バイク呉服屋に来店されるお客様の中で、もっとも若い「お得意さま」は六歳の女の子である。普通小さな女の子が、キモノを着る機会は、三歳や七歳の祝着に限られているので、呉服屋の暖簾をくぐることは稀である。
でもうちに来るこの女の子は、一年くらい前から、お母さんと一緒に茶道のお稽古に通っている。娘さんを連れて茶道を嗜むとは、何と優雅な生活かと思われるだろうが、お母さんの普段の仕事は、高校の先生である。忙しい毎日を送る中で、休日娘と過ごす時間を、少しでも潤いのあるものにしようと、一念発起して茶道を始められた。
お母さんと一緒にやってくる小さなお客様は、すでに自分の好みがあるようで、「この色のキモノが着てみたい」となどと言う。毎月、何回かキモノを着ているので、自然に自分が好きな色や模様を覚えるのだろう。
だが、このお母さんにとって、茶道はあくまでも趣味なので、そうそう費用をかける訳にはいかない。娘さん用の小さなキモノは、茶道の先生が若い時に使ったものや、ご自分でリサイクル店などを回って探してきたものを、上手に再生している。
子どものキモノというのは、浴衣を除けば、ほぼ祝着用のものに限られる。お稽古やお茶会の席で使おうとすれば、古い大人モノを仕立直す以外に、手立てが見つからない。
それを請け負ってくれる呉服屋はないかと探しているうちに、バイク呉服屋と遭遇したのだ。私としても、何とかこの若いお母さんの希望に適うように、出来るだけ費用を抑えて、いつも仕事を請け負わせて頂いている。
この方が、子どもモノとして探しているのは、やはり小紋である。総柄であれ、飛び柄であれ、幼い女の子が使う小紋のキモノは愛らしい。今までこのブログの中でも、祝着用として使う小紋を、何回か御紹介してきた。
今日は、そんなかわいい小紋のキモノを仕入れる時に使う、小紋・見本帳の話をしてみよう。これも「呉服屋の道具」の一つに当たるだろう。
(四つ身友禅小紋・色柄見本帳 千切屋治兵衛)
千切屋治兵衛(ちぎりやじへい)は、歴史ある友禅染のメーカーとして知られている。先祖は、藤原北家に連なる家柄であり、宮大工を生業としていた。平安遷都の際に、桓武天皇から御所造営を請け負ったことで、京都に移り住むことになる。時は移り、室町後期の1555(弘治元)年に、衣棚(ころものたな)町で法衣業を始める。この年が、今に続く「千切屋一門」の始まりである。
衣棚町を基点とする衣棚通は、室町通と新町通の間にあり、豊臣秀吉が行った新たな京都市中の町区割・天正の地割により新たに生まれた通りである。もとより、この界隈を含め、京都市中には多くの寺社・仏閣があり、法衣業そのものは京都の地場産業である。
江戸中期の元禄年間に友禅染が生まれると、千切屋は法衣業から呉服業へと転進し、京友禅の製作を始める。法衣業を興した千切屋の祖・西村与三右衛門貞喜の後、代ごとに分家を繰り返し、江戸期にはその数は百軒にも上り、商いは隆盛を極めた。
江戸期・京友禅のトップメーカーであった千切屋一門も、明治以降、現在に至るまで残るのは、三社のみである。本家はすでになく、分家した治兵衛・總左衛門・吉右衛門が、それぞれ千切屋治兵衛・千總(ちそう)・千吉(ちきち)という社名で、その名を今に留めている。
この中で、友禅のメーカーとして世間に最も知られているのが、千總であろう。高島屋や三越・伊勢丹など、老舗デパートが扱う振袖の主力商品は、千總が製作する型友禅のもの。ネームバリューもあり、模様も古典的でオーソドックス。質が確かな上に、価格も30~80万円くらいなので、安心して消費者に勧めることが出来る品物になっている。
そんな商売上手の千總にくらべて、千切屋治兵衛は地味な会社である。けれども、友禅の技術にこだわり、「優れた意匠を作る」という点においては、決してひけをとらない。むしろ、徹底して「質」を追求してきた会社とも言えよう。
平成に入り、上質な友禅の売れ行きが悪くなるに従い、以前のようなモノ作りをすることは難しくなってはいるが、千治(ちじ)の品物には、どこかに江戸の薫りを残すものが多いような気がする。
これから御紹介する四つ身友禅小紋も、武家や江戸の裕福な商人の子どもたちが身にまとっていたような、愛らしい図案と鮮やかな地色のものばかりである。
子ども用の小紋を仕入れる時には、現品としてすでに染め上がっているものから選ぶ場合と、見本帳の中から選んで誂えてもらう場合とがある。
小紋は、型が破損しない限り、地色を変えたり、模様の挿し色を変えたりして作ることが出来る。うちの店で、この千治の小紋を扱うようになってから40年以上は経つだろう。この見本帳の中には、かなり以前から使われている見覚えのある模様も多い。
小紋を作る場合、何より大切なのが型であり、型代に費用が一番かかる。型さえあれば、後は染める手間だけなので、同じ型を長く使えば使うほど、利益を多く出すことが出来るのだ。
その上、確実に利益を出そうとする場合、やみくもに沢山の品物を染めてしまうより、受注を受けたものだけにしておけば、無駄が出ない。そのために、見本帳を作っておく。
ご覧のように、大きめのバインダー・ノートに柄見本の布が貼り付けられている。何十年にもわたって作り続けられてきたものだけに、数も多い。一つの柄でも、様々な地色が使われている。
店側としても、扱いなれている商品だけに、見本布さえあれば品物を選ぶことが出来る。全体像を見なくても、どのような模様なのかわかるのだ。それほどスタンダードな品物なのである。
では、見本帳でみた布が、現実にどのような反物となっているのか、御紹介しよう。
濃い緋の地色に、流水に浮かぶ桜と楓の模様。(見本帳の布)
反物として出来上がると、このような模様となる。見本布は、この画像の上の部分の模様を切り取ったものだと判るだろう。
コバルト・ブルー、クリーム、緋と地の色を変えて染められたもの。同じ型を使っていても、地色を変えるだけで、印象が変わる。もちろん、これ以外の地色を使って染めることも出来る。
こちらは、薄いピンク地色で、観世流水の中に、大きい橘と小梅・小桜の花を散らした図案。画像の左が反物で、右が見本帳の布。
今回バイク呉服屋が、この見本帳から選ぼうとしたのは、黒地の模様。昨年売れてしまったので、補充する必要があった。子どもモノで黒い地色を使うというのは、少し大人過ぎると思われるかも知れないが、実際に仕立てて見ると、模様が浮き立ち、他の地色にはない華やかな着姿になる。
では、今回どんな模様を発注したのか、それを御紹介しよう。
直線的に上に伸びる菊と桜の花に、揚羽蝶が舞う模様。見本布の地色は緋色と空色だけだが、これを黒地で染めてもらうことにした。黒という地色は、飛び柄になっているものより、総模様の方が着映えがするように思う。柄が離れていると、地の黒場が強調されてしまい、大人っぽくなり過ぎるきらいがある。連続してキモノ全体に繋がりのある模様ならば、子どもらしさは維持出来る。
黒地は、子どもが使うものとしては、難しい色だけに、慎重に模様を選ばなければならない。画像で見えるように、付箋を貼って染を依頼する。
黒地のキモノは、合わせる帯の地色が自由に選べるという利点もある。例えば、緋色のキモノに朱の帯を合わせることは、避けるだろう。これでは、キモノと帯の色が重なってしまい、はっきりとコントラストが出て来ないからだ。
これが黒地ならば、帯の色は、緋でも黄色でも鶸でも良くなる。また、白でも金でも銀でも構わない。黒地の帯を除けば、選ぶ帯により、雰囲気を自由に変えることが出来る。大人っぽくもなり、子どもらしくもなるのは、黒というキモノの地の色なればこそ、である。
呉服屋がキモノを仕入れる時には、出来上がっている品物を見て選ぶだけではなく、このような「見本帳」を使うことがあるということを、皆様にも知って頂きたかった。
バイク呉服屋は、この千切屋治兵衛の小紋の他に、竺仙の浴衣を仕入れる時にも、見本帳を使って選んでいる。竺仙では、一年ごとに染める模様が違っている。前の年に染めた模様でも、翌年には染めないモノがある。
3月になると、竺仙の担当者が、今年染める予定の浴衣の柄見本帳を持って、店にやって来る。浴衣だけに、その数は小紋見本と比較にならないほど多い。生地だけでもコーマあり、綿絽あり、綿紬あり、紅梅ありと多種多様である。この中から、自分の店に向く品物を選び、「染の予約」をするのだ。
品物には、長い間染め続けられている、スタンダードな模様があるかと思えば、現代感覚で新しく型を起こしたものもある。そして、1年だけで消えてしまう模様もあれば、染める職人がいなくなって消え行くものもある。「万筋」のような、熟練した技術を要するものが、染められなくなってしまうことは、何とも惜しい。
千切屋治兵衛にしても、竺仙にしても、長い歴史を積み重ねてきた老舗の染メーカーである。柄見本帳の中には、伝統を築き上げてきた染屋の息遣いが聞こえる。
時代が変わろうとも、変わりなく使い続けられる品物こそ良品であり、次世代にぜひ残したいと思う。品物のいのちでもある型紙が、一年でも長く、良い状態が保てるようにと、祈るばかりである。
昨年秋、最初にお話した六歳の女の子は、初めて新しいキモノを誂えました。七歳の祝着として選んだ品物が、千切屋治兵衛の黒地の小紋。
どのような帯を合わせ、それがどんな雰囲気になったのか、近いうちにブログの中で御紹介したいと思います。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。