久しぶりに大雪が降った。40センチを越える雪の始末となればやはり大変だ。先週は水、木と東京のお客様のお宅へ伺ったり、取引先や職人さん廻りをしていて、ブログの更新が出来なかった。
そこに、「ドカ雪」である。本来は昨日書く予定にしていたのだが、「雪かき」に追われて出来ずじまい。仕事場(店舗)はアーケードの中にあるため、「雪」の始末は考えなくてよいのだが、自宅は別にある。
ご多分にもれず、我が家の近所も「高齢化」が進んでいて、「雪をかける」人が少ない。そんな訳で昨日は「臨時休業」して、作業をした。北海道にいた若い頃は、日課として「雪かき」をしていたので、少し手に覚えがある。家内には、「人間雪かき機」のようだと久しぶりに誉めてもらった。私が感謝されるのは、これくらいのことである。
今日は、先日の続き、「品川恭子作品」に見る「天平」の「色」について。
(品川恭子 阿仙茶色 変わり丸文様 友禅絵羽道行コート)
前回と違った品川さんの作品で、「天平の色」について見て行こう。上の画像でご覧の通り、「花の丸」や「雲どり」、「九曜星」などをモダンにデザインした道行コート。今日は、この地色に使われてある少し赤みがかった「茶」の色に注目して話を進めたい。
「天平の色」というものが、どのように作られていたものか、それを記した資料がある。927(延喜5)年に完成した、律令の施行細目を表した「延喜式」の中の「縫殿寮雑染用度」である。この項を見ると、古代から使われてきた(公的な場で)染料とその媒染剤、また染める時の燃料などが詳しく書かれている。染料と染料の配合量なども、100種類あまりの天然素材の記載がある。
この時代に使われていた植物染料には、「刈安」「蘇芳」「藍」「黄檗」「梔子」「紫根」などがある。それに加え、「天平期」に入ってきた「色」とされるものがあり、「阿仙茶色」もその中の一つ。もたらしたのは「鑑真」だと言われている。
この色の原料は、インドなどの熱帯に生育する「アセンヤクノキ(別名アカシア・カテキュー)」と呼ばれるマメ科の喬木である。この幹を煮詰めると「タンニン酸」を主成分とする溶液が出来る。これに、「茶色」の色素が含まれている。この「阿仙」の茶色がどのように「天平」の色として使われたのか、「鑑真」が色を伝来したとされる根拠は何か、私なりに推測しながら考えたい。
(裾のほうからコートの後ろを写したところ 地色の「阿仙茶色」が生かされた図案)
正倉院の御物の中に、「七条織成樹皮色袈裟(しちじょうおりせいじゅひいろけさ)」というものがある。これは、七枚の裂を横に並べて継ぎ合わせたもので、色は樹皮のような「茶褐色」をしている。
この「袈裟」は、756(天平勝宝8)年、正倉院に納められた最初の文物の中に入っている。正倉院文物の目録である「国家珍宝帳」の記載を見ると、「筆頭」に上げられた九つの品の一つが上記のものだ。このことで、この品が聖武天皇が自ら身に付けた「天皇遺愛」の重要品であることが推測される。
聖武天皇が仏教に帰依していたのは、よく知られるところである。741(天平13)年の国分寺の建立、743(天平15)年の東大寺盧舎那仏の建立などは、中学校の教科書にも載っている。天皇が唐から来日した鑑真に会ったのが、754(天平勝宝6)年、その前の749(天平勝宝元)年には、「行基」を師として出家している。
聖武天皇は出家後すぐに(天皇在位の時すでに独断で出家していたという説もある)、天皇の地位を「孝謙天皇」に譲位しているが、このような「生前譲位」は男子天皇としては初めてのことだった。756(天平勝宝8)年に崩御した時、「勝満」という戒名が鑑真により付けられた。
これだけ、「仏教」に依存していた天皇の「袈裟」だけに、その色もインドのものを忠実に守っていたと思われる。「袈裟」は、インドで「壊色(えじき)」という意味のサンスクリット語の音写だ。袈裟は、捨てられたり不要になった布を繋ぎ合わて作られ、その色目は、「濁った色」でなくてはならなかった。
インドでは、僧侶が身につける服を「袈裟」といったが、仏教が中国に伝来していく過程で、「仏教徒である印」として、教えを信じるものが身につけるものとなったのである。
「熱烈な仏教徒」である聖武天皇が身に付ける「袈裟」ならば、それは「茶褐色」の「樹皮色」=壊色でなければならず、その色もインドを原産とする「阿仙」から抽出したものとするのが自然だ。また、天皇と鑑真の「緊密な関係」を考えれば、この色が「鑑真」によりもたらされたということの「裏付け」にもなるだろう。ここに、「阿仙色」が「天平の色」となる理由を見ることが出来ると思う。
また、この「阿仙」は、染料ばかりでなく、葉や枝などを乾燥させてエキスを抽出し、薬草としても使われていた。天平の時代、薬と言えば薬草が原料。聖武天皇の后である光明皇后が、「施薬院(せやくいん)」を開設し、病人や孤児たちに無料で薬草を供する施しをしていたことからも、多方面にこの「阿仙」が使われていたことが伺われる。
なお、この「阿仙」を原材料にした薬は現代にもある。「正露丸」と「仁丹」。成分の効用は、「毒消し」と「におい消し」である。整腸作用や、吐き気止めなど胃腸の働きを正常に戻したり、口の中を清浄にすることが出来る。「正露丸」は1902(明治35)年、「仁丹」は1905(明治38)年に製造が始まった。いずれも100年以上使われてきた「懐中薬」である。
(蔓の丸の中の梅花図案と仏教文様を想起させる十六弁花図案)
青丹吉 寧楽乃 京師者 咲花乃 薫如 今盛有 太宰少貳 小野 老 あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今 盛りなり
万葉集の中でよく知られた歌の一つである。要約すると、「奈良の都の、咲く花の香りは、今が盛りです」。
「あおによし」は、「奈良の枕詞」。その中の「あお」という色は「緑青色」を指す。品川さんの作品に見られる色挿しの中で、もっとも特徴的な色。上の画像の「葉」、そして、下の画像の「クローバーのような花」にほどこされている色。
「緑青色(ろくしょういろ)」は、ご覧のように「蛍光色」ともいえる、「明るいパステルカラー」だ。キモノに挿す色としては、大変めずらしい「現代感覚」ともいえる色のように映る。だが、「枕詞」に使われているように、古くから存在する色である。
この原料は「孔雀石(マラカイト)」と呼ばれる銅の二次鉱物。この石を砕き粉末にしたものが、天然顔料(いわゆる岩絵具)として使われていた。主成分は、銅に出来る錆びの「緑青(ろくしょう)」と同じものである。この石の色が、孔雀の羽の色に似ていることからこの名前が付いたが、古代エジプトでは、「宝飾品」の「貴石」としてすでに用いられていた。
(「三つ巴」のような蔓の丸の図案)
この「孔雀石」の顔料が日本に伝来したのは、仏教伝来の6世紀頃。他の顔料と共に伝えられたが、自然界で唯一「緑色」が出せることから、建築物や彫刻の彩色など多面的に使われた。おそらく「植物染料」の配合では、こんな蛍光色を出すことは不可能であろう。
「天平の都」である奈良の枕詞の色、「青緑色」。これはまさに「天平の色」であり、多くの品川作品にこの色挿しを見ることが出来る。これまでこのブログで紹介した品川さん品物には、必ずこの「緑青色」が使われているので、再確認されたい。
この「あおによし・・・」は、奈良に在住する作者が詠んだものではない。「太宰・少貳 小野老」とあるように、「太宰府の少貳(次官)」であった「小野老(おののおい)」という人物の作。
当時の太宰府の長官は、万葉集の歌人として有名な「大伴旅人(おおとものたびと)」である。作者はその下で働いていた役人。「旅人」も「老」も奈良から太宰府へ転勤してきた者、いわば「都落ち」した者ということになる。ということは、この歌は、都に想いを馳せるものであり、遠く離れた「花の都・奈良」を追慕する作者の姿が目に浮かぶようである。
最後にもう一度、この作品の全体像をどうぞ。
最初に紹介した色、「阿仙茶」が使われたと思われる「正倉院蔵」の聖武天皇使用の袈裟、「七条織成樹皮色袈裟」が、国からの依頼で復元模造されています。
製作したのは、帯製造の「龍村美術織物」。このブログでもここの品物は度々登場していますが、この難しい復元は2007(平成19)から三年の歳月を費やし完成されました。改めて「龍村」の技術力の高さを、再確認させてくれるような仕事でありましょう。
「天平」という視点から、「品川恭子」という作家の作品を見て来ましたが、「文様」にも「色」にも、それを使う「理由」や「位置づけ」というものが隠されているように思われ、これが、「もの作り」の大きな動機付けになっているような気がします。
これからもいろんな「視点」で、品物をご紹介して行きたいと考えています。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。