残念なことに、私には跡継ぎがいない。けれども、もし誰か呉服屋を志す者がいるとすれば、何から教えるべきか。それはおそらく、品物の売り方や仕入れ方ではなく、直し方からかと思う。
駆け出しの者が最初に覚えることと言えば、まずは品物の扱い方である。反物を上手に巻けるようになること、呉服札をきちんと付けられるようになること、キモノや帯をきれいに畳めるようになること、さらにきれいに荷作りが出来ることなどが、基本となる。反物の巻き方は、始めは実際の品物には触れさせてもらえず、巻いてある芯を使って、反物を手で送る感覚を身につけていく。
これが一通り出来るようになると、次は、尺差しと鋏の使い方を覚えなければならない。寸法を測ることと裏地を裁つことは、呉服屋の仕事の基本。この動作がきちんと出来なければ、お客様の前には出られない。シンモスのハギレを利用し、尺差しと鋏を使って、生地を裁つ練習を繰り返す。寸法通りまっすぐに美しく裁てなければ、和裁士に技量を見透かされ、真っ当な呉服屋として認めてはもらえない。
もちろん、すぐに上手にはならないが、努力をすれば必ず上達する。私はひどく不器用でかなり苦労したが、ある時和裁士のおばあちゃん先生に、「たとえ襦袢の襟芯に使う木綿のシンモス裏地でも、曲がった裁ちは恥ずかしい」と、注意された。こうした職人の叱責は、本当に身に沁みる。今も、裏地を裁つ時には、この言葉を思い起こし、美しく裁つことに注意を払っている。
こうして日常の仕事の中で、呉服屋としての基礎を学んでいくのだが、やはりそれなりに時間はかかる。店の棚に置く品物はもちろん、お客様から預った直しの品物を扱う前には、覚えることが実に沢山あり、簡単では無い。
私は、「悉皆(しっかい)」・いわゆる手直しを早く学ぶのであれば、「解くこと」が一番有効な手段だと思う。キモノや襦袢を解いてみると、構造と寸法が理解出来る。着用している方の体格から、身丈や身巾、裄がどのような寸法になっているのか。また表地にそぐう裏地はどんなものを使っているのか。縫込みはどのくらい入っているのか。解いてみれば、一目瞭然である。
また、解いてみると、和裁士の技量も判る。丁寧に誂えた品物は、縫い目が細かく解き難い。そして柄合わせや模様配置について、学ぶことが出来る。職人の仕事をきちんと理解する上においても、自分で品物を解くことが大切なのだ。
呉服屋になって、今年で35年。お客様の前では、判ったような素振りをしているが、実は未だに足りない部分も、私にはかなりある。難しい依頼を受けると、頭を抱えてしまうこともしばしばだが、職人さんたちと膝を突き合わせ、相談しながら何とか形にしていく。信頼出来る職人の方々がそばにいるからこそ、こうして店に座っていられる。
そこで今日は、久しぶりに悉皆仕事のお話をしてみよう。品物を挟んで職人と職人を繋ぐ時に、私がどのような工夫をして、その役割を果たしているのか。そんなリアルな日常の姿を、皆様にご覧頂くことにしよう。
ただいま、悉皆作業中。カウンターの上がご覧の状態なので、なるべく来客者が来そうもない時間を見計らって、仕事をする。
請け負った直しモノは、一ヶ所の職人で仕事が終わる場合と、複数の職人の手を経なければ完了しない場合とに分かれるが、寸法直しや裏地替え、仕立直しなど、和裁士の仕事を伴う悉皆は、先に、スジ消しや洗張り、しみぬき、色ハキなどの補正を行う。だから、私の仕事は、まず最初にお客様から預った品物の状態を確認し、それを東京や京都の職人へ送り、店に戻ってきたら、地元の和裁士に仕事を依頼するという手順を踏む。つまり品物は、私の所で二度交差する。
呉服の世界は、モノ作りだけでなく、直しや加工の仕事も分業化しているため、依頼された内容ごとに仕事の進め方が変わる。例えば、お客様からの依頼が多い「裄を広げて直すこと」を考えても、複数の職人の手が必要となる。
この仕事はまず、肩付けと袖付けの部分を解き、どれだけ縫込みが入っているか確認するところから始まる。そこで、寸法通りに広がることが判ると、スジ消し職人に送り、もとの縫い跡を消してもらう。この時、縫いスジに汚れがあったり、中に入っていた生地と表に出ていた生地で、色の違いがあれば、スジ消し職人から補正職人に品物を廻し、しみぬきや色ハキ、地直しをしなければならない。
こうして、一通りの仕事を終えて、生地がフラットになった状態で、品物が店に戻ってくる。今度はこれを、お客様から求められた寸法に直す。どのくらい広げるか、私が和裁士に伝えなければならない。そして、袷の場合は、表地は縫込みがあるが、裏地が余計に入っていないこともよくある。こんな時は、裏をそっくり取り替えるのではなく、ハギを入れて直す。外からは見えない裏地なので、こうした修復が可能になる。
このように、一見単純な裄直しでも、解き、スジ消し、しみぬき補正、寸法直しと、異なる直しの技術が含まれている。依頼する呉服屋は、職人それぞれの仕事を理解し、どのようにすれば、最も良い状態で品物をお客様に戻すことが出来るか、そして、費用負担の少ない方法は何かを探る。
悉皆は、「手間は掛かるが、利は少ない」と弁えるべき仕事ながらも、呉服屋としての力量が試される大変重要な仕事である。そして、この仕事への向き合い方一つで、その呉服屋の姿勢が決まるとも言えるだろう。だからこそ、若い人には、「直し」から仕事を教えなければならないのだ。
この日の仕事は、洗張りをして戻ってきた品物の状態を確認し、裏地を準備した上、依頼されたお客様の寸法を付記して、和裁士に手渡す準備をすること。洗張職人の加藤くんが、一度に10点もの品物を仕上げてきたので、全部目を通すのにも、かなり時間が掛かる。
洗張り出来た品物は、紬のキモノ、絞り羽織、小紋、お召しと様々で、キモノは裏地をそのまま使うもの、八掛だけを変えるもの、洗張りの状態を見てから裏を考えるものがあり、キモノからコート、羽織へとアイテムを変えて仕立てるものもある。それぞれの品物で施し方が異なる上、依頼者も違うので、寸法も異なる。
それぞれの品物で状態に違いがあり、洗張りでどの程度修復できたか、確認する必要がある。中には、解いてみて初めて気がつくヤケや変色があり、職人からの伝票には、仕立てへ廻す際の注意点も記されている。
これは、今回洗張りに回した大島紬に私が付けた伝票。職人の加藤くんが、赤ペンで注意書きをして戻してきた。袖や衿にスレと変色があり、洗張りで落とせず、しみぬき補正でも直らない。だから仕立てる時には、この部分の生地は、表裏ひっくり返すようにと書いてある。両面が使える紬だと、汚れが落としきれない場合には、こうした工夫で修復されるケースがある。
私は、洗張り職人からの指摘を受けて、和裁士に仕立て方における留意点を伝える。この紬に限らず、洗張りやしみぬきで修復できない時には、本衿と掛け衿を切り替えたり、上前と下前を付け替えたりして、着姿から何とか汚れを隠す工夫を試みる。キモノの構造が単純だからこそ、仕立ての融通が利く。
キモノから雨コートへと直す品物に対して、肩すべりとして使う羽裏地を選ぶ。羽織や道行、雨コートを仕立てる際には、それぞれ裏地が必要となる。裏の長さは、単衣にするか袷にするかで変わり、また丈の長さでも変わる。
肩すべり(肩だけに裏地を張ること)だけの単衣コートでは、裏地は5尺5寸程度、それが総裏を張る袷では、単衣の倍以上1丈2~3尺が必要となる。羽織も長い丈では、コート同様に1丈3尺ほど裏を付ける。
最近こそ、羽裏は一枚分ずつカットしてあるものを使うが、以前は疋で仕入れていた。疋(ひき)とは長さの単位のことで、6丈モノを指す。6丈という長さは、キモノ2枚分にあたり、男モノならばこれでキモノと羽織両方を作ることが出来る。袷のコート、あるいは羽織で使う裏地の長さを、1丈2、3尺とすると、1疋で4枚程度の裏を取ることが出来る。
日常着として羽織を使っていた昭和の頃ならともかく、需要が少なくなった現代では、頻繁に裏地を必要とはしていない。だから、何時使うかもわからない羽裏を疋で仕入れるようなことはせず、一枚分ずつ入れるようになってしまったのである。
疋で仕入れた羽裏の残りは、箱に入れて保管してある。反物の棚の下には、こうした裏地や帯芯、シンモス、晒など、仕立の際に必要な生地を置くスペースがある。
洗張りした矢絣お召しのキモノを羽織に直すために、羽裏を選んで寸法を測る。お客様からは、羽裏は任されることが多いので、着用する方の雰囲気や年齢を考えながら、相応しいものを自分で選ぶ。
この時、少しでも直し代金を節約するために、箱の中に残っている使いかけの疋モノ裏地で、何とか間に合うように心掛ける。疋モノの場合、1尺単位の値段になっているので、使う分の価格をきっちりと出すことが出来るからだ。例えば、1尺700円の裏なら、1丈2尺で8400円。これは、一枚分カットされている裏より、かなり安い。
これは羽裏だけでなく、キモノの胴裏でも同じで、呉服屋がお客様の寸法に合わせて、その都度裏を裁つ暇を惜しまなければ、効率的に裏地を使い廻すことが出来る。しかも、お客様に無駄な出費をさせることもなくなる。「寸法に応じた裏裁ちを覚えること」は、昔の呉服屋では基本だった。だから、尺差しと鋏の正しい使い方を、若いうちにたたき込まれるのだ。
こうして、キモノから羽織やコートへと再生される品物は、それぞれに付ける羽裏が決まる。依頼された方の姿を思い浮かべながらの作業なので、思うように事は運ばないが、一つ一つの手順を丁寧に踏むことが、直しの仕事では大切となる。お客様は、「思い入れがある品物」だからこそ、再生を望む訳であり、その気持ちに答えるためには、真摯に品物に向き合う他は無い。
無造作にダンボール箱に詰めてある古い仕立伝票。私がこれまでに使った伝票は、36冊。1冊が100ページなので、この35年間に3600枚以上のキモノを扱い、誂えたことになる。
裏地の準備が整ったところで、一点ずつ寸法を伝票に書き込む。初めて仕事を依頼される方の寸法は、予めお聞きしてあり、常連の方の寸法は、すぐに見つかる。時間が掛かるのは、数年ぶりに仕事を依頼された方の寸法で、これは古い仕立伝票を持ち出して、探さなくてはならない。
うちでは、仕立てを依頼されたお客様それぞれの寸法が、昭和46年頃から残っている。もちろんその頃にはまだ、私は呉服屋になっていないので、先代の父が受けた仕事である。なので例えば、うちで誂えたお母さんの振袖を20年後に娘さんに直す場合、当時の寸法を、伝票上で探すことが出来る。だから、品物を持ってこなくとも、二人の体格を比較し、寸法直しがどの程度必要なのかを判断することが出来る。しかしこの作業は、伝票を一枚ずつ手繰ることになるので、やはり手間が掛かる。
品物が汚れないように白い紙を巻き、上に寸法伝票を付けて、和裁士が受け取りに来るのを待つ。
うちの仕事を引き受けている三人の和裁士には、それぞれが得意とする仕事、苦手な仕事がある。コートや羽織を上手に工夫して縫える職人、子どもモノを得意とする職人、ぐししつけをきれいに施す職人。単純に仕立依頼をするのではなく、それぞれの職人が持つ個性と技術を見極めた上で、それに見合う品物を渡す。お客様からは見えることはないが、呉服屋はこうした工夫をして、少しでも着心地の良い品物を誂える努力をしなければならない。
今日は、普段お客様が見ることは少ない、悉皆の現場で為される仕事について、お話してきた。新しい品物を求めて頂くことを表の仕事とするならば、今日のような再生の仕事は、陰に当たるのかも知れない。
しかし、呉服屋の仕事としてはどちらも同じように大切であり、特に直しの仕事には、職人達の経験に基づいた工夫と智恵が、どうしても必要になる。もちろん、消費者と直接向き合う呉服屋自身が、悉皆の難しさを弁えていなければ、きちんとした形にはならない。
バイク呉服屋が若い頃、苦労して覚えた裁ちや寸法取りは、今も仕事の中心にある。
「読み、書き、そろばん」は、全ての学びの基礎になると、言われています。この土台がしっかり整っていなければ、やはり次のステップには進めません。
文章を読んで内容を理解する力、語彙を理解して正しく書く力、基本的な四則計算が出来る力。この力が欠けていると、どんな仕事をしても上手くはいかないでしょう。それほど、この三つが大事なのです。
呉服屋の仕事においても、基礎として、どうしても身につけて置かなければならないことがあります。それが今日お話した、尺ざしの使い方や寸法取り、裏地裁ちだと思います。これを疎かにしていたら、いかにその店で上質な品物を扱っていたとしても、いずれどこかで、仕事の不具合が生じてしまうような気がします。
私自身も、経験の上にあぐらをかき、慢心することのないよう、この先も仕事に当たりたいと思います。「曲がった裁ちは、恥ずかしい」と怒られたことを、忘れずに。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。