良く知られたスタンダードな楽曲は、時間を越えて、多くの歌い手により歌い継がれている。そんなカバー曲の中には、歌い手が変わることで印象が変わるものもある。
「卒業写真」は、松任谷由実の代表曲の一つで、いわゆる「卒業ソング」の定番として、よく知られている。この曲が発表されたのは、1975(昭和50)年なので、すでに40年以上が経つ。
この曲を、自分のアルバムなどでカバーした歌い手は、20人以上。浜崎あゆみやコブクロ、いきものがかり、槇原敬之など、この曲が生まれた当時、生まれていなかった若い世代も、歌い継いでいる。不思議なことに、この曲は、誰が歌っていてもイメージが変わらない。それだけ普遍性があり、歌そのものに力がある、ということなのだろう。
さてキモノの世界にも、「カバー曲」ならぬ「カバー文様」がある。中でも、絣の文様ほど、日本全国に伝播し、カバーされた柄はないと思われる。今日は、そのルーツとなった絣と、カバーされた絣、双方を比較してご覧頂くことにしよう。
(左 久米島紬 右 米琉紬)
日本に絣が伝わったのは、6世紀の飛鳥時代。聖徳太子にちなんだ幡裂・太子間道がその始まりとされている。これは、中国南部・広東地方で織られていた経絣・広東錦であった。その後天平期にかけ、隋や唐との交易の中で、多くの絣が日本に伝来していたと考えられるが、その技法がこの国に定着することはなく、いつとはなしに消えてしまった。
日本における本格的な絣の歴史は、沖縄へ伝わった絣織物に始まる。それは、絣発祥の地とされるインドから、インドネシア諸島のジャワやスマトラ、ボルネオと島伝いに北上し、14世紀になって沖縄へ辿り着いたのである。
沖縄は、地勢的な条件から見ても、東アジアにおける交通の要所。そのため、当時の琉球王国は、東南アジア諸国や中国・明とも積極的な交易があった。この時代、多くの文物が、中継貿易の基地・琉球を通して、日本国内に伝えられたのである。
いかにして絣が琉球へ渡来したのか、ということには諸説がある。シャム(現在のタイ)王から、琉球国へ贈られた品物の中に絣が含まれていた、という説や、ジャワやスマトラなどの南洋諸島を行き来していた琉球の船乗りが、絣の技術を伝えたという説。また、南方から伝わる前に、中国からすでに伝わっていたという説もある。これは、竹富ミンサーがチベット絣と良く似ていることなども、その理由の一つとなっているようだ。
琉球絣は、沖縄地方で織られている平織の絣のことで、上の品物・久米島紬のほかに、首里紬や南風原(はえのばる)紬なども含まれる。
久米島紬は、島内に自生するサルトリイバラ(グール)や車輪梅(ティカチ)などを使って紬糸を浸染するため、ご覧のような茶褐色の地色となって表れる。糸は、真綿からの手紡糸を経糸と緯糸に使ったもの(諸紬)と、経糸には玉糸を使用したものとがある。
琉球の絣は、15世紀には、朝貢国・明への貢納品となり、1609(慶長14)年薩摩藩・島津氏の侵略、琉球征伐により従属化された後は、薩摩への貢納品となっていった。当時、琉球からは、年貢米七千石・芭蕉布三千反・琉球上布六千反などが納められており、後に久米島紬も、貢納品の指定を受けた。
皮肉なことだが、薩摩藩の貢租品となったことで、より精巧な図案の絣が求められ、技術が高まっていたことは否めない。こうして絣の技術は、まず九州に伝えられ、そこから様々な経路を通じて、日本各地に広まることになる。そして、同時に、絣に付けられた琉球絣独特の文様も、それぞれの織産地に伝わっていった。
(トゥイグヮー 鳥 ミディ・フム 水雲 カー・ヌ・ティカー 井戸枠模様)
以前にもお話したことがあったが、琉球絣の上で表現されている文様は、幾何学的なものであり、それを幾つか組み合わせたものや、縞(アヤ・ヌ・ナーカー)や格子模様(ティジマ)と併用したものが見られる。
絣に使われる幾何学文様には、柄の見本図ともいうべきものがある。「御絵図帳(みえずちょう)」である。これは、琉球王国の時代、王府に納めさせる「貢納布」のデザイン帳として作られたものである。
御絵図帳は、依頼人が品物を注文する際、模様見本として使われていた。そこで選ばれた絣の図案は、本島内はもちろん、久米島・八重山・宮古島など、それぞれの織場に送られる。その際には、御絵図帳が添付され、いわば発注された絣の仕様書(この注文帳は、「手形」と呼ばれていた)の役割も果たしていた。
現在、沖縄県立博物館には105枚の絵図が残されているが、絵図だけのものや、注文書に添付されたもの、さらにはカタログ本のようになっているものなど、その形態は様々である。絵図には、地色の付いた和紙が使われ、鮮やかな各色の顔料により、絣の文様が描かれている。
琉球の絣を代表する図案・トゥィグヮー(鳥)文様。ツバメを思わせるこの鳥は、もっともポピュラーな沖縄の絣文様であろう。
流水をイメージさせるミディ・フム(水雲)。沖縄語で、ミディは水、フムは雲。水のようにも、雲のようにも見える文様という位置付けだろうか。
和名では井桁模様の、カー・ヌ・ティカー(井戸枠)。名前の通り、井戸に付いている四角の枠を連想したもの。井戸の中に四角い絣が見えるが、この文様も別に、フシ・グァー(小さい星)という名前が付いている。上の画像の絣文様名は、井戸枠に小星ということになろうか。
琉球の幾何学文様は、約600種という膨大な数を持つ。戦前、沖縄の民藝調査に当たった田中俊雄氏が、その著書「沖縄織物の研究」の中で、文様を分類している。
それは、構成上から付いた文様(ファナ・アーシー 花合わせ模様 ヒチサギー 引き下げ模様など)、自然物に由来する文様(ミディ・フム 水雲模様など)、動植物にちなむ文様(トゥィグヮー 鳥模様 ビッグー 亀甲模様など)、器物から類推された文様(クァンカキー 環掛=フック模様 ハサン・ビーマー 鋏模様 クバン・ヌ・ミー 碁盤模様など)の四種類に大別されている。
琉球の絣には発達の段階があり、初期の模様は「ムーディ・アヤ」と呼ばれ、二色の糸を織り合わせた杢糸を地に挟んだ縞であった。その後に、ブロック状の絣模様が織り出せるようになり(先ほどの画像にある、フシ・グアー 星文様のようなもの)、さらに進化して、括った絣糸を引きずらしながら織る現在の技法、「手結(てゆい)」が完成した。
米沢琉球絣、一般には「米琉(よねりゅう)」と短縮して呼ばれている。絣で表現されている模様は、琉球絣のモチーフに酷似した幾何学文様。
山形県・米沢周辺は、東北地方の中で、もっとも早くから織物生産が始められた地域だが、それは古くから、青芋(あおそ)や、紅花などが栽培され、繊維原料や染料の供給地だったことが大きい。
転換点は、江戸中期の18世紀半ば、藩の財政を立て直した9代藩主・上杉治憲(鷹山)の殖産政策である。鷹山(ようざん)は、それまで生産されていた青芋や紅花の増産と、桑や楮、漆の植栽を奨励した。
そして、原料の供給地から、自給自足の織物生産地へと、転換を図ったのである。麻織物は、供給先の越後から職人を招きいれ、縮生産を目指す。また養蚕が軌道に乗ると、京都から織職人を呼び寄せ、絹織物の研究開発を進めた。その結果として、紅花や紫根など、自前の植物染料を使った先染織物の技術が確立したのである。
米沢周辺の織物は、もともと三つの地域に分けられていた。米沢市は、紅花染に代表される草木紬、長井市は、緯総絣や経緯併用絣紬、白鷹町は白鷹御召。以前は、それぞれの地域に織物組合があったが、1976(昭和51)年、国から伝統工芸品の指定を受ける際、組合を統合し、置賜(おいたま)紬伝統織物協同組合を発足させた。
という訳で、現在付けられている証紙は、紅花紬も、米琉も、白鷹御召も、すべて「置賜紬」の名称に統一されている。置賜とは、山形県南部の地域名で、「おいたま」とも「おきたま」とも呼ばれている。
(トゥイグヮー 鳥 カー・ヌ・ティカー 井戸枠 ジョージ・カマシキー 釜敷)
この絣紬が、米琉と呼ばれ始めたのは、明治初年のこと。品物を扱う商人達が、米沢で織られている絣紬の中に、質的にも文様的にも、琉球絣に良く似た品物を見つけ、この名前を付けたらしい。
標準的な米琉の糸は、経に玉糸と生糸の合わせ糸、緯には生糸(三分の一は甘い撚糸)を使う。絣糸は、板締加工である。板締の絣とは、まず文様を方眼紙に写して、楓や檜の板に彫る。この板は二枚作り、整経した絣糸の原糸に巻きつける。その時、文様を彫った二枚の板の凹凸面を、完全に合致させる。
これを染液に浸すと、凸面に挟まれた糸は染まらず、凹面の糸だけが染まる。型板から糸を外せば、絣糸の出来上がりになる。この技法は、最初の型彫に手間は掛かるが、板は繰り返し使えるため、絣糸作りが容易となる。手括りの手間とは、比べ物にならぬほど楽であり、この技法を確立したことが、絣の量産に繋がった。
米琉のトゥイグワー・鳥文様。二羽を一対とする模様の表現も同じ。
カー・ヌ・ティカー・井戸枠=井桁と、ジョージ・カマシキー・釜敷。上下左右に四つ付いた長方形の絣文様が、釜敷き。この時代琉球の人々は、敷物の上で釜を置いていたのだろう。これも、器物から類推された絣文様である。
では南方の織物・琉球絣が、どのような経路を辿り、遠い米沢の地にまで伝わったのか、その理由を考えてみよう。
最初に述べたように、江戸期に生産された多くの琉球絣は、薩摩藩への貢納品であった。薩摩藩では納められた品物の、久米島紬、宮古上布や八重山上布を、「薩摩絣」あるいは「薩摩上布」という名前でひとくくりにし、京都や大坂・江戸に運んで売り捌いた。琉球で作られる織物は、希少品であり、高値が付いたと思われる。藩としては、財政の柱になるような、貴重な輸出品になっていたのだ。
琉球絣の影響をもっとも早く受けた織物産地は、越後(新潟)である。米琉ばかりでなく、現在十日町や小千谷、塩沢で生産されている絣紬には、琉球絣の文様をそのまま使ったような品物が多い。それこそ、十日町琉とか、塩琉と呼び名が付いても良いくらい、文様が酷似している。
薩摩絣(琉球の絣)は、海上輸送でまず大坂へ運ばれ、そこから北前船(西回り航路)で、日本海側の各都市に運ばれたと考えるのが一般的であろう。だが、慢性的な米不足に悩む薩摩藩が、直接穀倉地帯の越後まで米を買い付けに行ったとも、考えられる。
薩摩藩が、越後との米取引に使ったのは、琉球で織られた絣だったことは、容易に想像出来る。またそこでは、品物の売買だけではなく、技術の伝承もされていたはずだ。
当時の航海で使われていたのは、帆船であり、出港するためには、風を待たなければならない。そのため、港に滞在する期間は、時には数ヶ月にも及ぶことがあった。その間に越後の人間が、薩摩の船員から絣の技法を聞きだしていたと、想像を働かすことが出来よう。
また、逆に越後の船が、薩摩の港へ米を運ぶこともあっただろう。おそらく越後の人は、自分の故郷で織っている越後上布に似た、琉球の麻布や独特な絣文様に関心を持ち、技術を習得して帰ったとも考えられるのではないか。
最後に、越後と米沢の関係だが、麻布原料の供給地であったり、織職人を招きいれていたことなどから、元々密接であり、絣の技術は、早々に伝えられたに違いない。また、染原料の紅花(花餅)が、最上川を通じ、酒田の港から北前船で大坂に送られており、このルートを通じても、絣が入ってきたと思われる。
こうして、御絵図帳に記載されている琉球の幾何学文様は、米沢や越後の紬の文様・「カバー文様」として、400年以上を経た現在もなお、使い続けられている。最後にもう一度、二つの品物を並べた画像を、ご覧頂こう。
薩摩藩に従属させられ、貢納品として絣を織り続けた琉球の人々。おそらく、薩摩の役人からは、「無理な注文」が出ていたに違いありません。
多くの文様を複雑に組み合わせた絣や、色を指定したもの、御絵図帳には載っていない新たな文様を作ることも、促されていたでしょう。藩の財政を豊かにする琉球絣は、より精緻で、美しい品物が求め続けられたはずですから。
腕の良い織手女性は、家族と引き離された上で、一ヶ所に集められ、役人の厳しい監視の下で、作業に従事していました。今に伝わる絣文様は、こうした島人(しまんちゅ)達のたゆまぬ努力がなければ、生まれてはいません。
こんな無名の人々に思いを寄せられるのも、呉服屋ならでは、ですね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。