「大学で日本史を専攻していた」というと、お客様から「やっぱり呉服屋さんらしいのね」などと言われることがある。
普通の跡継ぎであれば、「染織史」などを学んで、後々の仕事に役立てようとするだろう。しかし「呉服屋」になることを「毛頭」考えていなかったために、主に私が研究していたのは、「蝦夷探検史(松浦武四郎について)」や「戦前の新興宗教弾圧について」という、一般の方にはほとんど「訳のわからない」代物で、今の仕事には何の役にも立っていない。
「キモノや帯」の文様には「歴史やその裏付けとなる事象」があるが、「染織史」に関しては「素人同然」のため、一から勉強する必要がある。だから「日本史専攻」といえども、「全く呉服屋さんらしくない=全然駄目」ということになる。
今日は、日本の伝統衣装である「キモノや帯」の中に見られる「文様」が、どのような「異文化」を伝えているか、例をあげながら見てみよう。私も本来ならば「こういう勉強」を若い時にしておくべきだったと、今になって思う。
(黄土色コプト文様紬八寸帯 帯屋捨松)
まず、「コプト」とは何ぞや、というところから話を始めてみよう。「コプト」というのは、簡単に言えば、「エジプトにおけるキリスト教徒」という意味なのだが、よく調べてみれば、それは、単純に「キリスト教徒」とひと括りには出来なさそうである。
キリスト教がエジプトに入ってきたのは、プトレマイオス朝がローマ帝国により滅ぼされた後の、AD(紀元後)30年頃のことである。プトレマイオス朝はアレキサンダー大王の死後マケドニア人によって作られた王朝で、代々「ファラオ」と呼ばれる王により支配されていた。
もともとエジプトという国は、「宗教には寛容」な国であった。長きにわたって、「古代エジプト宗教」が信仰されていたが、キリスト教が「ローマ国教」になる以前に、迫害されて逃れてきた伝道師や信者を、当時の首都アレキサンドリアに匿っていた。このことが、プトレマイオス朝後、急速にキリスト教化する遠因になる。
ただし、「キリスト教」をそのまま受け入れるのではなく、従来の「古代エジプト宗教」と融合した形にして、信仰を始めたのである。古代エジプト宗教は単一のものではなく、様々な神がいて、地域や職業によって「崇める神」の種類が違っていた。いわゆる「多神教」である。「多神教徒」であるからこそ、「キリスト教の神」も自分達の信ずる神と「同列」に扱った。
つまり「コプト」というのは、「古代エジプト教とキリスト教」が「融合されて」出来た宗教であり、「純キリスト教」ではない。どう考えても「多神教徒」が「一神教徒」となることには、当然「無理」があり、コプト教徒が「古代エジプトの神殿」を「教会」として使っていたことや、「エジプト語」で祭礼が行われていたことからも、「コプト教」という「独自」の宗教だったことがわかる。
「コプト教」はキリスト教の「教え」を受け入れながらも、「古代エジプト」を捨てなかった。このことは、「コプト文様」の模様を見ても察することが出来る。
例に挙げた上の「帯」の画像を見て頂こう。「古代人」や「鳥」、そして「太陽或いは星」と思われる文様で構成されている。このような模様は「キリスト教」の影響というより、「古代エジプト」や「ギリシャ神話」を彷彿とさせるものがある。「キリスト教」を意識させるならば、「十字架」や「鳩」などが代表的な「模様」であろう。
それぞれの模様を拡大したところ。これぞ古代エジプトの「コプト文様」といえる柄行きである。
「コプト」の衰退は、ローマ帝国により4世紀末に「古代エジプト宗教」が禁止されたことと「時を一」にする。これは、宗教だけでなく、自らの国の「過去」を否定することであり、「文化」、ひいては独自の「文様」が消えていくことに繋がったのだ。5世紀からの「コプト文様」は変容し、「十字架を思い起こさせる金章紋」などが多く見受けられることからも、そのことがわかるのである。
この帯を作ったのは、西陣で洒落た帯と言えば「ここ」と言われる「帯屋捨松」。この「コプト図案」を使うのには、少しだけ「勇気」が必要だったかもしれない。それは、あまりに「あからさま」というか「大胆」な模様の配置のことだが、こうして改めてみると、「ユニーク」であり、「微笑ましくもある」模様になっている。そして、地色の「黄土」色に合わせた柄の色の使い方が「絶妙」である。特に、「褐色」で表された「古代エジプト人」は、まさにイメージに「ピタリと合う」色使いではないか。この帯を「泥系の大島」などに合わせて使えば、実に面白い組み合わせになるだろう。(下の画像のような感じである)。
さて、ついでにもう一つ「コプト文様」をご覧頂こう。
(コプト甲冑異文 二つ折り財布 龍村美術織物)
「龍村」は様々な文様を、「帯」と言う形の上で「図案」として使っている。よく知られているのは「正倉院」に伝来した「裂地」(名物裂)の中の文様の復元である。この伝来の古裂は、遣隋使、遣唐使や渡来人たちによって、大陸よりもたらされたものだ。「大陸」ということは、それがシルクロードの遥か先、「オスマン=トルコ」や「ペルシャ」や「エジプト」からの伝来したものが多く含まれているということになる。
上の「コプト文」は「プトレマイオス朝」でよく使われた「円と四点」の連続した古代模様である。つまり、これも「古代エジプト」を表した文様ということが出来、「コプト教」を信仰した人々が、従来の「エジプト」の文化を捨てていなかった「証拠」ともいえるのだ。
この「名物裂」をモチーフにしたものは、「光波帯」と呼ばれる仕立て上がりの名古屋帯や、テーブルセンター、バック類など小物にも多く見られる。上の例も「財布」にあしらわれた文様だ。龍村は「名物裂」以外にも、「フランス貴族が愛用した文様」や「古代アッシリア」などに伝わる文様も復元している。それが、それぞれ「デザイン」としてあか抜けた美しい模様になっていて、「名物裂」とはまた一味違った「しゃれ感」のあるものになっている。
「スキタイ文様」は、「龍村」が取り入れた「名物裂」以外の「裂」であり、「光波帯」を使ってそれを見ることができるのですが、「コプト文様」で話が長くなったので、また次回、この続きとして書こうと思います。
「異文化」を伝える文様は、やはりそれぞれがその国が持っている歴史、風土、宗教そして侵略された経緯などが何層にも絡み合い、今に伝えられるものでありましょう。「柄行き」を通して「異国」を知る、また学ぶということは楽しくもあり、それが、日本の「伝統衣装」の上に再現されている「不思議さ」を知ることにもなるのです。
今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。