バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

描き疋田波模様 京友禅黒留袖・北秀

2013.08 04

この20年の間の呉服市況の低迷により、多くの問屋、メーカーが倒産や廃業に追い込まれてきた。前にお話した通り、市場規模が全盛期の1割以下に落ち込み、生産量(染呉服)は5%以下という、考えられないような少なさの状況ならば、ある意味当然の帰結であった。

「問屋」というものには、二通りあって、「モノ作り」をしている「メーカー問屋」と、メーカーからモノを仕入れ、小売屋にそれを卸すだけの「問屋」がある。リスクを背負うのは、当然「モノ作り」をしている方の問屋で、「モノが売れない時代」になれば、その影響をマトモに受けてしまう。

ましてや、「浮き貸し品」で商いをしようとする小売店や大手販売店、百貨店の増加は「メーカー問屋」の経営悪化を増幅させるものとなってしまった。

「北秀商事」という「メーカー染問屋」が倒産したのは1998(平成10)年の正月明けのことである。以前にも少し紹介したが、「北秀」は、東京の問屋の中でもっとも「高級」なものを扱う「染問屋」として、業界の中で知らない者はいなかった。

当時、銀座の一流店であった「きしや(皇室関係の誂え・美智子妃殿下のお召し物を納めていた)」や「ちた和(歌舞伎界や花柳界の上客を多数持っていた)」、また「三越」「高島屋」など前身が「呉服屋」だった老舗百貨店の「特選品」に品物を納めていたのがこの「北秀商事」だった。

特に「きしや」が扱った品の中で、美智子様がよくお召しになる薄い上品な「銀鼠地や「卵地」であっさりした柄付けの訪問着、付下げは「きしや好み」といわれ、きもの通の上流階級のご婦人方には、ある種の「あこがれ」を持って見られていたのだ。

北秀は日本橋浜町の明治座の近くにビルを構え、この業界では珍しく、社員がほとんど「大学出」という会社だった。うちのような「小さい地方の小売店」は、この北秀と取引するだけで、「よその店」との品物の差をお客様に感じて頂けていた。

北秀が優れていたのは、多くの優秀な職人集団(千代田・千ぐさ・大松など)を抱えていたことである。黒留袖や色留袖、振袖など、いわゆる「絵羽モノ」といわれるフォーマルモノの高級品を製作することにかけては右に出るものはなく、多彩な友禅の手仕事と優れた柄のデザインは、それこそ「あか抜けた、センスのよい」品だった。

これまで、ブログの中で紹介した品の中にも「北秀」のものがあるが、破綻して13年以上経つため、「北秀から仕入れた」品は数少なくなっている。今では、お客様から、手直しやしみぬきなどで「里帰り」してくるもので、当時の「北秀」の品の素晴らしさをしのぶばかりである。残念ながら、現在この問屋をしのぐようなところは見当たらず、当店にとっても、業界にとってもこの破綻は「痛手」であった。

前置きが長くなってしまったが、今日はそんな「北秀」の品を紹介する。

(疋田波模様友禅黒留袖 北秀 1990年 甲府市W様所有)

大波が朱の「描き疋田」によって縁取られ、その波の中に「宝尽くし」「青海波」「菊唐草」「七宝」「亀甲に花菱」など伝統柄で埋め尽くされた、大胆な中にも、豪華さと優美さを兼ね備えた逸品といえよう。

この品を特徴付けているのは、何といっても「波模様」の立体感が現われている「疋田」の見事さにある。「疋田(ひった)」は「絞り」の技法の一つであるが、この黒留袖のように、「絞らない疋田」で手で染め付けられたものを「描き疋田」という。

波頭を表した部分の近接画像。糸目で引かれた波の輪郭の内側に、「朱の描き疋田」が入れられている。この朱色の疋田はよく三、七歳の祝い着で「鹿の子絞り」によるもので見受けられるが、「疋田」として、「黒留袖」に使われる色としては、めずらしく、また大胆な色の使い方になっている。この色使いがこの柄のポイントでもあり、「波」の立体感を出すのに大きな役割を果たしているのだ。

染めた「疋田」は、通常は人の手による「型紙」で作られているが、この品に使われている一つ一つの疋田を見てみると、形も不揃いで、かすれたように描かれたものや、中の「点」の大きさもまちまちである。これが「描き疋田」と呼ばれる物の特徴である。このような、「非均一性」は「手仕事」らしさをよく表しているもので、これを人の手で入れていく手間を考えれば、大変な作業である。

「型疋田」も、精緻に作られている物は、「人の手」による「手描き感」がよく表れているものが多いが、なんといってもその「立体感」は「描き疋田」にかなうものではない。この品を見れば、「染め」の技法であるのに、「絞り」を使った仕事のように見えてくる。今となっては、この「描き疋田」を使って柄を表現する品物自体少なく、あったとしても、この手間仕事を考えれば、高価なものになってしまう。

この品には、「描き疋田」のほかに、様々な友禅の技法が取り入れられているが、上の画像は、宝尽くし模様の背景の「金加工」である。金箔の上に不揃いの形の金の模様(その部分が剥げたようにも見える)が蒔かれているのがわかる。これは、「押し箔」という金加工(箔の下に接着剤を塗り、箔を箔箸でシワが出ないように貼り付ける)と「もみ箔」(箔に亀裂を入れて仕上げた技法)を併用して付けられたものである。

金加工の部分の周囲の柄。よく見ると先に例を上げた「宝尽くし」の部分とそれより上にある柄、「七宝」とでは、「金加工」のやり方が違うのがわかる。「七宝」の加工の仕方は「たたき加工」というやり方で、筆に糊を付けてそれを生地の上に「たたき」そこに「箔」を置くという方法である。そして、「菊の花」は刺繍が施され、その縫い取りの技法も、花の輪郭は「駒刺繍(駒縫)」、花びらは「縫い切り」というそれぞれ違った方法で仕事がなされているのだ。

留袖の柄の全体像。改めて、その「豪華さ」と「柄の斬新さ」が目を引く。

 

この作品の細部を一つ一つ見ていくと、手を抜かない丁寧な仕事振りがよくわかる。「北秀」が扱っていた「絵羽モノの逸品」の施しを見ると、この先の時代にこれだけの仕事をする職人達がどのくらい残っているだろうかと考えてしまう。

キモノ創りを真剣に、「手間」と「お金」をかけてやっていける「メーカー問屋」が減っていく中、「質のよい品」をお客様に案内して、長くお使い頂く様にお奨めすることが、「小売店」としてできる事だと思う。「逸品物を仕入れる」ことは、我々小売の者も勇気がいることである。当然「高額」なもので、それを持つ「リスク」を考えればなかなか決断がつかないのはあたりまえだ。しかし、小売が「買い取らなければ」メーカー問屋は職人に仕事が発注できない。発注しなければ、「職人の仕事」はなくなる。仕事がなくなれば、「廃業」せざるを得ない。

気が付けば「手間仕事」を請け負う「職人」が誰もいない。そういう構図に陥っていくことになる。残念ながら、もしかしたらもう「手遅れ」かもしれない。現実には、そんな「危機的状況」になっているのは間違いないと思う。

 

「里帰り」した品物を見ていつも感じるのは、これだけの仕事のものを「今」作るとすれば、どのくらい「時間」がかかり、「値段はいくら」になるだろうかということです。「よい仕事」の「モノ」としての価値は、時代を経るにして「色褪せる」どころか「輝きを増す」ばかりではないでしょうか。お手持ちのお客様は、「世代を越えて」お使い頂き、民族衣装として「職人の手仕事」でつくられた品の素晴らしさを、伝え続けて欲しいと願うばかりです。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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