髪飾りにまで規制の範囲を広げていった。

 

そして、衣服統制の法令とは別に、衣服の元となる生地=反物を生産する際の基準も、法律で定められた。全国に統一した規格を設けることは、年貢として徴収している製品を一律化出来、これがひいては藩や幕府の経済力向上に繋がるという利点がある。そして、商品流通を円滑化するという観点から見ても、重要なことであった。

こうして公布された1626(寛永3)年の「反物制」では、反物の長さと巾が、厳格に規定されている。この内容は、絹・紬では一反の長さを3丈2尺、巾を1尺4寸とし、木綿やその他の布は、長さ3丈4尺、巾1尺3寸とするもの。この尺寸法は、鯨尺ではなく曲尺を使っているので、少し判り難い。読者の方には、なおわからないと思うので、メートル法に換算してみよう。

江戸時代の計量法では、鯨尺の1尺=曲尺の1尺2寸5分と規定されていたが、これは、室町期には1尺2寸と定めていたのを、さらに5分広げたもの。そこで、この寛永反物の寸法だが、絹反物の長さは、30.3×34で10m30cm、巾は42.4cmとなる。

現在の反物の長さは、一反を鯨尺で3丈4尺、巾9寸7分と規定すると、37.8×34で12m85cm、巾は36.6cmとなる。寛永反物と比較すると、長さは2m50cmほど長いが、巾は5cm以上短くなっている。

 

この寛永寸法から、何が読み取れるかと言えば、反物の長さが短いこということは、現代人と比較して小柄だったことを割り引いても、今よりも身丈に生地を必要としなかった=対丈で着用していたこと。

また、反巾の広さは、この時代の身幅の広さを象徴している。江戸初期は、裳を付けることで身巾を広く取っていた前代までの慣習が残り、この時代のキモノ前巾は、実に1尺以上(40cm)という広さだった。現在のキモノの前巾を6寸5分(24・5cm)とすれば、その差は前だけで15cmも違う。こう考えると、江戸初期のキモノは、2mもの生地を巻きつけ、スカートのように使用していたと判る。

極端に身幅を広げていた原因は、正座をして生活する習慣が無いことや、帯が細紐で簡単に結んであるだけなので、前の合わせを深く取り、着崩れないようにする必要があったためと考えられる。このように、前後の身幅に2m近くも布が必要だったからこそ、反物の巾も広くなる訳で、そうでなければ、キモノとして仕立てることは出来なくなっていた。

 

私の母が使っていた古い結城紬を、仕立て直して着用した姿。内揚げに縫いこみが入っていたので、母より10cmも身長が高い家内でも、使えるようになった。画像で判る通り、きちんとおはしょりも作れている。

 

さて、基準として長さと巾が定まった反物だが、1664(寛文4)年、突如として新たな寸尺制度が設けられ、内容が変更になった。それは、絹・木綿を問わず長さを2尺長くし、3尺4寸としたこと(巾は従来のまま)。つまり、どの生地も60cmほど長く作れとお達しが出たのである。

では何故、幕府は反物を長くしようと考えたのだろうか。お触れまで出してわざわざ改訂するのだから、それなりの動機があったはずだ。ということで調べてはみたが、よくわからない。けれどもこの時代は、明暦の大火(1657・明暦3年)の後で、いわば江戸が復興途上にあった時期と重なる。江戸市中を焼き尽くした大火事は、建物はもちろん、江戸中の衣服を焼失させた。

だから、武家・町人を問わず、新たに衣服を誂える需要は、相当に高く、呉服屋への注文も殺到していたらしい。「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、「大火事になると、呉服屋が儲かる」のである。この反物の高い需要が、寸法の改訂と何か関係があるような気がする。これはバイク呉服屋の私見なので、見当はずれかも知れないが。

 

こうして、反物は長くなったのだが、当時の女性達は、増えた2尺・60cm分の生地を切り落として残そうとは考えず、着姿に取り入れようとした。つまり、身丈分に足し入れて、長い丈のキモノを誂えたのである。単純に2尺分を身丈に振り分けると、身丈はこれまでの寸法より、4~5寸長くなる。

これまで、身長に応じた身丈のキモノを作り、「対丈」で着用していたものを、4寸も長くしてしまえば、当然裾を引きずってしまう。無論、使い難いこと極まりなく、屋外では裾を持ち上げて、歩かなくてはならない。

けれども、長い着丈のキモノは女性の間であっという間に普及し、室内では、長すぎる生地をたくし上げながら、また外では、褄を片手でつまみながら歩いた。だが、いかにせよ長い丈のキモノを、そのまま対丈で着用することには無理があり、何らかの方法で生地をつまんで止めて短くし、着用しやすい丈にする必要が生じていた。

 

つまり、この「キモノの丈を短くはしょる」発想こそが、「おはしょり」の原点なのである。そして、各々の女性は、抱(かかえ)帯や扱(しごき)帯という細紐帯を使ったり、少し前から徐々に寸法を広げ始めていた帯の前部分に、余った生地を入れ込んだりして、長さ調節をした。

いずれにせよ、この時代のおはしょりは、キモノを着用した後に、生地を始末して長さを調整するもので、現在のように着用する過程の中でおはしょりを作り、長さを適正化する方法とは全く異なる。

こうして、江戸・寛文期に出された反物の長さの改正は、女性達のキモノの長さを変え、ひいてはおはしょりを作る必要性を産み出した。まさに、着姿を変えたのである。この「おはしょり」が今の姿になるまでには、まだ紆余曲折がある。次回は、その過程を辿ることにしよう。

 

江戸時代、女性は長くなった生地を、そのまま着丈に入れ込みましたが、なぜ、当時の男性は同じようにしなかったのか、疑問が残ります。けれども、仕事で動き回る男達にとって、余計な生地が付いたキモノは、使い勝手が悪く、そぐわないと考えたのでしょう。だから、対丈のまま着用することを選んだように思います。

そして、江戸女性がキモノを長く作ろうとした理由の一つには、着姿を変えて、美しく見せようとする「美的追求の本能」があったからでしょう。幕府により、厳密な衣服規制が掛けられた時代ですが、人々は抑圧されればされるほど、様々なことに着目し、新たな工夫を凝らそうとしたに違いありません。

そんな江戸女性のバイタリティが、「おはしょり」を産み出したと言っても良いのかもしれませんね。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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