バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

ティサージ(手巾)への想いを、今に伝える  読谷山花織

2018.05 09

「あの戦争で犠牲になった、二十万余の御霊に対しても、私たちは、平和で文化的な沖縄を築く責任を持っている。それは不可能ではない。沖縄県民には、それが出来る」。これは、琉球政府最後の主席であり、戦後初の沖縄県知事として、沖縄の本土復帰に精魂を傾けた、屋良朝苗(やら ちょうびょう)氏の言葉である。

屋良主席は、「基地がなくならない限り、真の沖縄の復帰は実現しない」という信念の下、本土復帰への道を模索していたが、当事者でありながらも、復帰交渉は日米両政府の間だけで進められ、基地の返還はついに叶わなかった。当時、二つの政府の狭間で苦悩していた尾良氏の姿は、今の沖縄の姿にも重なる。

沖縄が日本に帰ってきたのは、1972(昭和47)年5月15日。すでに半世紀近くになるというのに、基地問題はほとんど解決していない。基地容認派と反対派の対立は、時として地域を分断し、人々の心をも分かってしまう。日米安全保障条約のもと、アメリカとの同盟関係がある限り、解決は難しい。せめて市街地から基地を無くし、安心して住民が暮らせるようになればと願うが、いつになれば実現するのだろうか。

 

屋良さんは、1997(平成9)年に94歳で亡くなったが、その功績を今に伝えるため、生誕の地である読谷村・瀬名波(せなは)には、碑が建てられている。

読谷(よみたん・ゆんたん)は、那覇から車で1時間ほど北に位置し、東シナ海に突き出た、沖縄半島西海岸の風光明媚な土地。人口は4万人と、村としてはかなり多い。隣接して嘉手納基地があり、村内にも弾薬庫の一部が設置されている。

今日は、この読谷から生まれた美しい花模様の織物・読谷山花織の話をしてみよう。

 

(読谷山花織 比嘉和代・花結い紬九寸名古屋帯)

花織(ハナウィ)は、花のように見える幾何学模様を、一目ずつ点のように浮きあげて織りなした、大変美しい織物。その模様は、織りというよりも、むしろ縫い取ったかのように見える。沖縄では、今日ご紹介する読谷山のほかに、首里や与那国、竹富などで花織は製織されているが、それぞれに独自の技法があり、織姿も違っている。

読谷山花織の模様も、色糸を浮かせることで表現しているが、その技法には手花織(ティバナ)と、綜絖(そうこう)花織(ヒャイバナ)とがある。

手花織は、竹ヘラを経糸に割り込ませ、手で持ち上げて開口させて緯糸を通し、模様を織りなす。この織り方は、居座機(いざりばた・地面と平行に経糸を張った機で、地べたに座ったままの状態で織る機)でも同じ方法を取っていた、かなり原始的な技法である。一方の綜絖織は、文字通り綜絖(緯糸を通すために、経糸を上下に開き、杼の通る道を開く道具)を用いる方法で、生地の経方向に色糸を使う・経浮花織と、緯方向に使う・緯浮花織の二つがある。

 

帯の主模様、菱を重ね合わせたところは、手花織で織り出されている。

生地の裏を見ると、模様の部分以外には糸が渡っていない。手花織は、模様だけに色糸を織り込む特徴から、縫取織とも呼ばれている。

 

井桁と丸を組み合わせたような模様。間には、弓矢絣も見える。ここは、綜絖花織。

画像で見ると、手花織の部分とは異なり、糸が裏に渡っていることが判る。綜絖花織の場合、模様以外のところにも糸を通すために、裏から見るとこのような姿となる。

帯の場合、図案ごとに手花織と綜絖花織を併用し、そこに絣も組み合わせるような、複合的な技法をとるものが多い。この花織と絣を併用したものは、特に「花結い」と呼ばれている。おそらくこの名前は、花織の花と絣の手結い(絣を手で括る沖縄独特の技法)をミックスさせたものであろう。言うまでも無くこの帯も、花結いである。

 

菱の中に二つの菱を取り込み、それを重ね合わせた主模様。こうして近接して写してみると、一本一本の色糸の鮮やかさが、浮かび上がってくる。

以前琉球絣をご紹介した時に、様々な文物を模した沖縄独特の文様についてお話したが、この読谷山花織にも、30種類にも及ぶ特有の幾何学図案があり、花はこの文様を組み合わせることで、形作られている。そして面白いことに、読谷には、主模様とも呼ぶべき3つの文様が存在し、その柄にはそれぞれに意味を持っている。

上の画像で、井桁模様を構成する柄の中に、上下2つと真ん中に1つの5つの点(サイコロの5の目)が見える。これが、「風車花(カジマヤーバナ)」で、読谷花織を代表する模様の一つ。風車のようにも見える。

沖縄の人達にとって、カジマヤー=風車は長寿のシンボル。毎年各町村では、旧暦の9月7日(新暦10月23日)になると、数えで97歳になった「おじぃ」と「おばぁ」を車に乗せ、パレードを行って長寿を祝う。この祭りに参加する人達は皆、手に風車を持つ。人は長生きをすると、子どもに戻る(童心に帰る)。つまり「人生は風車の如く廻るもの」という意味での、カジマヤーなのである。そしてこの文様には、「長寿への願い」が込められているという訳だ。

画像では、このカジマヤーの上に丸い模様がある。8つの芥子色糸で囲んだ丸のまん中には、藍色糸で1つの点が付いている。この模様が、「銭花(ジンバナ)」。丸は銭を模ったものであり、そこには「お金が貯まる=豊かになるように」との意味を持つ。

 

こちらの画像では、模様の真ん中に付いている風車花の中心を見て頂きたい。中心から上下に、芥子色糸を段々に付けて模様を広げている。これを「オージバナ(扇花)」と呼ぶ。扇=末広がりであり、そこには「子孫繁栄に繋がるように」との願いがある。

ご紹介してきたように、読谷の花織は、カジマヤーバナ・ジンバナ・オージバナを基本としているが、組み合わせは多様であり、模様には無限の広がりがある。図案と色の組み方には、作り手の個性が反映され、それこそがこの織物の魅力とも言えよう。

 

この読谷浮織は、15世紀前後に中国や東南アジアから伝わった織物を基礎としている。それを独自にアレンジしながら、現在の技法へと進化したと考えられている。

この手の込んだ品物は、琉球王朝時代には「贅沢の極み」として、王府の御用布に指定され、首里の貴族以外の者の着用を禁じた。読谷の人々だけは、儀礼用の上羽織(ツワーボーイー)、あるいは袖なし(ディンクヮー)として使うことを特別に許されてはいたものの、贅沢品に変わりは無かった。

だが、明治政府によるいわゆる琉球処分、日本という国家への強制組み入れが果たされた後、読谷花織は急速に廃れ、太平洋戦争で沖縄が戦場になったことにより、その姿は完全に絶たれてしまった。

 

多くの人々の記憶から、読谷山花織が消えかかっていた戦後、一人の人物が復活を提唱する。1963(昭和37)年に読谷村長を務めていた、池原松徳である。池原は、この読谷の地に生まれた美しい織物を復元し、荒廃した戦後の村における、殖産振興のシンボルにしようと考えたからである。

池原村長は、早速村内のおばぁ(おばあさん)たちに声をかけ、花織を織ったことのある人物を探すが、全く見つからない。そこで、地元の女子補修学校で染織技術を教えていた与那嶺貞(よなみね さだ)に声をかけ、花織復活の大任を背負ってもらうことにした。

依頼を受けた与那嶺は、池原村長と同じように人探しをするが、やはり見つからない。そして、花織をあしらった品物自体が見つからない。戦争が、織り手を失くし、モノを灰儘に帰してしまった。爪の先のような情報を頼りに、昔織り手が沢山住んでいた波平や楚辺など、西海岸沿いの集落を訪ね歩いたところ、ようやく織り経験のある一人のおばぁに出会うことが出来た。

与那嶺は、おばぁの織りの記憶を頼りにするとともに、他の古老からも、聞き取り調査を続けた。そして、焼失を免れたほんの僅かな踊り衣装などから、織文様の手がかりを見つけたのである。小さな努力を積み重ねた結果、2年後の1965(昭和39)年に、とうとう復元は完成する。

与那嶺貞は、1909(明治42)年に読谷村で生まれ、この当時50歳だった。一人の村長の意思は、一人の女性の執念に繋がり、こうして600年に近い歴史を持つ読谷山花織は、奇跡的な復活を遂げることになったのである。

 

読谷山花織の組合証紙と伝産品マーク。織り手は、比嘉和代さんとの記載も見える。

1976(昭和51)年、組合が設立されると時を同じくして、国の伝統的工芸品に指定された。先駆者となった与那嶺貞さんは、1999(平成11)年、重要無形文化財保持者に認定される。この時の年齢は、90歳。90を越えてから人間国宝となった人は、貞さんが初めてだった。

2003(平成15)年、与那嶺貞さんは94歳で亡くなるが、何人もの後継者を残した。現在組合員は120名ほどだが、その中で織り手は約50人。ここには小物類専門(ポーチやテーブルセンターなど)の織り手も含まれるが、着尺や帯を織ることが出来る人は、約30人である。染料作りから製織までほぼ一人の仕事だけに、量産は難しいが、それだけ貴重な品物と言えるだろう。

 

読谷の人々にとって、もっとも身近な花織は「ティサージ(手巾)」。これは、反物を織り上げた後、その残糸を使って織る手ぬぐいのこと。祝着として着用が許されていたとはいえ、やはり縁は遠い。そこで、織り手たちは、様々に工夫を凝らして、自分だけの小さなティサージを織った。

沖縄の人たちにとって、この手ぬぐいは手や顔を拭く布ではない。これは、娘達の肩や髪にかける「装飾のための布」である。そしてそれだけでなく、この布には特別な意味がある。それは、娘たちがこの布を、大切な人への贈り物として使ったからだ。

旅立つ親や兄弟の道中の安全を祈って贈る布が、「ウミナイ・ティサージ(祈りの手巾)」。愛しい人に想いを告げるために贈る布が、「ウムイ・ヌ・ティサージ(想いの手巾)」。娘達は、自分の想いを込めて、色とりどりの糸を使い、花織のティサージを織り上げたのだろう。特に「想いの手巾」は特別なもので、もし、そのティサージを相手に受け取ってもらえたなら、結婚が約束された。

ティサージに込められる想いは、花織の原点であり、その気持ちは今も織り人の中に息づいているように、私には思える。そしてそれは、沖縄人(ウチナンチュー)の心そのものではないだろうか。

 

今日は、美しい沖縄の織物・読谷山花織についてお話してきたが、如何だったでしょうか。織物の歴史や、模様の意味を知ることは、品物を再認識し、愛着を持つことに繋がるように思えます。

ティサージを贈る美しい習慣は、沖縄の純粋さを象徴していますね。美しい島を、一日でも早く、沖縄の人々の手に戻すことが出来るように、今は願うばかりです。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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