バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

西陣織工業組合のこと 眼鏡型証紙と品質表示(後編)

2015.09 16

経糸は玉繭からとられた絹糸、緯糸は強い撚りをかけた綿糸。これを交互に織り込んだ絹・綿交織縮が、「豊田織」である。

1891(明治24)年、東京の紬問屋・秋場により考案されたこの織物は、縮独特のシボにより、さらりとした着心地を感じることが出来る品物。キモノが日常着だった戦前までは、価格も安かったため、大いに重宝されたものだ。

豊田織というのは、秋場が織工場を置いた村の名前からとられていた。茨城県結城郡豊田村である。のちに石下町となり、現在は水海道市と合併して常総市となる。

豊田や石下・水海道は、江戸時代から水運の町として発展してきた。西側を流れる鬼怒川が利根川と結ばれたのを契機に、会津や下総からの荷物運搬基地として、役割を果たすことになる。また、豊かな水と豊穣な土を利用した綿や藍の栽培も盛んであり、これが豊田織や石下紬産地として発展する礎となった。

 

この度の鬼怒川決壊による大水害は、言葉を失うほどの惨禍である。石下紬の産地組合・結城郡織物協同組合の事務所は、常総市役所のすぐ近くにある。ここも水に浸かってしまったのではないか、と気にかかる。さらに各機屋はどうなっているのだろうか。

「線状降水帯」という聞き慣れない気象条件により、長時間の豪雨にさらされたことが川の増水・堤防の決壊に繋がってしまった。ここ数年の異常気象は、想定外の事態を生み出す。これは他人事ではなく、日本中どこにでも起こりうることである。

石下産地の方はもとより、被災された全ての方々に、心よりお見舞いを申し上げたい。

なお、このブログの中にも石下紬についての記述がある。(昨年9.30 気軽に楽しめる単衣縮・生成色石下紬)関心がある方は、ご参考にされたい。

 

さて、今日は西陣織工業組合について、話を進めてみる。前回の稿から少し時間が経ってしまったが、眼鏡型証紙とともに帯に付けられている「品質表示」について、考えてみよう。

 

2008(平成20)年より、眼鏡型証紙の表示が変更された。それまでは、「正絹」と表示されていたものが、「西陣織」と変わった。そして、帯地の素材に何が使われているのか、という品質の仔細については、帯を製作したそれぞれの織屋が、責任を持って表示することとなった。

以前の「正絹」表示は、絹という材質が使われていることを明示したものだが、「西陣織」表示だけでは、組合に所属している織屋が製作したことを表しているに過ぎない。だから、小売屋や消費者に品質をより明確にするためには、材質を明らかにする必要があった。だが、この新しい表示は、帯の素材である「糸」について深く認識されていないと、誤解を招く可能性がある。

消費者にとって、この品質表示を読み解くのは、かなり難しいだろう。そもそも、帯の元になる糸がどのように作られているか、などということを理解されている方は、稀である。そこでこれから、一本の帯を例に取りながら、表示の見取り方を説明していくことにしよう。

 

(入子菱花菱文錦 袋帯・紫紘) この帯に付けられている表示は下記のもの。

帯の素材表示。絹・80% ポリエステル・10% 紙・5% レーヨン・5%

この表示をご覧になって、不可解に思われる方が多いのではないか。人によれば、「えっ?絹100%ではないの、化繊が入っているなんて、なんだか騙されているみたい」と不信感をつのらせた方もいらっしゃるだろう。また、帯のどこに「紙」が使われているのか、不思議に思われる方も多いはず。

紫紘が織るような高級な袋帯に、ポリエステルだのレーヨンだのの化繊が使われていることに、違和感を持たれてしまうことは、むしろ当たり前のこと。消費者には、絹100%のものは高い品物で、化繊が混じったようなものは、安いものという、品物を見る時の「常識」がある。

だから、化繊を使ったことを表すこの表示だけを見ると、品物に対して不信感を持ってしまう。

 

上の帯地の裏側を写したところ。様々な色と質の糸が使われて織り出されている。

帯には、沢山の糸が使われている。糸それぞれには多様な細工がされた上で、織り糸になっている。糸の加工方法がどのようなやり方か、ということは帯の品質を大きく左右する。もちろん、価格にも大きな影響を与える。

上の織画像で、金糸が沢山使われているのがわかる。単純に金糸が多い帯だからといって、価値があり、価格が高いということはない。問題は、どのような金糸が使われているか、ということだ。

まずは、金糸がどのように作られているか、ここから説明して行かなければ、理解して頂けないだろう。そして、これをお話することにより、何故帯地に、ポリエステルやレーヨンなどの化繊や、紙が使われているかがわかる。

 

金糸というものは、芯になる糸にテープのようなフィルムを巻き付けて作られている。この芯として使われる糸の素材は、ほとんどがレーヨン、あるいはポリエステルであり、巻き付けるフィルムそのものは、ポリエステルで出来ている。これが、「ポリエステル10%・レーヨン5%」の表示となって表れる。おそらく、この比率から類推すれば、この帯は、芯糸がレーヨンであり、フィルムそのものがポリエステルということになろう。

問題はここからである。金糸そのものの質がどのような代物か、ということだ。これで糸の品質に差が出る。フィルムに貼られた金は様々である。上は純度の高い本金箔から、下は銀に黄色い塗料を塗って金に見せかけたような、まさに山口百恵状態・イミテーション・ゴールドになっているようなものまで。

 

金糸の最高級品というものは、まず和紙の上に漆を塗り、そこに本金箔を貼り合わせる。これを裁断してフィルムの上に撚り付けるのである。品質表示に見える「紙・5%」の紙とは、金箔を貼った和紙のことである。高級な金糸には、和紙が使われている、つまり帯の品質表示において、和紙の比率が高いものほど高級品であり、価格が高くなるということが、言えるのではないか。

では、山口百恵状態の金糸はどのように作られているのか。これは、フィルムの上に銀を貼り光沢を出させた後、黄色い塗料を塗る。こうすると金属の光沢と相まって、金色となる。金属素材が銀ではなく、アルミニウムが使用されることもあるが、いずれにせよ「作られた金」であり、本当の金ではない。正直に品質表示がされている帯ならば、「銀やアルミニウム」の記載がある。

帯に記されている品質表示の中身とは、このようなものである。最初にお話したように、見ただけではとても消費者に理解されるものではないだろう。ただ、それぞれの材料がどのように使われているのか、ということを知っておくと、その表示から見極められることが出てくる。

引き箔帯で、紙が多く使われているものならば、本金箔が使われている高級品と見ることが出来る。そして、ポリエステルやレーヨンが使われているからといって、それが決して粗悪品や安物ではないことも、おわかり頂けたと思う。また、和紙使用の本金箔糸と銀やアルミニウム加工の糸との価格差は、かなりの開きがあることも理解されよう。

 

それにしても、この品質表示だけでは、何とも消費者に判り難く、不親切である。しかし、上に述べたような説明を、全部帯に表示する訳にも行かないだろう。これは、如何ともし難く、歯がゆく思う。ただ、消費者の方々が、疑問に思い、調べてみると理解が進む。そしてそれ以前に、扱う小売屋がお客様にこれくらいの説明が出来なくては、いけないように思える。

金色の糸がどのようにして作られているのか。これは、単純なようでいて、なかなか難問である。絹糸を金色で染めているものとか、純金をまぶしたり、巻き付けたものと想像されていた方もおられるのではないだろうか。今日の品質表示の話の中で、この疑問も解決されたように思う。

 

さて、ここからは西陣織工業組合が発行している情報誌・西陣グラフを皆様に少しだけ御紹介してみよう。

創刊は、1956(昭和31)年11月15日。通刊560号を数える歴史あるPR誌。

組合は、戦後の混乱期を経て町に落ち着きが戻った頃、広報活動を始める。この西陣グラフも、その一環である。西陣織の解説に始まり、四季折々の西陣という町の風景や、そこに根付く習慣、さらには、仕事に従事する職人達の姿など、西陣で生活する者の視点で、紹介している。

この情報誌は、織屋や問屋などを通して、小売屋などに送られてくるが、一般の方はなかなか目にする機会がないようだ。

「緯錦」という織の紹介記事。その歴史から製法までを丹念に書いている。

古い西陣の正月の風習を紹介した記事。時代と共に移り行く様子が描かれていて、興味深い。

この他にも、季節ごとに表現される文様の話や、織に長年かかわり続けてきたベテランの職人さんの話、さらには西陣の人々に愛されている食べ物屋さんの紹介など、普通のガイドブックでは見ることの出来ない、ユニークな情報が詰まっている。

ページ数は、わずか20ページほどだが、編集・企画に当たっているのは、組合員達、つまり織屋の主人や若き担い手である。だからこそ、リアルな西陣の姿を見つけることが出来るのだろう。

現在は休刊中であるが、ふと読みたくなる優れた小冊子である。何とか、復活しないものだろうか。今までにも、もう少し消費者の方の目に触れる機会があったら、と思う。

 

二回にわたり、西陣織工業組合について話を進めてきた。組合が発行する帯証紙や、それに伴う品質表示だけとっても、そこにはお話すべきことが沢山ある。消費者の方々にとっても、知っておくと品物の見方が少し違ってくるように思う。これからも、具体的な織の技法や図案などは、随時御紹介して行きたい。

 

鬼怒川を利根川と結びつけ、江戸への道を切り開いたのは、徳川家康公。この家康と石下・豊田地方の結びつきは、意外なところにありました。それは、平安時代中期、この地で朝廷に反旗を翻した平将門との関わりです。

平将門は、豊田・猿島の豪族に生まれますが、京都の朝廷支配に不満を持ち、反乱を起こします。これが939(天慶2)年に起こった天慶(てんぎょう)の乱。将門は京都の天皇に対抗し、自らを新皇(しんのう)と称して新たな国を建てますが、朝廷側の藤原秀郷・平貞盛により、鎮圧されてしまいます。

その最期は、無残にも首をはねられ、それが京都・都大路に三日間さらされるという哀れな結末でした。しかし伝説によると、その首が将門の故郷・東国に向かって舞い上がります。そして、首が落ちたとされる場所は、怨念の地となり不吉なことが起こり続けました。

そこで、この怨念を治めるために、武蔵国の日輪寺(にちりんじ)では、将門の霊魂を手厚く供養をし、碑を建立したのです。日輪寺は、東京・神田明神の別当(神社を管理する寺)だったため、後に将門は神田明神に合祀されます。

 

家康は、敢然と朝廷に立ち向かった将門を敬い、関が原の戦いの前には、神田明神へ武運長久を祈願したのです。そして勝利を収めた後、江戸幕府が成立すると、神田明神は江戸の総鎮守として、重要な役割を果たすことになります。現在もこの社には、恵比寿様や大黒様と並んで、将門様という名前のついた御輿があり、五月の神田祭の際には、日本橋界隈を巡っています。

平将門は、初めて貴族・朝廷社会に立ち向かった男。その意気を家康が高く評価したのでしょう。彼が、騎馬隊を結成したり、日本刀を使用したことなどにより、日本初の武士だったと歴史的に位置づけられることもあるようです。

 

将門の別名には、育った土地の名前を取って、「豊田小次郎」というものがあります。初めての武士を生み出した地・豊田や石下の方々が、今度の災害から、将門のように雄雄しく立ち上がってくれることを、心より願わずにはいられません。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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