Jリーグの試合では、上半身裸のまま声をからし続ける若いサポーターを見かけることがよくある。試合の熱気と興奮で「服なんか着ていられるか」ということだろうが、彼らは、現代の「裸族(らぞく)」と呼べるような存在であろう。
だが1970年代までは、実際に何も身にまとわないまま生活していた民族が存在していた。西アフリカ・トーゴ北東部クタマクの先住民族「バタマリバ人」である。この人たちは、泥で作った二階建ての塔状の住居(タキャンタ)で暮らし、衣服を持たない本当の裸族だった。
ここでは今も、上半身は裸のままの女性を多く見受けられるようだが、その理由は民族独自の宗教観に基づいて、生活習慣が形成されているためらしい。この特異な風習と文化、そしてタキャンタの美しい景観は、トーゴ唯一の世界遺産として認定されている。
人間が、裸であることを恥ずかしいと感じるようになったのは、いつだろう。キリスト教の世界では、旧約聖書・創世記で記されているように、アダムとイブがエデンの園の「禁断の果実」を食べた時から、ということになるだろう。
この禁断の果実とは、何だったのか。地域により様々な説がある。西ヨーロッパではリンゴあるいは無花果(イチジク)と考えられ、東ヨーロッパでは葡萄やトマトだと信じられている。いずれにせよこの果実は、思わず手を出してしまいたくなるような魅力あるものとして、すでに認識されていたことになる。
キリスト教において、葡萄という果実は重要な場面で登場している。教義の中心となる儀式の一つ「聖餐(せいさん)」は、十字架に掛けられたイエス・キリストの死と復活、そしてその永遠の存在を確認するものであり、人間の原罪からの救済を認定するもの。この式に使われるのは、パンと葡萄酒。パンはキリストの体で、葡萄酒は血、それを分け合って取ることにより、信者は、キリストの体と血に変化を遂げる。
さらに聖書には、葡萄にまつわる様々な話が記されている。創世記9章20節には、ノアがぶどうを作り始めたことや、旧約・レビ記19章10節には、モーセが貧者に葡萄の実を与えたことが書かれ、さらには新約・ヨハネの黙示録14章18~20節には、葡萄の木をキリストの体とみなし、その実は神からの恵みとする記載がある。
このように見ていくと、葡萄という果実が歴史上どのように位置づけられていたのか、よく理解出来る。そして、宗教において象徴的な植物となったことと、文様として表現されるようになったことには、大きな関わりがある。
長々と前置きを書いたのは、葡萄唐草という文様が、このような背景とは切っても切り離せないものだからである。では、品物をご紹介しながら、話を進めてみよう。
(赤紫地色 葡萄唐草文様・光波帯 龍村美術織物)
龍村平蔵の手で復元されていった古代裂や名物裂。その中でも正倉院収蔵品の復元・研究は大正末期より始められていた。当時の帝室博物館より委嘱を受けて、実際に正倉院へ赴き、御物を手に取りながら染色方法や文様の調査が行なわれた。
この葡萄唐草文様も、そんな復元品の一つである。これは、正倉院・南倉に収蔵されている東大寺献納宝物・褥(じょく)に用いられたもの。褥とは、仏堂の机の上や天皇の寝具などに敷かれた敷物のことである。
この収蔵品は、几褥白綾(きじょくしろあや)と言い、敷物の表面に表れていたものがこの葡萄唐草文様で、鹿の子絞りが裏張りされていた。褥には記述があり、神護景雲2(768)年に、当時の称徳天皇が東大寺へ行幸した際に、仏殿の机の敷物として献納されたことがわかっている。
(白金地 葡萄唐草文様バッグ 龍村美術織物)
同様の文様の配色違いのものを、バッグ生地として使ったもの。正倉院の唐草文様は、伝播した時期により、少しずつ図案に違いがある。この法隆寺・褥に付けられた文様は、8世紀後半(750年前後)のもので、ゆるやかなヒゲ状の蔓と葉があり、真ん中には花の形の模様が見える。これは、連結式唐草と呼ばれる形状のもので、葡萄の房、葉、巻き蔓を文様の主要素として、葡萄そのものの姿をリアルに描いている。
(白金地 葡萄唐草文様・草履 龍村美術織物)
白鳳期後半から天平期前半(650~700年頃)には、葡萄の蔓だけを使った文様や花に主眼を置いた文様が多くみられたが、天平中期以降の染織品に見られるものは、上のような自然に近い葡萄の姿を、忠実に表現したような文様に変化したものである。同時期のものに、法隆寺に献納された宝物・赤地葡萄唐草文綾幡足があるが、文様は違えども、連結式唐草方式が同じように取られている。
(白地 葡萄唐草文様・九寸織名古屋帯 龍村美術織物)
同じ葡萄唐草でも、太鼓腹の帯文様として一つだけが付けられている図案だと、かなり印象が違って見える。龍村はこの帯に、「光彩葡萄唐草」と名付けているが、文様の構図は、上の光波帯やバッグ・草履に付けられているものと同じである。
ただ、蔓や実、そして真ん中にある花などが簡略化され、デザインとして使われているために、わかり難い葡萄唐草になっている。
(銀地 彩釉葡萄文・袋帯 龍村美術織物)
7世紀から8世紀にかけて、唐で作られた鏡に「海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)」というものがある。この鏡の形状は円鏡(丸型)や、方鏡(角型)で、裏側には葡萄唐草と数種類の獣で構成されていた模様があしらわれていた。もちろんこのような鏡も日本へ伝えられ、天平期には数多く製作されていた。
模様は内側と外側に分かれていて、内側には葡萄唐草文様と大きな獣(鳳凰・馬・獅子など)が伏せた姿で描かれ、外側は、やはり葡萄唐草文様の中に見え隠れする小動物(鳥・鼠・昆虫)の姿があった。
上の帯を見ると、葉の上に遊ぶ狐か猪のような動物の姿があるが、おそらく海獣葡萄鏡の模様に発想を得て、この構図を考えたと思われる。但し、この帯の葡萄は葡萄唐草文様ではなく、写実的な葡萄の姿で表現されているために、本来ある海獣葡萄鏡の文様とは、離れたものになっている。
最後にもう一つ、変則的な葡萄唐草模様の品物をお目にかけよう。
(薄鼠地色 葡萄に唐花文様・京友禅付下げ 松寿苑)
この品物は、葡萄唐草と言っても、正倉院御物に由来された文様ではなく、葡萄と唐草とで構成されている図案である。葡萄そのものは、葉や実・蔓が写実的に描かれていて、一見単純な葡萄文の品物だが、それぞれの葉の中に唐草や唐花が描かれているところに面白みがある。
葡萄の葉の中に描かれている唐草と唐花。上の画像は、模様を印象付けるように、蛍光的な緑青色で挿された上前おくみ部分の葉。これは葡萄唐草文ではなく、葡萄と唐草を融合して考えたデザインの品物と位置づけられる。また主体となる植物が葡萄だけなので、季節が前に出てくる「秋の旬模様」と言えるだろう。
ブドウ栽培がヨーロッパで始まったのは、紀元前3000年頃。また葡萄酒そのものの存在は、紀元前6000年頃に遡る。メソポタミヤやエジプト文明が栄える頃には、すでにワインは貴重品として大切に扱われていた。そして葡萄酒の存在は、文明の発達とともに世界各地へ伝播していった。
この葡萄酒文化の拡散こそが、葡萄という植物を特別視する結果となって表れた。つまりワインの酔いで得られる心地よさが、人々の心を慰め、快楽の源になったからである。
その結果、古代ギリシャやローマでは神への奉げものとなり、後には最初に述べたように、キリスト教の教義では欠かすことの出来ない植物と位置づけられるようになった。葡萄が、慈悲や慰安、さらに恵みの象徴として「聖なる果実」となったのはこんな経緯からである。
聖なる果実となった葡萄は、まず神殿や教会などの柱や壁の装飾モチーフとして使われるようになり、様々に図案が凝らされていった。その文様は、ヨーロッパから中東・西アジアから東アジアと伝わっていく度に、それぞれの地域の文化と融合し、図案をアレンジしながら、変化していった。
天平期に日本へ伝わった葡萄唐草という文様は、シルクロードを通りながら複雑に東西の文化を融合した、象徴的なものと見ることが出来る。ただ、正倉院御物にあしらわれている葡萄唐草文様を見ると、最終的に影響を受けたのは、やはり唐の文化だと思える。中国の空想的植物である「花唐草」が、文様の中に大きく存在していることが、それを示しているからである。
二回に分けて葡萄文と葡萄唐草文について、品物を見ながら話を進めてきました。
季節感あふれる「葡萄文」と、代表的な天平文様である「葡萄唐草文」。葡萄文で旬を意識した品物を選ぶのも良いし、葡萄唐草文で正倉院的な文様の楽しさを発見するのも良いと思います。
同じ「葡萄」という植物をモチーフに使っていても、それぞれの模様があしらわれる背景には違いがあり、それに思いを馳せながらキモノや帯を見て頂くと、もっと世界が広がるような気がします。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。