バイク呉服屋の忙しい日々

職人の仕事場から

江戸小紋の手仕事を探る  染型紙編・3  道具彫

2021.11 26

経済産業大臣が認可した工芸品には、必ず伝の文字と日の丸を組合わせたマークが貼ってある。この「伝統マーク」は、国のお墨付きを得た「伝統的工芸品」である証だが、これを貼ることの出来る製品は、国の求める技術や技法、原料を使うことが「告示(指定の要件)」によって義務付けられており、それは厳しい産地検査を経て証明されなければならない。なのでこのマークには、徒や疎かには出来ない力があると言えよう。

山梨県における伝統的工芸品は、三品目。原料に水晶や珍しい石・貴石を使い、それを研磨加工して仏像や縁起物、アクセサリーなどをつくる「甲州水晶貴石加工」と、印材として柘植の木や水牛の角などを使い、手彫りで文字を彫り抜く「甲州手彫印章」、そして鹿の革に漆で模様付けをし、この生地で袋物などを作る「甲州印伝」である。

この中で、最も良く知られているのが甲州印伝で、鹿の革に小さな小紋柄があしらわれたバッグや袋物、小間物類は、誰もが一度は目にしたことがあるだろう。百貨店を始め、様々なところで扱われており、全国的にかなり普及している伝統工芸品である。

 

印伝の由来は、江戸・寛永年間(1630年頃)に、南蛮貿易によって輸入された鹿の装飾革が、幕府に献上されたことが契機になっている。この品物が、インドから来たことから、印度伝来=印伝の名前が付いたが、甲府に、印伝を加工する店が生まれたのは、1582(天正10)年のこと。この年は、本能寺の変が起こった年であり、インドから装飾革が伝来するよりも、半世紀も早い。

この由緒ある店の名前は、印傳屋・上原勇七。印傳屋さんは、バイク呉服屋から東へ歩いて7、8分の近さだが、創業当時と同じ場所に、今も本店を置いている。現在の当主は14代目で、代々勇七の名前を受け継ぐ。東京・青山や大阪・心斎橋にも直営店を持ち、伝統技術を生かしつつも、新たな商品開発に余念がない。その製品には、伝統に新しさを融合した「不易流行」の姿を、かいま見ることが出来る。

 

印伝は、筒に張った鹿革を藁で燻して染める「燻(ふすべ)技法」や、一色ごとに型紙を替えて顔料を重ねる「更紗技法」などもあるが、主な技法は鹿革に型紙を置き、漆で型付けをして文様を表現するもの。

これはまず、白い鹿の革を黒や茶、臙脂などに染める。この革の上に、模様を彫り抜いた型紙を置き、上からヘラで漆を摺り込んでから紙を剥がすと、革に文様が浮き上がる。これを数日間乾燥させると、小紋模様は革の上で輝きを持った図案に仕上がる。

印伝で使う型紙は、江戸小紋と同様の伊勢白子で手彫りされた和紙。そして意匠も、青海波や小桜、蜻蛉、花唐草など江戸小紋の模様とほぼ同じであり、他に鱗や亀甲、七宝に市松など、キモノや帯の文様としてもお馴染みの図案があしらわれる。だから、印伝と江戸小紋の模様はほぼ同じで、使う生地が鹿革か絹生地かの違いである。

 

今日は、この印伝にも見られるような、精緻で小さな模様を表現した江戸小紋の型紙技法・道具彫について、お話してみよう。6月の稿でご紹介した縞彫・突彫・錐彫からは少し時間が経ってしまったが、改めて他の技法を確認しつつお読み頂ければ、なお興味が増すように思う。

 

道具彫の型紙を用いた江戸小紋。文様は、小花菱。

江戸小紋の型紙彫は、表現する図案によって技法が変わるため、型紙の製作は、それぞれの技術に長けた職人の手によって為される。

定規を当てながら彫刻刀を引いて彫り進める縞彫(しまぼり)は、もちろん縞柄を製作する時の技法。半円型の刃を持つ彫刻刀を駆使し、丸い粒で表現する錐彫(きりぼり)は、鮫や行儀、通し、霰などの小紋柄を描く時に使う。そして細い小刀を地の紙に突き刺し、上下させながら模様を彫り進める突彫(つきほり)は、折れ線や鋭角に交差する曲線を持つ紗綾型(さやがた)や矢羽根のような図案を表現する時に用いる。

これまで紹介した三つの型紙技法(縞彫・錐彫・突彫)は、いずれも刃を引いたり付いたりすることで模様を生み出したものだが、今日ご紹介する道具彫は、予め文様の型を起こした道具を使って、彫り進めていく。当然ながらあしらわれる図案は、道具に型付けされた通りのものである。では、道具彫で表現されるのはどのような文様か、見ていくことにしよう。

 

道具を使って彫り抜かれた型紙。他の技法とは異なり、道具彫の職人は、まず自分で図案に応じた小刀や彫刻刀を作るところから、仕事が始まる。そして図案によっては、何種類もの小刀を組合わせて、一つの文様を彫り出すこともある。

図案をよく見ると、郵便局のマーク・〒の変形を四つ組み合わせて、菱形を形作っている。これが、〒型四つをそれぞれ彫ったものか、それとも四つをひとまとめにした型で彫ったものかは不明だが、おそらく手間からして後者だと思われる。

 

上の画像は、道具彫の小刀。模様の単位ごとに、刃先が作られている。その図案は、小桜や菊の花弁を始めとして、三角、四角、鱗、菱など様々な幾何学模様で構成される。この模様型の道具を使い、小紋柄を一突きで彫り抜くのが道具彫の大きな特徴で、江戸小紋の技法では「ごっとり」と呼ばれている。

江戸・正徳年間(18世紀初頭)には、すでに始まっていた「ごっとり」。この技法で肝心なのは道具作りだが、材料の地金は圧延された鋼(はがね)を使い、肝心な刃先は鋼を溝で加工した後に裁断し、金槌で大まかに成形した後、ヤスリで削って模様型に近づける。そして刃を銅線で縛って焼き入れをしてから、砥石で磨いて仕上げをする。道具彫の刃は二枚を組合わせたものだが、最後に組んだ刃先に絹糸を巻き付け、木製の柄を取り付けたところで、麻糸で巻き固める。画像でも、柄の上部に麻糸を巻き付けた姿が、どの小刀にも見えているのが判る。

職人の仕事場には、作業机が置いてある。この、巾3尺四方の檜材の台は「あて場」と呼ばれ、光の入る窓際に置く。職人はこの机の前に胡坐をかいて坐り、仕事に臨む。

あて場を載せた、型彫の作業机。職人はあて場の上に置いた肘当ての布団に両方の肘をつき、右手の親指と人差し指、中指で刃先を支え、左手で柄を握って小刀を型紙に対して垂直に当てつつ、右のほおを柄に付ける。この方法によって、地紙の上には刃が正確に置かれ、模様が彫り抜かれていくのである。

 

道具彫の型紙を用いた江戸小紋。 文様は、菱繋ぎに梅鉢。

縞彫や錐彫など、他の技法で使う彫刻刀は専門業者が作り、各々の職人に納入しているが、道具彫だけは型紙を彫る職人自らが、使う小刀を製作しなければならず、それは、模様を彫る技術と同時に、優れた道具を開発する技能も求められることになる。

刀の原材料である良質な鋼の見分けと入手先の確保、そして模様の出来を左右する刃先の焼き入れ具合、研磨具合は特に重要で、刃の炭素量や磨く砥石の材質にも深い理解が必要になる。だから道具彫の道具は、美しい模様を彫り抜く前提として、職人が試行錯誤を繰り返しながら、長い時間をかけて作っている「珠玉の作品」なのだ。

道具彫・技術保持者 中村勇二郎氏(1902~1985)の仕事姿

伊勢型紙の彫刻を家業とする家に生まれた中村勇二郎は、幼少時代より仕事の手伝いを始め、ごく自然に型紙彫の世界入った。四角や桜花弁の模様彫を得意とし、所持している道具は2千本を超えていたと言われている。上の画像からも、あて場の上にずらりと並んだ道具の姿が写っている。

道具彫・技術保持者 中島秀吉氏(1883~1968)の仕事姿

中島秀吉は、中村勇二郎と共に、1955(昭和30)年に無形文化財保持者の認定を受ける。ちなみに道具彫の人間国宝は、この二人だけ。僅か10歳で職人の道に入った中島秀吉は、大阪での仕事を経た後に、大正5年頃に独立して白子で型紙作りを始める。端正な模様姿に彫り抜く職人として知られ、特に霰(あられ)文を得意とした。見事に磨き上げた美しい刃先の道具で、85歳で没するまで仕事を続けた。

 

道具彫の型紙を用いた江戸小紋。文様は、菊唐草。

伊勢型紙を使う小紋染めや、長板中型染めが広く行われ始めたのは、江戸中期頃からで、伊勢・白子を為政下に持つ紀州藩では、型紙製造を重要な産業と位置付け、保護奨励した。もちろん、型紙販売は藩が独占し、それは貴重な収入源でもあっただろう。

型紙作りに携わるのは、模様彫職人だけではなく、型紙の原紙に柿渋を貼り合せて型地紙を作る職人や、良質な彫刻刀を作る職人、さらには型紙を補強する「糸入れ」に関わる職人など、多岐にわたる。多くの染織品同様に、小紋型紙の製作は、大勢の職人たちの手による「分業」でなり立っている。

そしてこの分業は、いずれも厳しい徒弟制度によって、技術を受け継いできた。けれども、こうした工程を全て端折って製作されるインクジェットや、シルクスクリーンによる「印刷小紋」が出回るようになると、次第に市場から姿を消していってしまう。現在僅かに残る手仕事の江戸小紋は、職人分業の残滓、最後の輝きのように思える。

 

次回はこの話の続きとして、最近請け負った道具彫の型紙を使った「江戸小紋の誂え」の話を予定している。お客様が、自分に相応しい一枚を誂えるにあたり、どのようにして模様や色を選んでいったのか。その過程を見て頂きながら、どうしたら魅力ある「自分だけの一枚」になるか、江戸小紋選びの参考にして頂きたい。

 

鱗文をあしらった、甲州印伝の印鑑入れ(印傳屋・上原勇七)

少なくとも30年以上は使っている、印伝の印鑑入れ。鹿革に浮き上がった文様は、全く褪せることなく美しいままです。どんな伝統工芸品もそうですが、こうしてきちんと人の手で作られた品物は、何年たっても飽きが来ません。印傳屋さんは、歴史が判る印伝博物館も併設していますので、甲府へ観光で来られた際は、ぜひお立ち寄り下さい。

 

呉服専門店としての矜持は、一点の品物に携っている多くの職人の仕事を理解し、尊重することからでしか生まれないでしょう。工芸品と工業品のとてつもない差異を理解すれば、自ずと何を扱うべきか、どんな姿勢で仕事に臨むべきかが見えてきます。

消費者の方々にとっては、こうした手仕事の一つ一つを理解することは厄介で、とても難しいこと。そして、せっかくこのブログを読んで頂いても、私の力不足の説明では、「訳が分からん」と思われても仕方がありません。

しかし、手を尽くした工芸品の存在、そしてそれに関わる職人の存在は、ぜひ知って欲しいのです。それはおそらく、キモノや帯を伝統衣裳として今に残す意義が、そこにこそあると信じているから。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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