バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

芹沢銈介 いろは文様きもの(型絵染)

2013.05 26

「ノスタルジア」とは、「過ぎ去った時代」を「懐かしむ」または「いとおしむ」という意味である。

このカテゴリーでは、当店が所有しているもの、また過去にお客様が当店よりお求め頂き、所有されているものの中から、亡くなってしまった染織作家の品物や、手に入りにくくなった仕事のものを紹介して行きたい。

過ぎ去った時代に精緻な技を持って作られた品は、まさに「いとおしい」ものである。

(当店所蔵 1977年 未仕立品/非売品)

芹沢銈介は「型絵染」の「無形文化財保持者」いわゆる人間国宝としてよく知られている方である。「芹沢」を知らない人でも、カレンダーや文庫本の装丁、あるいはのれんなど、どこかで一度はそのデザインにお目にかかっているはずである。特に上の図案「いろは文様」はもっともポピュラーなものである。

芹沢は1913(大正2)年5月、静岡市の大きな呉服卸を営む家の次男に生まれた。静岡師範付属小学校、静岡中学(現在の静岡高校)と進み、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)図案科へ入学する。卒業後は郷里の静岡に戻り、工業試験場に勤めるかたわら、手芸サークルを立ち上げ、「テーブルセンター」や「壁掛け」などを作り、この頃から「ローケツ染め」を手がけていた。

芹沢の転機は1927(昭和2)年、「民芸運動」の創始者である「柳宗悦」に出会ったことによる。「民芸運動」は「無名の職人」が作った工芸品に本当の美しさを見つけ、それを世に送り出して行く運動である。柳は全国を旅して民芸品を収集するが、それは「美術品」と当時認められていなかった。柳の「手仕事の普段使い」の物にこそ「真の美」があるという考えに深く共鳴した芹沢は、以後柳を「師」として柳の立ち上げた「民藝協会」のメンバーとして活動して行く。

芹沢の文様に大きく影響したのは、1939(昭和14)年の沖縄滞在によるところが大きいと言われている。沖縄で伝統的「紅型」の技法の習得や沖縄に伝統的に伝わる文様をデッサンすることにより、新たな境地を見出したのだ。「型絵染」の作品は「琉球紅型」が原型であることは、この経験によるものである。

空襲により東京蒲田の仕事場兼住居を失った芹沢は、「日本民藝館」に移ると、その年の暮れには「カレンダー」の製作を始めた。狭い場所でも作れるものとはいえ、その意欲は並大抵ではない。カレンダーは芹沢が亡くなる1984(昭和59)年まで途切れることなく続けられた。

1957(昭和31)年、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受け、この時初めて「美術作家」として世間に知るところとなる。しかし、芹沢が多くの「人間国宝」と呼ばれる方との決定的違いは、そのデザインとして使うものが、先に述した「カレンダー」を始め「マッチの箱ラベル」、「うちわ」、「テーブルセンター」「のれん」など、庶民でも日常的につかう「日用品」の中に息づいていることであろう。まさに「柳宗悦」の「民芸運動」の主旨である、「日用品の中に真の美を見い出す」ことの最大の「具現者」と言えるよう。

昭和40年代に入ると、ヨーロッパへ旅に出て、異文化の品々を収集しそれを自分の作品の中に生かすことも試みている。1971(昭和46)年の作品の中に「古洋書」と題されたガラス絵作品があるが、それを見るとヨーロッパのどこかの街角でみつけたと思われる「古い洋書」が数冊、無造作に積み重なっているような構図だ。

芹沢の晩年のハイライトと言うべきことは、1976(昭和51)年にパリの国立グランバレ美術館で開催された展覧会である。「風の字」をあしらったのれんの図案のポスターがパリ中に掲載され、「日本のデザインの素晴らしさと型絵染の稀な技術」が高い評価を得ることになる。

1981(昭和56)年、芹沢の故郷、静岡市に「静岡市立芹沢けい介美術館」が開館した。美術館の場所は「登呂遺跡」のすぐわきにある。3年後の1984年(昭和59)年4月5日、88歳で生涯を閉じた。

美術館の「追悼展」のパンフレット。亡くなって2ヶ月後に行われている。

上の画像は美術館の開館当時出されていた「作品集」の冊子。その中に「いろは文字文」の「着尺」の作品が載せられている。当店所有の品と同じ「型」によるものであり、生地も白地である。これは「反物」の形だが、うちのものは「絵羽付け」になっている。「型絵染」のため同じものはおそらく何点かあり、ネット内で調べてみると出て来る。当店がこの品を手に入れたのが1977年(芹沢没7年前)であることから、おそらく作られたのは70年代だと推測される。ただ私はこの作品を売買するつもりはない。これだけのものを手放すのはあまりにも惜しいというより、商いの道具に使ってはならない物ではないだろうか?

「サントリー美術館」で開かれた「芹沢銈介展」のパンフレット。1972(昭和52)年の開催である。当店の「いろは文様きもの」が作られたのはこの頃か。「展示品」には「いろは文屏風」や昭和30~40年代に手がけた、「文庫本」の「装丁」が並んでいる。

芹沢銈介氏の作品、いかがだったでしょうか?興味をもたれた方は静岡市の美術館や仙台市の「東北福祉大芹沢銈介美術工芸館」の方をお訪ねになり、たくさんの芹沢作品に触れてみて下さい。

「いろは文様のきもの」は当店が所有しておりますので、随意お目にかけることは出来ますが、何分「奥の院」に仕舞っておりますので、ご一報下されば出しておきます。

最後に芹沢の言葉で今日のブログを終わりたいと思います。

「自分は目的地へ自動車を走らせることは好まない。ましてバスは御免蒙りたい。自分の足を運んで途中を楽しみたい。苦しみたい。手仕事で、その途中が如何に喜びか、またその間の時が、真によき仕事のために貴重に働くかを痛感する。」

(1957年 「婦人画報2月号」 型絵染の工房から)

今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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