バイク呉服屋の忙しい日々

現代呉服屋事情

形骸化を容認出来るか(3) 二極化する品物と消費者(前編)

2015.06 17

6月に入り、店内を薄物に模様替えしたので、涼やかな絽の暖簾に掛け変えてみた。

普段から、裏の事務所との境と階段の昇降口の二ヶ所には、目隠しのために暖簾を掛けておく。暖簾の丈は3尺(約110cm)ほど。事務所に置いてあるパソコンでブログを書きながら、暖簾越しに店の様子が見える。

店の入り口は開け放してあるので、通りがかった方がぶらりと店内を覗きやすい。今は竺仙の浴衣や小千谷縮など、涼やかな品物が飾られていて、見るだけでも夏の到来を感じて頂けるだろう。

 

2Fへ上がる階段の手前にかかる暖簾。素材は綿絽、柄は白地に鷺。

 

店の品物を眺めている方は、私からは暖簾越しに見えているが、すぐに声など掛けることはない。誰もいない店内を不思議そうな表情で見回し、何かを聞きたげにされている時になって、はじめて私の方でお客様に声をかける。

家内は、人相の悪いバイク呉服屋が、店頭に座っていれば、店内の品物を見たくても、入ることを躊躇するので、暖簾の奥に隠れているくらいで丁度良いなどと、失礼極まりないことを言う。だが、一般に敷居が高いと言われている呉服専門店に気軽に入って頂くためには、当然店側にも工夫が必要だろう。暖簾は、私の姿を故意に消すための、大切な道具と言うことになろうか。

 

店と事務所を隔てる暖簾。暖簾の間から事務机がわずかに見えるが、ここにパソコンが置いてある。暖簾素材は最初のモノと同じ綿絽・藍地に菊五郎格子。

 

この暖簾の柄を見て、気付かれた方もおられると思うが、まるで浴衣生地をそのまま使ったように感じられるだろう。それもそのはずで、これは江戸浴衣の染屋が作った暖簾である。菊五郎格子などは、男物浴衣の伝統柄の一つだ。プリントではなく、きちんと型をおこし手染めされたもの。しかも綿絽なので透け感があり、涼やかに見える。

残念ながら、15年ほど前にこの染屋は廃業してしまい、今はない。暖簾といえども、きちんと作られているものには飽きが来ない。先日ご紹介した、竺仙の挿し色のない浴衣に共通する涼感がある。同じようなモノがないかと、探してはみるが、中々見つからない。暖簾のようなちょっとしたモノでも、作り手が無くなってしまえば、それで終いになる。

竺仙の品の中にも、さやま縮やみじん縞コーマ浴衣のように、製作をやめてしまっているモノがある。手の掛かる難しい仕事は、職人がいなくなれば、品物そのものは作りたくても作れない。

このような品物が消えていく中、人の手を経ずに作られるモノが、今、市場にあふれている。これをどのように考えるか。前回は、「仕立」という加工の現場から形骸化を考えてみたが、今日から二回にわたり、「モノ作り」という観点から、この問題についてお話してみたい。

 

今、呉服市場を席巻しているものは「インクジェット」の製品である。特に多いのが振袖で、量販店やいわゆる振袖屋がパンフレットに載せて、セット販売しているような品物は、ほぼインクジェットというプリント機械で印刷され、作り出されたものである。

最近では、この印刷キモノに、ミシン刺繍や劣悪な箔などを貼り付けて、何も知らない消費者の目をくらませて作り出されているような品も多い。中には、「どうしてこんな加工をするのか」と驚いてしまうようなモノもある。

いつぞや、この手の振袖の手直しを依頼されたことがあった。お客様が、たたんであるキモノを広げようとした時、箔が生地にくっついてしまい、バリバリと音を立てて、下の地に落ちてしまった。これは劣悪な箔が、劣悪な糊を必要以上に使い、固めて貼り付けたられたことが原因だ。黒留袖や訪問着などでも同様の不具合が起こった品物を持ち込まれたことがあり、生地と生地を重ねておいただけで、模様が下の地に写ってしまうようなケースもあった。

このような「バリバリ箔」や「劣悪糊」を使ってあることを、買った時点で消費者が見抜くことはほとんど出来ないだろう。もしかしたら、売り手の業者の人間も知らないで扱っているかも知れない。だいたい、この手の品物を扱うような店の者は、呉服屋なのにどんな作り方がなされているものなのか、理解されていないだろう。

もし、わかっていたとすれば、とても奨められる代物ではない。たたんで仕舞っておいたキモノを出して広げただけで、柄や箔が脱落するような品物を誰が売ることが出来ようか。売り手に消費者目線があれば、絶対に扱うことはできない粗悪品である。これは、八百屋や肉屋がしなびた野菜や腐った肉を売ることと、同じことだ。普通に考えれば、あり得ない。

ここまで酷い品物は、世間に多く流通していないと信じたいが、商品の質というものに、売り手がまったく目を向けていない一つの証だと思う。

 

インクジェットの品物というのは、安価に大量に作ることが出来る。振袖屋がパンフレットに載せられるのは、いくらでも作ることが出来る品物だからである。

私は、インクジェットの製品が悪いと言っているのではない。もし、私がこの手の品物を扱うのであれば、「印刷で染めてあり、人の手がかけられていない品物だから安くなっている」と、理由をお客様にお話してから、商いをする。

いつぞや、廉価な江戸小紋を探されているお客様がいたので、この旨を説明してから、インクジェット染めの品物をお売りさせて頂いた。型紙を使い、人の手で染められている江戸小紋の価格は、やはり15万円以上になってしまう。そこへいくとインクジェットは廉価だ。探せば、2,3万円のモノも見つかるだろう。品物の選び方は、使う方の考え方で変わる。手軽な価格ということに重きを置いたモノ選びをすることに、何の問題もない。

誰もが、いつでも質の高い品物を求められる訳ではない。お客様の考え方に応じた品物を探し、対応していくことも、呉服屋の責務だ。

但し、大切なのは、どうやって作られているかという、その情報を消費者に伝えることである。簡単に作られているものは、廉価でなければならない。価格は手間と比例していなければ、それはウソやごまかしになる。

 

インクジェット振袖を粗悪な帯とセットにし、使われている裏地や合わせる小物の品質を落とすだけ落とし、さらに外国で縫製されているような品物のパンフレットをばら撒くというのは、手間に応じた価格にするという、商いの原則を隠蔽するものにしか、思えないのだ。なぜならば、一つ一つの価格(表生地・裏地・仕立代)が提示されておらず、「全部まとめて、はいいくら」式になっていて、品物や仕事それぞれの値段がわからないからである。

ハンバーガーショップは、違う種類のハンバーガーやポテト・飲み物をセットにして販売しているが、単品の価格もきちんと明示してある。単品で買うよりセットで買う方がお客様の得になることを、はっきり認識してもらおうとするのだから、当然と言えば当然だ。

振袖屋のセット販売には、単品価格の提示がない。それは、それぞれの品物の質や加工の方法というものに対して、消費者に伝えていないことに他ならない。

そして、前撮り写真や着付け、さらに着た後の手入れ代金や卒業式に使う袴の貸代までもサービスに付けるような、「手管」を駆使した商法は、利便性を盾にして、本来の品質に消費者の目を向けさせないための、「智恵」のようなものであろう。

 

先ほども述べたが、私はインクジェットというモノの作り方そのものは、あってしかるべきだと思う。この技術の使い方次第では、染モノの主流になるかも知れない。

例えば、簡単に量産出来るということよりも、オリジナルな模様を自由に染め出すことの出来る技術というところに、注目してみる。型紙を使う小紋などを考えてみても、一枚だけの「誂え品」を作ることなどは、ほぼ困難であろう。型代や染手間を考えれば、とんでもない価格に設定しなければ、作ることは出来ない。

しかし、インクジェットならば、安価で簡単に、どんな模様でも生み出すことが出来る。それは自分だけの色と模様を使った「誂え品」が簡単に生み出せることになる。消費者が品質ではなく、デザインや見た目やオリジナリティを重視し、その上価格が安いということになれば、それなりの需要は見込めるだろう。

 

だがこの先、インクジェット品だけしか市場に残れないとなれば、これは呉服屋にとって危機となる。インクジェットはあくまで、品質に重点を置かない品物であり、それと割り切った消費者が使うモノである。

品質にある程度目をつぶるということは、形骸化を容認するということに繋がるが、これは一部例外的な話であり、あくまでも価格の安さや利便さというところから考えて、ということ。

 

キモノや帯の質に一定以上の価値を求められる方は、どんな時代になろうと、存在し続けると信じている。

それは、長い歴史や伝統によって受け継がれてきた技術や智恵が、品物の中に込められていると、多くの日本人が認識しているからだ。民族衣装だけが持つ力を、キモノや帯の中に見ているのである。もちろん「品物」ばかりでなく、それを加工する職人や、長く使うために手直しする職人という、「人」の存在も理解している。

呉服というものに、文化的価値を認め、その奥深さを理解しようとされている方がおられる限り、品質から目を背けることは出来ない。

 

品質の捉え方に対して、消費者が二分され、それに応じて品物も二分される。しかし、呉服業界を取り巻く現在の状況を考えれば、質に価値を求める消費者にとって、厳しい時代が訪れるであろうことは、容易に想像できる。

技術を受け継ぐ職人は、モノ作りの現場にも、加工の現場にもいなくなる。また流通の現場では、モノ作りの中心となっていたメーカー問屋の力は衰え、質にこだわって品揃えをするような小売屋も姿を消しつつある。

質を重んじる本流の仕事が沈み、傍流のモノだけが残るとしたら、その時は、呉服と言うものが過去の産物になる時であろう。

 

呉服についてある程度の知識を持っていた世代は、すでに60代から上である。親から子へと、家の中でキモノや帯の話が伝えられる機会も消えている。しかし、「知りたい」と思われる若い方や、3,40代の方が多く存在していることも、事実だ。この方たちが、未来へと伝統衣装をつないでいく、架け橋になる。

消費者ともっとも密接な立場にいる小売屋にこそ、良質な仕事(品物や職人のこと)を伝える義務があるのではないだろうか。知識を求めている若いこの方々に、どれだけのことが伝えられるのか。これは小売屋の責任である。もし、これを怠ることになれば、それこそ呉服屋自身が、形骸化を容認していることになると思う。

次回は、小売屋が消費者に対して背負う義務・「伝える」ということについて考えてみたい。

 

このブログを読まれて、メールを頂くのは、50代以下の若い方たちです。特に30~40代の方が多く、娘さんを持つお母さんからも沢山のお話を頂きます。品物のことはもとより、扱い方、直し方、コーディネートに関することなど、様々なことを「知りたい」と思われていることが、私にはよくわかります。

むしろ、これほど「知ろう」とする方が存在しているとは、思いませんでした。もしかしたら私は、若い消費者の方々を見くびってしまい、「伝える」ということを自分自身が諦めていたふしがあったのではないか、と反省する毎日です。

良質なものを未来に残すための第一歩は、若い方に理解を深めて頂く、ということに尽きるのではないでしょうか。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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