「盗んで覚える」というのが仕事を理解していく基本である。跡取りである者には特に、モノを教えない。顧客へのモノの売り方や応対の仕方、また仕入れるモノの見方など「盗んで覚える」うちに自分なりのやり方や工夫を会得してゆく。そうしなければ「主人(あるじ)」としての自覚と責任が生まれないからである。
呉服屋は様々な職人達によって支えられている。「駆け出し」の頃はその「職人達」に多くのことを教えてもらう。仕立てや付ける裏地、寸法のことは「和裁職人」に。どんな場合どのキモノにどのような紋をつけるか、などということは「しきたりや慣習」も含めて「紋職人」に。しみ汚れやカビなどの見分け方やどの部分に汚れがつきやすいのかなどは「しみぬき職人」に。「しみぬき」でとれないものはどうやって直すかというのは「補正職人」に。そして古いモノを再生することに関しては「洗い張り職人」にという具合だ。
(上の画像、紋帳と色見本帳 下の画像、尺差し)
呉服屋の扱う商品のほとんどは「加工」しなければ、納品できない。キモノも帯も寸法に合わせて「仕立て」をする。いくら品物自体が素晴らしい手仕事で作られているものであっても、「着にくいキモノ、締めづらい帯」では台無しになってしまう。「よい品物、よい仕立て」は車の両輪のようなもので、どちらも怠ることができない。
もちろんこのほかに、「湯のし、紋入れ」など仕立て屋以外の仕事の良し悪しやキモノ、帯につける裏地の「胴裏、八掛け、帯芯」などがその品物に適正になじむものになっているかということも重要だ。
しかし何といっても「仕立て」の優劣が仕事の良し悪しを左右する一番大きな要因になることに間違いない。
「仕立て職人」になるには、「師匠」のところへ入門して仕事を覚える方法と「和裁の専門学校」へ入り技術を習得するという二つの道がある。うちの職人達はいずれも前者である。前にもお話したと思うが、呉服業のような古い形態の業種の人の育て方は「徒弟制度」によるものがほとんどである。
「師匠」の下である程度の年限の「修行」を積み、「師匠」が「内弟子に入った者の技術」を認定すれば「独立」が許され、一人前の職人として仕事を受けられるのだ。うちの店では今、3人の40歳代の仕立て職人に仕事をお願いしているが、この人達が独立してうちの仕事を始めて20年ほどになる。
おもしろいものでその仕事ぶりは「師匠」に似てくる。「小裁ち(子どものもの・掛けキモノや七五三祝着など)」が得意の「師匠」から独立した者はやはり「小裁ち」の仕事が上手であるし、「羽織やコート類(難しい変わり衿の仕立て)」が得意な「師匠」の弟子はやはりその類の仕立ては上手い。だから、その「仕立て職人」が誰の下で修行したかで、どの仕事をさせたらよいかがわかるのだ。
上の乱雑に置かれた伝票は、「仕立て職人」に仕事を発注するときに付けるもの。注文した顧客の寸法や紋名を書き、仕立てをする期日の日限や発注先の職人名を入れる。寸法において注意する点があればそれも書き入れておく。
当店ではこの記録が昭和45年から残っている。うちで仕立てをしたものは40年前から一点残らず、誰が、いつ、何を頼み、誰が仕立てたのかすべて把握している。しみぬきや丸洗い、洗い張り等の記録は平成5年からのものが残る。ということは、顧客の箪笥の中に何が入っているかということがこれでわかるのである。
これは品物に「責任」を持つということの証でもある。また、ひさしぶりに訪ねてくれた方の情報や、直しや譲りの相談を受けた時に、その方が過去にどんな品物(どこから仕入れた物か)を買ってくれて、どんな寸法になっているかがわかるということで、この伝票は毎日の仕事において、欠かせないものであるのだ。うちの店のように、代替わりして商売をしている店が今あるのは、こういう情報を残してくれたおかげである。まさにこの古い伝票は「のれん」そのものなのだ。
しかし、今、職人の仕事が危ない。特に「和裁職人」の仕事が激減しているのだ。
それはベトナムを代表とする「海外仕立て」や国内の「一括縫製(湯のしから仕立てまで全ての工程を一つの場所で行う)」の急激な増加によるものである。旧来呉服屋は、地元にある「和裁職人」に仕事を依頼してきたのであるが、量販店や大々的に振袖販売など行っている店が先駆けとなって、近くにいる職人に仕事を廻さなくなってしまったからである。
それは「工賃の安さ」に原因がある。「ベトナム縫製」と「和裁職人の仕立て」では3倍以上の違いがあると見られる。だから呉服屋が「経費」を少しでも下げ利益を生み出すため、安い「海外縫製」を選択するのだ。特に、「振袖販売」などの手段として「30万円フルセットですべてまかないます」などとうたって商いをしているが、それには具体的な「仕立て代」は明記されていないため、どのくらい工賃がかかっているのかわからない。ここに「利益を生む手段」が隠されている。
老舗のデパートでは「海外ミシン仕立て」と「国内の手仕上げの仕立て」とそれぞれの値段(仕立て工賃)を消費者に明示して、選択できるようにしてあるが、これならば納得できるやり方である。「信用」は「情報を明らかにする」ことで得ることができるからだ。せめて、「安さ」を選ぶのか「確かさ」を選ぶのかは消費者自身が決められるようにしておかなければいけないと思う。
もう一つの原因は「呉服屋の仕事の効率をあげる」ということにあると思える。呉服屋自身が「海外縫製」を選ぶことで、面倒な仕事である寸法取りや職人との交渉事が省けることだ。第一「寸法も計れない呉服屋」が増えている現状がある。というのは、「キモノの場合ある程度サイズがあっていれば着ることができてしまう」ため、おおよそのサイズさえわかれば(S/M./L/LLなど)OKということになってしまうのだ。
特に「キモノ」に対して「よくわからない」という方が増える現状では、この寸法が自分に合っているのかどうか、着やすいか、着にくいかということが「わからない」。まして、「仕立ての丁寧さや着た時のなじみ具合」などを判断していただくのは難しいことと言えよう。
だから「キモノはわからない」という人が増えれば増えるほど「海外縫製」は増えていくだろう。そして工賃が安いのだから。そして「職人」はいなくなる。
しかし「キモノを自分で着る方」や「日常の道具」として「キモノ」が存在している方は「仕立て」に対して「厳しい目」をいつも向けている。まさに「寸分の狂いも見逃さない」。厳密にいえば同じ寸法で仕事を発注しても、「仕立て職人の手」が変わるだけで着心地が変わってしまう。あるお客様に私は見抜かれて「仕立て屋さん変わったの?」と言われたことがある。だから「仕立て」には寸法取りも含め、かなりの神経を使わなければならない。「気持ちよく着ていただく」ことは呉服屋の仕事として「あたりまえ」のことなのだ。だから私には「海外縫製」などものすごく「恐ろしい」ことに思える。一体誰が「品物」に対して責任を持つのだろうか?
私は呉服屋が「キモノがわからない消費者」をナメているのだと思う。「わからない」から「安い」海外縫製でいいのか?「キモノに不慣れな方」も「キモノを知り尽くした方」も「着心地よく着て頂く」ことは同じではないのか。
なぜ「手仕事」の素晴らしさや着心地のよさを説明しないのか?
そんなことはどうでもよいことなのか?「日本の民族衣装」としての「キモノ」くらい自分の国で作らなければという「気位」や「自覚」もないのか?
今の日本の物作りとまったく同じ「構図」がここにもある。安い労働力を求めて海外へ海外へと流れてゆく日本の企業。空洞化する仕事の現場と仕事を失う人たち。
「利益」の前に「一番大切なこと」を忘れてしまった国の行く末はどうなるのだろうか
今に「ベトナム」どころか「ミャンマー」や、果てはもっと工賃が安い「赤道ギニア」や「スーダン」製のキモノが現れるかもしれない。その頃私は生きていないだろう。
最後の方は「怒りまかせ」に書いてしまいました。お読み苦しい点があるかもしれませんが、お許し下さい。「よい手仕事」を残すことは、伝統産業に携わっている我々がしてゆかなければならない最も大切な「役目」だと思います。そうでなければ胸を張って「民族衣装」を扱って仕事をしているとは言えないではありませんか。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。