バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

縞にも色々ありまして(2) 伊勢木綿に見る、庶民のカジュアル模様

2016.04 22

1958(昭和33)年に刊行された「点と線」は、松本清張の作品の中でも、代表的な社会派推理小説の一つである。

あらすじは、情死に見せかけた殺人事件の謎を解いていく物語。事件は、博多郊外の香椎海岸で起きているのだが、犯人と疑われる人物は、その時北海道にいたとアリバイを主張。その裏づけとなる証拠を、次々と提示してくる。北海道へ向かう列車の中での目撃証言や、青函連絡船の乗船名簿など、突き崩すことの難しい壁が立ちはだかる。

詳しい内容は、実際にお読み頂きたいと思うが、当時の時刻表を駆使した話の筋立ては、実に緻密に出来ていて、読む者を夢中にさせる。今から50年以上前の交通手段は、飛行機を使うことなど稀であり、車もあまり普及しておらず、鉄道が主であった。新幹線などなく、移動することに時間を要した時代、だからこそ謎解きは難航し、面白みは増す。

 

点と点を結ぶ線、すなわち筋道というのは、小説だけではなく文様の表現としても多様である。前回の稿では、筋が転じて縞となったことを御紹介したが、今日は、庶民に愛された木綿の縞について、伊勢木綿を取り上げながら、話を進めてみよう。

 

(伊勢木綿 藍地 伊勢子持ち縞・薄鼠地 伊勢縞 臼井織布)

縞という文様の発祥は、ヤマト王権時代にまで遡ることを、前回の稿でお話したが、その後平安以降の貴族社会ではほとんど使われることがなく、鎌倉期の武具の模様などに少し見られる程度であった。

日本において、本格的に縞が流通し始めたのは、室町期以後の日明貿易や南蛮貿易により、南方から渡来してきた絹・綿織物によるもの。特に絹織物の中で織り出されている縞は、間道と呼ばれ、当時盛んであった茶道具の仕覆や袱紗などで、使われるようになっていく。

日明貿易により伝来した縞は、中国・広東の名前が転化して「間道(かんどう)」の名前が付いたとも言われている。間道の模様は多種多様であり、持ち主の名前を取って、区別されているものが多い。龍村では、日野間道や吉野間道などを光波帯の図案として、復元している。

渡来してきた裂は、緞子や金襴、錦などの織物であり、そこには様々な特徴的な文様が表現されていた。

以前、このブログで御紹介した花兎模様は、金襴に織り出されたもので、桃山期の豪商・角倉了以が好んだことから、角倉金襴とも言われている。この他、カクカクした幾何学文の中に、動物や鳥を配した有栖川錦(ありすがわにしき)や、流水の中に、鯉のような魚が跳ねる姿が見える荒磯緞子(あらいそどんす)など、いずれも室町期以降に伝来したものであり、これらは総じて「名物裂(めいぶつきれ)」と呼ばれている。

 

さて、東南アジアや中国から伝わってきた縞には、上流階級が好んで使う名物裂のようなものばかりではなく、庶民が使える素朴な綿織物も多く運ばれてきた。縞という名前も、島から運ばれてきた模様という意味で、付けられたとされている。

特に、西インド東海岸の港・セント=トーマスから伝えられた木綿縞は、「唐桟(とうざん)・桟留(さんとめ)」或いは「奥島(おくしま)」という名前で呼ばれ、庶民の間で流行するようになった。

奥島の代表的な模様には、紺地に赤糸が織り込まれた「黒手」と、浅黄色縞の「青手」があり、細い縞のものが多かった。江戸期以降は、この奥島に似せた縞綿織物が、日本各地で作られるようになっていく。特に埼玉・川越で作られる唐桟は、川唐と呼ばれて大流行していく。現在でも僅かに織り続けられている、千葉・館山の唐桟織は、川唐の流れを汲み、植物染料を使って糸染めがされている。

 

子持ち縞とは、太い縞の間に、細い縞が入っている模様。太い縞を親、細い縞を子に見立てたことで、その名が付いた。

唐桟縞が伝えられた頃と、時を同じくして、日本でも綿花栽培が広まり、江戸中期になると、日本各地の多くの藩で綿織物の生産が奨励されていった。それと共に、農村では、自分達が普段の生活の中で使うものとして、木綿の織物が作られていく。

綿を栽培するところから始まり、その糸を手で作り、植物から抽出した染料で染めていく。さらに自分で織り上げた後、家族の寸法ごとに仕立てていく。もちろん、農作業や家事・育児の合間になされていた仕事である。この時代の農家の女性達の日常生活が、どれほど大変なものだったのかと思う。

ここで織り出される模様のほとんどは、縞か格子であり、無地モノも多かった。農家の女性達は、自分が織った布の切れ端を保管しておき、どんな縞柄を織ったのかわかるようにしていた。この端切れを貼り付けたノート(帳面)のことを「縞帳(しまちょう)」と言う。現代のデザインブックとでも言おうか。先日、竺仙の浴衣見本帳の話をしたが、まさに縞帳は、これと同じような役割を果たしていた。

 

同じ太さの縞が均等な間隔で並ぶ、一番オーソドックスな縞模様。伊勢縞と名前が付けられているこの縞は、庶民の普段着としてもっとも愛された単調な模様。初期に伝わった唐桟・奥島の縞は、このような単純な柄。

今日御紹介している伊勢木綿の起源は、文禄年間(1593~6)の豊臣政権の時代まで遡る。当時すでに、伊勢の国の安濃や河芸地方(現在の津市近郊)では綿栽培が行われており、それを使って織物が生産されていた。

最初は、「白雲織(しらくもおり)」という、藍染料を使った紺の無地モノを織っていたが、江戸期に入り他の地方と同じような縞モノも作るようになっていく。

 

現在残る伊勢木綿の織屋は、上の画像の品物を作っている、臼井織布ただ一軒になってしまった。この織屋の創業は江戸中期で、最初は紺屋だった。おそらく、白雲織や伊勢縞の綿糸を染める仕事を請け負っていたと思われる。

明治期になると、紺屋の仕事と並行して織りをするようになる。当時の当主・臼井忠吉が、あの豊田佐吉が開発した、「豊田式木製人力織機」を導入したのである。今をときめく自動車産業「世界のトヨタ」は、木綿織屋の増産に寄与する織機の開発から、始まっている。

現在、ここで行われている製法を見ると、糸作り、染色、織と、どの過程を見ても、出来る限り手間を掛けた伝統的な技法が踏襲され、一部に価格を抑える工夫も見られる。例えば、糸染めなどは伊勢伝統の本藍を使うのと同時に、インディゴが併用されているところ。

インディゴとは、青藍色を出すための染料であり、ジーンズを染める時に使う材料としてよく知られている。旧来は、熱帯植物のコマツナギから取れる顔料だったが、現在使われているものは、ほとんど石油などから生成される合成インディゴである。臼井織布で本藍と合成インディゴを使う理由は、藍だけだと染めムラが出来やすいので、これを抑制するため。もちろん価格も、藍100%より安く出来る。

天然染料は、藍だけではなく、茶や栗皮なども使われており、これを綛染めという方法を使って染められている。綛(かせ)とは、糸を束にした状態のことで、これを、染料が出てくる穴の開いた管に掛けて染め付ける。こうすると、糸の風合いが残ったまま染色することが出来る。

 

そして、糸そのものには撚りを掛けず、澱粉糊で糊付けしている。そのため、使い込んで洗っていくうちに、生地が綿本来の柔らかさに戻っていく。使えば使うほど、着心地が良くなるように作られているのだ。

そして、驚くなかれ、使われている織機は、明治期に導入した「豊田力織機」。織られる速さは、1分間に3cm程度というから、一反を織り上げるのには、一日がかりということになる。

臼井織布の証紙。綿は縮みやすいので、仕立てをする前に一度水に通し、予め縮ませておく。自分で洗う時も、水と中性洗剤を使った手押し洗いがベスト。

農民や一般庶民が使った縞木綿も、こうして現代の工程を見ていくと、気の遠くなるような手間が掛けられて作られている。「伝統を守る」と言葉で言うことは簡単だが、強い意志に裏付けされた努力があってのこと。何とか残り続けて欲しいものだ。ところで、今なお使い続けている、豊田式力織機のメンテナンスはどうしているのか。明治の木製織機の部品など、ストックがあるとは到底思えない。この辺りが、少し気になる。

 

さて、最後に縞の文様にどんなものがあるのか、二つ、三つご紹介しておこう。

(鰹縞・藍地 片貝木綿)

鰹の腹模様を連想して付けられた、少し太縞の藍濃淡色。大胆にして、際立つ着姿。

(万筋・藍地 竺仙浴衣)

江戸小紋などにも見られる、細かい縞の万筋。藍色濃淡が付けられた縞は、遠目からは無地のように見える。小粋な江戸浴衣の着姿として、代表的な模様。

(矢鱈縞・白地 石下結城)

縞の太さや間隔が不均一になっているもの。「やたらに付けた」ような、いい加減な縞模様とも言うべきか。仕立ての際に工夫が必要な縞で、模様の取り方により、着姿が変わる。

 

この他に、縞の種類はまだまだ沢山ある。折りを見てまた御紹介したい。次回のにっぽんの色と文様の稿では、縦横の縞が直線に交差する「格子模様」を取り上げてみたい。

 

縞ほど、バラエティに富んだ着姿を見せられる模様はありません。太さを変え、間隔を変え、色を変えることにより、縦横無尽、多種多様の図案になります。

単純にして、奥が深い。使う素材は、絹でも、木綿でも、麻でも良く、模様の表現は、染めもあれば、織もある。しかも、キモノにも、帯にも使われる。こんな模様は、他には見つかりません。

ぜひ皆様も、いろんな縞を試してみて下さい。きっと、この模様のとりこになるはず。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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