バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

母が遺した品々(2) 呉服屋生活を彩った、三枚の結城紬

2017.11 04

相続の手続きとは、何と厄介なものか。母親が遺した財産など、たかが知れているというのに、本人や相続人の戸籍謄本や印鑑証明、銀行の証明等々、様々な書類を準備しなければならない。

父や妹は、最初から手続きを面倒がっていたので、仕方なく長男たる私が、その役割を引き受けた。中でも厄介だったのは、亡くなった母の出生から現在までの戸籍謄本(原戸籍・除籍謄本・現在の戸籍)を用意しなければならなかったこと。母が父と結婚する前の戸籍など、出身地の役所に出向いて取ってこなければならず、面倒である。

母が結婚前に暮らしていたのは、桃の産地として知られている旧一宮町。ここは、甲府から車で東に40分ほどの距離にある。現在は町村合併により、笛吹市に属しているため、原戸籍謄本も、この役所に保管されている。

 

母の原戸籍を受け取って、その記載事項を見ると、今まで私が全く知らなかったことがわかってきて、実に興味深い。母の出生地は、台湾・台南市。出生届を出した場所は、台南警察署で、届け出人は母の父、つまり私の祖父であった。

祖父は、内務省から台湾総督府に出向していて、母が生まれた1930(昭和5)年当時、台南州高等警察課の警部補であった。戦前まであった内務省は、地方行政から警察を始めとして、内政一般の行政に対し、強大な権力をもっており、役所の中の役所と言われていた。

高等警察とは、一般の警察とは異なり、国家の根本を危うくする勢力を排除するための組織。つまりは、政治警察であり、1925(大正14)年の治安維持法成立以後は、秘密警察的な役割を強めていった。戦前の国家主義に反する勢力と位置付けられていた、社会主義や共産主義者の動向を注視、摘発するだけでなく、次第に、思想・信条・信教の自由を、国民から奪い取る最前線の組織となっていった。

であるから、戦前の高等警察は国家を維持するための、最重要機関であり、それを管轄していたのが内務省・警保局保安課だった。内務省に入省したキャリア警察官僚は、まず警部補として地方に着任後、3~5年で警部、さらに課長となって10年ほどで本庁に戻ってくる。地方に出るということは、戦前ならば、植民地である台湾や朝鮮、そして樺太の行政府も含まれていた。

 

祖父は、大学卒業後すぐに官僚になった訳ではなく、最初「みやこ新聞」という新聞社に勤めた。この新聞は東京の地方紙で、現在の東京新聞の前身にあたる。

何故、新聞社から官僚への転進を図ったのか、わからない。だが、難関の高等文官試験に挑んだのは、それなりの目的と意思があったのだろう。母の弟・叔父の話だと、合格して内務省へ入ったものの、回り道をしていたので他の入省者より年齢が高く、スタートで出世競争からは外れていると考えたそうだ。だから、最初の任地は、自ら進んで外地・植民地の台湾を選んだらしい。

驚くことに、戦前の台湾総督府の全容を知る資料を、今ネットで見ることが出来る。「台湾総督府職員録系統」と呼ばれるもので、これで探すと確かに祖父の名前がある。台湾へ赴任したのは、母が生まれた年の昭和5年。亡くなる前の年、昭和13年には、高雄州高等警察課の課長で警部。住んでいたところも、高雄市入船町の官舎と記載がある。祖父は台湾で、戦前の悪名高き「特別高等警察=特高」の幹部だった。

 

祖父は昭和14年に亡くなり、祖母は母を含めた4人の子どもを連れて、故郷山梨に戻ってきた。官僚である夫を早くに亡くし、幼い子どもばかりが残された時の心境は、如何ばかりだっただろう。小学校4年だった母には、父の記憶は断片的にしか残っていなかった。もし祖父が早逝していなければ、母の人生は大きく変わっていただろう。私の父と結婚することは無かっただろうし、もちろん私も生まれていない。

今日は、そんな運命のいたずらで呉服屋の女房となった、母が遺した品物を御紹介しよう。前回は、フォーマルの黒留袖だったが、今回は普段の仕事着として、毎日のように着用していた結城紬である。

 

藍染糸 青海波総亀甲絣模様 地機・本結城紬

母が、普段仕事着として使っていたのは、ほとんどが紬類であり、小紋のように柔らかく、生地が垂れるものは少ない。よって、遺された品物の多くが織物である。しかも、地色は単色で模様に色目のついていない、シンプルなものが多い。これは、組み合わせる帯次第で、自由に雰囲気を変えられるようにする意図が伺える。

好んだ地色は三系統で、藍と紺、白地とベージュ、濃茶と泥。単純に言えば、青・白・茶の三色になる。だが、図案は古典的なものより、どちらかと言えばモダンで斬新な模様を好んだ。ありきたりではなく、単純な中にも一工夫あるような個性的な品物だ。

これから御紹介する三点の結城紬にも、そんな母らしい好みが、見えている。

 

波か山を連ねたような総模様の珍しい結城紬。前身頃の模様は上向き、後身頃は下向き。総柄の場合、模様の向きをどちらか一方に統一して仕立てるのが普通だが、このキモノは違う。おそらく、前姿と後姿の見え方に変化を付けようとしたのだろう。

結城紬の絣と言えば、もちろん亀甲だが、この品物の小さな山型に区切られた中の亀甲絣は、画像でご覧の通り、多様である。織り糸は、藍ひと色だが、それぞれの絣文様に変化があるために、自然に全体の色の表情にも濃淡が出来る。これだけ、様々な亀甲絣を組み込んで連ねてある品物には、なかなかお目にかからない。

それぞれの絣を拡大してみた。区切られた図案の中の絣には、ポピュラーな亀甲十字絣をめいっぱいに並べたものと、亀甲の中に十字絣を入れない蜂の巣状の模様、さらには、4つの亀甲十字絣を十文字に組み合わせて、少し地を空けた図案が見られる。この三種類の模様が、交互に並んでいる。

結城紬の絣作りは、大変手間がかかり、考えられないほど根気の必要な仕事だ。まず最初に行うのが、墨付け。これは、模様の設計図案を、整経が終わった絣糸の経緯双方の糸に押し当てながら、括る位置には墨で印を付ける。

まず前段階として、緯糸は、反物巾・おおよそ9寸5分~1尺ごとに綿糸で括り、印を付ける。これは、織る際、絣を合わせるための目印になるもの。緯糸の墨付けは、予め図案を筒に巻いておき、その上に束ねた緯糸を当て、先ほど付けた反巾限界を示す耳の目印を、図案の耳に合わせながら、絣模様を緯糸に写し取って行く。経糸では、図案を筒状にせずに、二つに折った状態で糸に当てて写す。

この墨付けした箇所が、綿糸で括る部分となる。これが、「絣くびり」と呼ぶ工程。綿糸で括る力が弱いと、染料が模様の中に滲み出てしまう。だから、絣くびりの作業は男性の仕事だ。括りは、綿糸を二回巻き、糸の片方を歯で噛みつつ、もう一方を手で引いて縛り上げる。この作業は、70・100・120と、一反巾の中に絣の数が増えるほど、括る回数も増える。一反分の括りは、数万箇所にも及ぶため、この仕事に費やされる日数は、月単位となる。

 

上の品物のような凝った図案だと、極めて正確に墨付けをする必要がある。一箇所でも狂いがあると、全ての模様のバランスを崩してしまう。また、設計段階で、どこにどんな種類の絣模様を置くのか、予め決めておかなければならない。それは、キモノとして仕上げた時に、どのような表情に映るのかを、すでに想像出来ていなければならない、ということなのである。

図案作成、墨付け、絣くびりは、一点の結城紬を織り出す時の、まさに肝に当たる工程であるが、その前には、原料である真綿をつくしに引っ掛け、手で引き出すという、気の遠くなるような糸紡ぎの作業や、細かい絣模様を針の先で合わせながら、人の手で織り進めるという製織の作業もある。17、8にも及ぶ結城紬の工程全てが、人から人へと受け継がれた、技術と智恵の賜物と言えよう。

 

藍染糸 唐草総亀甲絣模様 地機・本結城紬

二枚目のキモノは、全体を唐草であしらった品物。縦横に繋がる蔓が、模様に一体感を与えている。唐草は、図案のモチーフとしては珍しくないが、結城紬の全体柄として表現されることは稀だと思う。

私がまだ小学生だった頃、このキモノを母が着ていた記憶がある。なぜ、印象に残っているかと言えば、唐草模様の大風呂敷が、母の桐箪笥に掛けられていたからだと思われる。おそらく、風呂敷と、母が着用していたキモノの模様が、子どもの私には同じものと感じられたのだろう。そんな訳で、私にとってはこのキモノは、今日御紹介している三枚の結城紬の中で一番馴染み深い。

ご覧のように、一列に亀甲十字絣が並んでいる。絣の大きさは、前の品物より幾分大きい70亀甲。

三点の結城紬はいずれも、昭和40年前後に織られたもので、すでに半世紀が経っている。母は、何回か洗張りをしたので、糊が落ちて、生地はかなり軟らかくなり、良い風合いとなっている。結城紬は、「最初は単衣で着用して生地をほぐし、後で袷に仕立て直せ」と言われる。また、本当かどうかわからないが、その昔の旧家などでは、「新しい結城はまず女中に着せ、奥さんが使うのは、一度洗張りした後で」という話もある。

洗張りをするごとに着やすくなるというのは、糊が落ちるからだ。撚りをかけない結城の手紡ぎ真綿糸は、切れやすい。これを防ぐために、工程の途中で小麦粉で作った糊を糸に付ける。綛上げの前に下糊付けをして、ほぐして乾燥させ、一度綛上げを終えた後で糸車に巻いた後、また糊付けをする。さらに、ボビンに巻いて再度綛上げしたら、もう一度糊を付ける。糸の強度を増すためには、糊付けを十分行う必要があるからだ。そして、糸括りを終えた絣糸を染色後、括りを解いた時にも糊を付け、乾燥させる。これを本糊付けと呼ぶ。

裾から、後身頃の模様を写したところ。

反物として織り上がった後には、水にさらして小麦粉糊を抜く作業も行われるが、完全には除去できない。もちろん、仕立てをする前には、湯通しもするが、それでも糊のゴワツキが少し残る。これが、最初の着心地に影響するのである。だから、くりかえし着用して生地を軟らかくし、その上で洗張りをして残っている糊を抜けば、軽くて軟らかくて優しい、真綿糸が持つ風合いが出てくる。

そして、洗張りをするごとに、さらに着心地は良くなる。使えば使うほど、結城紬本来の良さを感じることが出来るのだ。だから、30年50年と時を経て、代を繋いで着用することこそが、この紬には必要なのである。

 

藍染糸 市松総亀甲絣模様 高機・本結城紬

上の二点と同様、キモノ全体を一つの図案と考える、いわば総模様の品物。これは、絣部分と地空き部分を交互に市松模様で組み込んでいる。

市松の絣部分を見ると、微妙に色が違う。藍の色に深く染まった絣と、白く抜けたように感じる絣とがある。作り手は、この色を目色(地の絣目の色)として、模様に映る色を最初に決めておく。この構想に従い、糸染めをする。この品物の糸は本藍染めなので、色を指定して紺屋に染を依頼したものであろう。

市松模様に配された絣部分を拡大してみた。整然と並ぶ模様には、染モノにあしらわれている時の市松文様とは異なった、独特の美しさがある。藍の濃淡だけで表情を作っているが、その単純さが、シンプルな古典模様をモダンな姿に変えている。

 

最後は少し駆け足になってしまったが、今日は母が呉服屋の女房として、毎日のように着ていた、三点の結城紬を御紹介してきた。遺された貴重な品物は、家内と妹で分け合って、大切に着用することとなった。妹は、母より少し背が高く、華奢で身巾がかなり違う。家内は、10cm以上背が高い。いずれにせよ三枚とも、一度洗張りしてから、仕立て直さなければならない。これでまた、一段と着心地は良くなることだろう。

では、今日御紹介した品物を、画像でもう一度どうぞ。なお、角度を変えて写したので、上の画像とは、色目がかなり違って見えることをお許し願いたい。

 

 

中島みゆきさんが歌う「糸」。なぜめぐり合うのか、いつめぐり合うのか、人は誰も知らない。遠い空の下で生きてきた、違う二つの人生は、ある時偶然に重なり合う。そして、経と緯、二本の紡いだ糸は、家族という名前の布を織りなす。

私が生まれる遥か100年ほど前、祖父と祖母が出会い、結ばれました。志半ば、若くして異国の地で亡くなった祖父は、私の母を残します。祖母は、切れ掛かった糸を懸命に紡いで、大切な布を守りました。そして母は、父と出会い、新たな布を織りなして、私が生まれます。

「糸」の最後の歌詞に、「逢うべき糸に、出逢えることを、人は仕合わせと、呼びます」とあります。「仕合わせ」とは、偶然の良い出会いという意味です。一つの家族には、それこそ数え切れないほどの「仕合わせ」があって、今があると思うのです。

私が今、ここで生きているのは、多くの「仕合わせ」があるからこそ。だから、生まれてきたことだけでも、奇跡であり、それはとても「幸せなこと」と思います。

 

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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