バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

江戸庶民のファッション事情(前編) 奢侈禁止令と呉服

2015.06 30

日本国憲法の三原則は、言うまでもなく、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義である。昨今の政治家の発言などを聞き及ぶと、どうもこの三つが全て揺らいでいるかのように見える。

為政者が、自由な発言や報道を封じたり、自分の都合の悪いことには耳を貸さない。国の根幹に関わる憲法の解釈が、一部の人達が主張する考え方で強引に変えられていく。民主主義というよりも、全体主義の匂いがそこここに溢れ出しているようにも思える。

最初は針の穴のような、ほんの小さな変化に思えても、気が付けば全ての事が様変わりしてしまうことになりかねない。独裁者となった為政者が持つ権力に対し、個人の力など到底及ぶものではない。今はただ、「この道はいつか来た道」にならないことを願うばかりだ。

 

封建制度下の全体主義国家では、国民の着るモノにまで口を挟む。身分により使うことの出来る素材や色を限定したり、模様や模様に施されるあしらいまでもが、決め付けられる。意見や主張を押さえつける前に、生活そのものを押さえつけてしまい、自由を封じてしまった方が、手っ取り早いということなのだろう。

士農工商という厳密な階級制度があった江戸時代には、人々の服装を制限する法令が度々出されていた。「奢侈禁止令(しゃしきんしれい)」である。贅沢は身を滅ぼすというスローガンを強引に人々に強いたのだ。その内容たるや、微に入り細に至るまで、介入されたものだった。

 

そんな訳で、このカテゴリーでは今日から二回に分けて、江戸庶民の衣装事情についてお話してみよう。今日はまず、当時の幕府が何をどのように禁じていたのかを見ていく。そして次回は、この時代を生きた町人や農民など市井の人たちが、規制された中でどのように色や文様を工夫し、ファッションとして楽しんでいたのか、一つの品物を例に取りながら、ご紹介してみたい。

また、この時代は着る側の人々を規制していたと共に、売る側の呉服屋が扱う商品にも制限をかけていた。つまり、贅沢な品物を売るような、店そのものの存在をも認めていなかったのだ。ついでなので、このことにも少し触れてみたい。

 

この国が、身分による衣服の規制を行っていたのは、遠く飛鳥時代に遡ることが出来る。603(推古天皇11)年に聖徳太子・蘇我馬子により制定された「冠位十二階」が、冠や衣服の色で位を表していたのは、よく知られているところ。この法令では、位階を6段階に分け、さらにその中を二つに割り上下を付けていた。位の色は、高い順に紫・青・赤・黄・白・黒。

令(法律)が改正される度に、位は細分化され、それとともに使われる色も多少変化していく。しかし押しなべて「紫」だけは位階の高い者を表す色とされており、時代を経るとこの紫色の濃淡でさらに区分をつけていた。当然、濃紫の方が薄紫より位が高い。

いにしえの高貴色・濃紫地色の付下げ。楓の挿し色は黄櫨色に近い。

さらに平安初期の820(弘仁11)年には、天皇の御袍に使われる「黄櫨(こうろ)色」は、帝の他は誰も使用することの出来ない絶対禁色(きんじき)となった。この色は黄色と赤を掛け合わせた「太陽」の色。

絶対禁色・黄櫨色に近いちりめん無地。

この他、皇族や公家が公式の場で使う袍の色も、むやみに使うことが出来ず、特に天皇から許しを得た場合に限り、使うことができた。このように特別な許可を受ける色のことを「許色」=「聴色(ゆるしいろ)」と呼ぶ。

 

さて、時は移り江戸幕府が支配する世の中になると、身分制度を維持するための方策として、様々な生活上の規則を法令化する。先に述べたような色による身分区分は、主に貴族や高級官僚など、高い位にある者の中での差別化であったが、江戸期の法令は、階級そのものによる区分けであり、国民全体を仕分けるものであった。

三代将軍徳川家光は、参勤交代を義務付けたり、鎖国制度を完成させたりと、幕府の封建体制を完成させ、その権威を強固なものにした立役者である。そして、身分制度を動かぬものにするために、様々な施策を打ち出す。特に農民には、服装にまで厳格な基準を設け、自分の「身の程」というものをわきまえさせた。

 

1628(寛永5)年、農民には「木綿」と「麻」以外の素材のキモノを着ることを禁止する達しが出される。「絹」を贅沢品と決めつけたのだ。その後キモノだけではなく、帯や半襟にも絹使用を禁止した法令が追加される。そして色も、高貴な色とされてきた紫や、黄櫨色に近い紅色や梅色などの色を使用不可とした。この法令は、江戸後期の天明期・末期の天保期など度々出されており、幕府は怠りなく農民を締め付けた。

このことからも、徳川家康の「百姓は生かさぬように、殺さぬように」という農民観が、260年の幕府の体制化の中で、忠実に守り続けられていたことがよくわかる。

 

このような規制は、農民だけでなく一般の町人にも波及する。犬公方と呼ばれた5代綱吉の時代に取り決められた1683(天和3)年の法令は、奢侈禁止令の中でも極めつけとも言える悪法であった。

これ以前の1643(寛永20)年にはすでに、農民同様に町人の内儀(奥方)や娘のキモノの色にも、紫や紅梅色を使うことを禁じていたが、驚くことに天和の法令では、柄そのものにも規制がかけられたのだ。

 

縫い取りだけで模様がほどこされている。(現代の付下げから)

何が禁じられたのか。それは金糸を用いた刺繍がほどこしてある品物や、鹿の子絞りなどを用いたキモノなどは、町人には贅沢すぎると決め付けられたのだ。

黒白の鹿の子絞。(現代の総絞り訪問着から)

色に関しては、紫や紅に通ずる染料・紫根(しこん)や紅花を用いること自体を禁止し、徹底的に、この色から庶民を遠ざけた。そして、相応しい色として、鼠色・茶・藍など目立たない地味な色を推奨したのである。

 

幕府は、人々に対してファッション制限をするのと同時に、売り手の呉服屋側にも販売制限を加える。扱う業者そのものが無くなってしまえば、自然に贅沢品が淘汰されるという発想からである。

この天和3年のお触れでは、先に述べた刺繍や鹿の子使用の品物の販売も、同時に禁止されている。そればかりか、扱う商品の価格の上限まで設定してきたのだ。それは小袖の価格を銀200目以下にせよとのお達しである。すでに、1663(寛文3)年の法令で、天皇(当時の女帝・明正天皇)や将軍の正室(奥方)のキモノの価格まで上限が付けられ(天皇は銀500・正室は銀400目)ていたくらいなので、庶民が誂えるキモノに価格設定がなされるのは、当然のことであった。

この銀200目という単位は、今の価格に換算すればどのくらいの金額だろうか。当時の金貨・慶長小判は1両の金の含有量がおよそ15gほど。今の金価格を1g・5000円と仮定すれば、およそ7万5千円ということになる。江戸期の金と銀の交換比率は、金1両=銀50~60匁相当とされていたことから、銀200目=小判4枚分=30万円という計算になる。

果たしてこの価格で、当時どれほどの品物を誂えることが出来たかはわからない。品物の価格を類推するために、記録を見てみると、当時綿一反が600文となっている。一文銭は、時代劇・銭形平次の中で、平次が逃げる犯罪者を捕まえるために使った、投げ銭・寛永通宝であるが、この一文銭が80枚(80文)=銀1匁という換算になっている。だから、600文ということは、銀7.5匁に相当する。これを計算すれば、銀1匁=約1500円×7.5なので11250円という計算が成り立つ。

綿反10000円以上というのは、意外に高い値段である。江戸時代の貨幣換算を現代の貨幣価値に照らし合わせるのは、かなり無理があるので、一応の目安ということでお許し頂きたい。

 

それにしても、呉服屋が扱う品の価格まで制限してしまうとは、何とも無謀な法令である。そんな中でも、1673(寛永13)年には、伊勢の商人・三井高利が越後屋呉服店を江戸本町で開業。「現金掛け値なし」の正札販売で、江戸庶民から喝采を浴びる。今の三越である。それまでの呉服商いというものが、顧客の家へ品物を持ち込んでなされていたために、庶民にとっては「高嶺の花」で、手の届かないものであった。それを越後屋は店頭商いとし、しかも反物を切り売りするなど、庶民の便宜を計った方法を幾つも考案したために、一気に人気を博したのである。

越後屋の他、1662(文久2)年には白木屋(東急百貨店の前身)が、1717(享保2)年には大文字屋(大丸の前身)が江戸と京都でそれぞれ開業している。これを考えると、幕府による価格制限など、呉服屋の経営にはあまり影響してなかったようだ。と言うよりも、呉服屋が庶民向けに経営を転換する、一つの契機になったとも考えられる。

 

江戸庶民たちは、このように、様々な制限を加えられた中でも、何とか洒落たものを身につけたいという、願望を持ち続けていた。そして、為政者には贅沢とは見えない、贅沢な品を作り出したのである。

その中で代表的な品物が、「型紙」を用いた小紋である。もちろん絹素材を使って染められたものもあったが、庶民の品ということになれば、素材は木綿になる。次回は、江戸庶民にもっとも愛された品の一つ、「長板中形小紋」を取り上げながら、当時のファッションに思いを馳せてみようと思う。

 

 

異なる意見に真摯に耳を傾けるというのが、民主主義の基本ではないでしょうか。それを最初から抑圧するのであれば、民心は離れていくばかりでしょう。

今から78年前にも、この国の為政者は国民に「奢侈禁止令」を出しています。1937(昭和12)年、第一次近衛文麿内閣が掲げた国家精神総動員運動。翌年には、「国家総動員法」という法令が成立しています。「欲しがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵だ」などと掲げられた勇ましいスローガンは、徳川幕府の法令以上に強権的なものでした。ファッションも「国民服」や「モンペ姿」を奨励し、国民の生活全てを犠牲にし、戦争へと追い立てたのです。

戦後70年という節目の今年、何故日本が戦争に追い込まれたのか、そして当時の為政者がどのような行動をとったのか、改めて検証し、その原因と責任について考えてみたいと思います。

今の政権が例として挙げている「ホルムズ海峡の封鎖」が、この国の存立を根底から脅かす事態(資源の枯渇)という論理は、どうしても「ガソリンの一滴は血の一滴」という、戦前のスローガンと重なってしまいますね。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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