店内の模様替えは、週1,2回。だいたい5日に一度の割合で、飾る品物を変えている。専門店という暖簾を掲げているのであれば、やはり「旬」を意識して、季節ごとにふさわしいものをお見せしなければならない。
店の正面ウインドに入れる品は、特に気を使い、画一にならないようにする。専門店は、高価な絵羽モノばかりを、前面に出すような傾向に陥りやすい。もちろんその店の扱っている商品の「格」を示すことは、大切だが、それだけではいけないように思う。
ウインドに何を飾るかによって、使う「道具」が変わる。フォーマルな絵羽モノならば、「衣桁(いこう)」であり、少しカジュアルにしたい時には、反物をかける「撞木(しゅもく)」を使う。また、日差しが強い時や、「ヤケ」を起しやすいような、薄地色の染めモノを飾る時は、「御簾(みす)」を使って、それを防ぐことも考えなければならない。
今日の呉服屋の道具は、「キモノや帯を見せるための道具」についてお話してみよう。この手の「ディスプレイ用の道具」というのも、「呉服屋」にしか見られないものである。
衣桁にかけた絵羽を止めるための飾り金具。「亀」や「扇」などの形になっているものが多い。
衣桁は、ひと時代前なら、一般の家庭でも使われていた。ただし、上の画像のようなものではなく、和室の隅の角を利用して置かれていた、「二枚折り」の屏風のようなものである。まだ、日常的にキモノが使われていた頃、「衣紋(えもん)掛け」(今風にいうならばキモノハンガーということになる)を掛ける場所が、この「家庭用衣桁」だった。今は、このような衣桁を持つ家庭が少なくなったため、「鴨居」などにハンガーが引っ掛けられて、キモノが吊るされているのをよく見かける。また、キモノが使われなくなった家では、この道具が、ハンガーに吊るされた洋服を掛ける場所、あるいは「帽子掛け」などとして、利用されていることも多い。
呉服屋が使う衣桁は、このような家庭にあるものとは「構造」が全く異なるもので、飾った品の柄行きをより見せやすくさせるためには、便利なものである。「仮絵羽」という、キモノの形に仮縫いされている状態なので、衣桁にかけて展示することが、一番わかりやすい。
縦4尺2寸(約157cm)、横4尺7寸(約176cm)。黒漆塗り、扇面飾り金具付き。
衣桁の寸法というものは、だいたい決まっている。もちろん特別な長さのものも作ってもらえるが、上のサイズはほぼ標準的なもの。これは、「仮絵羽」状態のキモノの寸法がほぼ決まっていることから、これを掛ける衣桁のサイズもおのずと決まってくるのだ。
うちの衣桁は、京都の竹屋町通りにある、「三峰」という会社が製作したものである。すでに10年以上使っているが、組み立てる時にぶつけて、「塗が剥がれたり」、「棹の金具を傷つけたり」しないように注意しているので、見た目はきれいなままである。
面白いのは、製作した「三峰」という会社の「本業」が、神輿や神祭具などを製造、修理していることである。京都は「祇園祭」を始め、伝統的な祭事が多く、寺社仏閣の数も飛びぬけて多い。そのため、祭りの山車や神輿、天狗や神楽の面などの「祭り道具」の需要は多くあり、それに付随するように、このような「衣桁」や「几帳」の製作依頼にも答えている。いかにも「京都ならでは」の地場産業である。
二本の足と、六本の棒を組み立てることで、神社の「鳥居」のような形の衣桁になる。使わない時には、このように「バラして」置く。保管に場所をとらないようにするためだ。赤い房の付いた紐は、キモノを止める飾り金具。
では、衣桁というものが、一体いつ頃から使われるようになっていたのか、少しそのことをお話してみよう。これは、単に「呉服屋の道具」としてではなく、「衣服(キモノ)を掛ける家具」としての道具として、である。
衣桁は室町時代以前は、「御衣懸(みぞかけ)」と呼ばれていた。「御衣(みぞ)」とは、貴人や天皇の「お召し物」という意味である。そもそもその時代に衣服(キモノ)を掛ける専用の道具を持つような人物は、ある程度の位以上の人に限られていた。「御衣」は「みぞ」ではなく、「ぎょい」と読むこともあり、この呼び名になると「天皇の衣」という意味になる。
衣を掛ける道具の始まりは、平安時代に遡る。この時代の貴族の生活を表した書に、「類聚雑要抄(るいじゅぞうようしょう)」というものがある。これは、当時の貴族たちの「リアル」な日常を色鮮やかに描いたもので、「宴席」でもてなされた「膳」の内容や、「寝殿造」内部の調度品がどのようなものだったのか、知ることが出来る。今日では、「有職故実」研究の第一級の資料ともなっているものだ。
この中で紹介されている「衣桁=御衣懸」は、やはり「鳥居」型で、3寸(約11、5cm)ほどの台の上に、縦5尺1寸(約191cm)、横7尺(210cm)の棹で形作られていた。今の衣桁と同じように、棹の両端には、「金銅の飾り金具」が付いていて、棹は漆塗りで、中には「蒔絵」による装飾が施されてあるような、贅沢なものもあった。「衣服を掛ける道具」ではあるが、部屋の中の「装飾品」の一つとしても見ることができる。
「寝殿造」という貴族の屋敷の構造は、板の間に丸い柱が並ぶという、単純なものである。だからこそ、「部屋の間仕切り」をするために、様々な「障屏具(しょうへいぐ)」が生まれた時代でもあった。そしてそれは、「衣桁」と同じように、実用としての道具ということに留まらず、「装飾品」という側面も持っていた。
「間仕切り」に使われたものに、「几帳(きちょう)」と「御簾(みす)」がある。「几帳」というのは、木製の四角の台の真ん中に二本の円柱を立て、その上に横木を通し、「帳(とびら)」を垂らしたもの。この帳には、豪華な文様が施されており、部屋の中の彩りとされていた。
このブログトップ、左上に「几帳」の帯文様がある。以前これをモチーフにした「紫紘」の帯をご紹介したことがあった。(下の画像の帯、詳しくは、昨年7月21日・ノスタルジアの稿をご参考にされたい)
几帳の構造は、通気性を考えて、帳の真ん中が縫い合わされていなかった。これで、帳の内側から外を、「垣間見る」ことが出来るようになる。当時の女性はどんな親しい関係の人と対面する時でも、この「几帳を隔てて」言葉を交わしていた。几帳には、「風通しをよくする」機能だけでなく、こんな慣習を守る道具の一つともなっていたのである。
さて、もう一つ代表的な「間仕切り」の道具である、「御簾」。これは、うちの店でも「道具」として使っている。今度はこちらに話を進めてみよう。
御簾などというと、一般家庭には縁のないような、恭しいもののように思われるが、単純に言えば「簾(すだれ)」や「よしず」と同じ性質のものである。今でも、夏になれば、庭先にすだれを掛けた家を見ることができるし、海水浴場の「海の家」では、「よしず張り」された食事処がよくある。いずれにしても、「日よけ」や「虫よけ」のために使われている。
平安貴族たちが使った、「間仕切り」としての「御簾」は、すこし構造が違うし、それなりの装飾が施されている。部屋の調度品という意識があるからだ。
ウインドの御簾を上げていると、外から店内が見渡せる。
素材は「竹」を編んで作られていて、絹の織生地を使い淵取りされている。上の淵を見ると、「唐草模様」が織り出されているのがわかる。また、巻き上げられた御簾を止めるために、半円形の「金具」が付いている。これを「鉤(こ)」と呼び、一緒に付けられた「被布飾り」のように編みこんだ紐と飾り房は、「鉤丸尾(こまるお)」というものだ。このように、「御簾」には、独特の様式があるのだが、平安時代に使われていた「御簾」は少し異なり、「鉤」も「鉤丸尾」もなく、「紐」だけで結わい止められていたとされる。「源氏物語絵巻」に見られる「御簾」を見ると、やはり、止め具は紐だけである。
御簾を下げたところ。店内の様子は「なんとなく」わかる程度で、風情がある見え方だ。
最初にお話したように、品物を展示する時に最も気をつけなくてはいけないことは、「ヤケ」の問題である。ヤケは自然光ばかりか、「蛍光灯」などの照明器具によっても引き起こされる。後述する「撞木」などにかけて、展示する場合、「表に出して飾った部分」にだけ光が当たり「ヤケ」を起す。そうなると、表に出ない巻き込まれた部分は変色しないので、「色の齟齬」を起す。反物の地色が位置により異なってしまっては、「商品価値」がなくなってしまうことになる。
店内の照明については、ことのほか気を使わなければならない理由は、これである。だから、ウインドにある蛍光灯は、わざと半分ほど外してあり、その上、小まめに御簾などを使うことで、光の調整をしている。
上の画像でわかるように、御簾を下げると外から中が見通しにくくなる。店内の様子をすっかりわかるようにせず、「さりげなく」見せるというのには効果的だ。また、来店されているお客様にとっても、プライバシーが守れることになる。さらに、内と外を「隔てる」ことにより、店の雰囲気を「少しかしこまった姿」にすることにもなる。この道具は、なかなか多面的な機能を持っているのだ。
様々な高さがある撞木(しゅもく)。展示する品の用途により使い分ける。
反物や帯の柄行きを見せるには、畳の上で広げるよりも、立てかけて見せる方が、より着姿をわかりやすく出来る。撞木に掛けて展示することは、何よりここを考えてのことだ。また、店内のスペースを効率的に使うことを考えても、この道具なしには、「呉服屋のディスプレイ」は成り立たない。
撞木は、その高さに応じて、掛ける品物が違ってくる。上の画像で言えば、左端の最も高いものは、4尺5寸(約95cm)。右端の最も低いものは、1尺(約38cm)。反物それぞれの「柄の付き方」によっても、使う撞木は変わる。
例えば、「付下げ」のように、柄の中心となる「上前」と「胸」の柄を同時に見せるためには、背の高い撞木を使う必要がある。柄の位置が離れているので、低いものでは対応できない。一方、「小紋」や「六通、全通の袋帯」また「通し柄の名古屋帯」などは、撞木の高さをあまり気にせず、使うことが出来る。理由は、反物や帯に付けられている柄が均一だからだ。
また「太鼓柄(帯の前と後ろにくる位置だけに模様が織り出されている柄の付け方)」の帯などのように、「見せたい柄の部分」が内側に入っている品物は、撞木の高さではなく、「品物の掛け方」を工夫することで、「柄がわかりやすい展示」にする。少し特殊な撞木の使い方と言えるが、これは「呉服屋の駆け出しの者」が覚えなければならない「基礎的」なことだ。
ではなぜ、この反物を掛ける道具のことを、「撞木」と呼ぶようになったのか。一般的な「撞木」というのは、「鐘突きの木の棒」のことを指す。大きい鐘を突く場合は「丸太」のような太さの木が使われるのは、ご存知かと思う。だが、小さい鐘を突く時に使われる道具は、木製で「T字型」をした「槌」が使われている。これが本来の「撞木」に当たる。
おそらく、呉服屋が使う「撞木」の形が、この「T字型」の「鐘突き用撞木」に似ていることから、この呼び名が付いたと想像されている。誰が、どんな経緯で付けたのかは、不明だ。
実際にどのように撞木を使うのか、今日は、少し変わったケースの品物の展示方法をお見せしよう。使う撞木も、少し特殊なものである。
左の撞木は、通常のものと違い、上の棒が横に広がっている。右は、もっとも背の低いもの。
横が長い、それこそ「T字型」をした撞木は、「衣桁」と従来の「撞木」の中間のような形をしているため、子どもの絵羽祝着を掛ける時には、都合がよい。上の画像は、三歳用の絵羽キモノと被布を組み合わせて掛けてみたところ。前からも後からも、わかりやすく着姿を見せることが出来る。
一番低い撞木は、反物を掛けるのには短すぎるため、帯揚げや帯〆などを展示する時に使うことが多い。
撞木という道具は、簡単な構造でありながら、使う者が様々に工夫することで、展示する品物の表情を変えることが出来る。お客様に関心を持って見て頂けるよう、どれだけ「美しく」展示することができるかは、飾る呉服屋の「腕次第」ということになろう。
今日ご紹介した道具は、これがなければ「店舗」として成り立たないものばかりである。毎日この道具を使い、いかに品物を「わかりやすく」「美しく」展示するか、頭を悩ませている。いかに「質の良い」品物を扱っていても、「お客様への見せ方一つ」で、品物の印象が変わってしまう。
呉服専門店として店を持つ者は、「飾り方」のセンスを磨き、それを実践することは避けて通れない重要な仕事である。品物一つ一つの展示は、店舗全体の印象をどのようなものにするか、という前提に立って工夫されなければならない。
毎回同じようなディスプレイでは、見る者を飽きさせ、店の印象を固定化させてしまう。品物の柄や色は、季節ごとの彩りを出せるような、「変化」のあるものにしていく必要がある。口で言うのは簡単だが、大変難しいことで、私なんかまだまだ相当下手だ。いつになったら納得した飾りつけが出来るようになるのか、まだ先が見えてこない。
またまた話が長くなりました。書き終わって、一回で三つの道具の話をするのではなく、三回に分けてすればよかったと、後悔していますが、後の祭りです。毎日の「呉服屋生活」には欠かすことの出来ない道具の話をすることは、このブログを読まれる一般の方々が、「呉服屋」が日常どんな仕事をしているか知ることに繋がります。
様々な品物や、直しのことをご紹介することも大切ですが、もっと「呉服屋」を理解して頂くために、「道具の話」はこれからも続けていきたいと思っています。
最後に、うちの店だけが持つ、特殊な「御簾」の役割をお教えしましょう。それは、「人相の悪いバイク呉服屋」の顔を、店の外から「わかりにくく、ごまかす」という非常に重要なものです。もし「御簾なかりせば」、日常的に「覆面等」を着用しなくてはなりません。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。