先日、このブログを読んでいる方から、直接電話を頂いた。お話は、直したいキモノや帯が沢山あるのだが、請け負ってくれないかとのこと。一枚直すのに、どのくらい代金がかかるかと聞かれたので、標準的な価格をお話したが、品物それぞれの状態で、手間の掛かり方が異なり、それにより価格も変わるので、一概には言えないとお答えした。
住所をお聞きしたら、東京だと言う。それならば、職人のところへ直接持っていく方が早いと思ったので、うちの職人さんで良ければご紹介する旨をお話すると、そんなことが出来るのかと驚かれた。
補正職人のぬりやさんも、洗張り・スジ消し職人の太田屋・加藤くんも、仕事を依頼されれば、断ることは無い。彼等にとって、直接消費者からであろうと、バイク呉服屋を通したものであろうと、仕事に変わりはない。おそらく代金はうちを通すより安く済むだろうし、品物の状態を直接職人に見せられる利点もある。
職人の所へ行く手間さえ惜しまなければ、これが一番良い方策かと思える。
そんな訳で、キモノが敬遠される大きな要因の一つに、手入れの煩雑さがある。特にフォーマルモノは、着る機会が限定されているため、一度仕舞い込んだら、なかなか箪笥を開くことがない。
カジュアルモノならば、袖を通すたびに、汚れを確認することもでき、着ることが風を通す、つまり虫干しの役割をも果たしている。キモノを着る機会が多い方ほど、しみやカビに対して敏感になれるが、一般には、フォーマルの時だけにキモノを使うという方のほうが多いと思われる。
最近では嫁入り道具として、キモノを持参する方は少なくなったが、たとえ用意された方でも、嫁ぎ先へ持っていかず、実家の箪笥の中に置いたままになっていることも多いようだ。結婚した後、キモノを使わなければならない時になると、その場で使う品物だけを実家から送ってもらう。そして、着用後は、そのまま実家へ品物を送り返し、手入れは親に任せてしまう。
自分で手入れをするのは面倒だし、そもそもどこへ持っていけばよいのかわからない。近くのクリーニング店では不安だし、かといって自分で呉服屋を探すこともままならない。だから、実家の親に任せておけば、何とかしてくれるだろうと考えるのだ。
今はネットを使えば、自分の信頼できるしみぬき屋等を探すことは十分可能だと思われるが、顔の見えない相手に高価な品を預けることに、一抹の不安があるように思う。衿汚れや汗洗いなどの簡単な手入れならば、どこに出しても、そうそう間違いは起こらないと思われるが、厄介な直しだと、出来るところと出来ないところが出てくる。また、帯に汚れがある時などは、普通のクリーニング店に出すことを躊躇してしまうのは、当然だろう。つまりは、「信頼の置ける腕の良い直しの職人」がどこに存在するのか、それを探すことが消費者には難しいのだ。
キモノを着るということには、手入れをするということが、どうしても付いて回る。長く美しく使い続けて頂くためには、扱った呉服屋が。保管や手入れの方法をお客様にお話しておかなければならない。これは品物を売った者の責務である。
私は、年間500枚ほどの手入れ仕事を請け負う。しみぬき、洗い張り、スジ消し、カビや変色直し、また各部分(袖、裄、丈)の寸法直しなどだ。今までにも、このブログの中で折に触れ、様々な直し仕事をご紹介してきた。かなり難しい汚れでも、多くの場合は、何とか使える状態に戻せるのだが、年に数件は手の施しようがない品物にぶつかる。以前、直せない変色があることをブログでご紹介した(2014.4.5 「補正が難しい汚れ」の稿)が、ここ数日の間に、たて続けて直すことが出来ない品物に遭遇した。
今日は、改めてどのような状態になったら、直せなくなるのか見て頂きたい。また、こんな厳しい状態の品物に向き合う職人さんの姿勢についても、お話したい。
後身頃全体に広がった変色。鶸色の杜若文様中振袖。
二週間ほど前、あるお客様から、自分の使った振袖を娘に使いたいので、状態を見て欲しいとの依頼を受けた。品物は、実家の箪笥に置いてあるというお話なので、早速お伺いする。
実家のお母様はすでに亡くなっていて、義姉さんに品を見つけてもらう。嫁ぎ先に持っていくことはなく、約30年もの間、実家の箪笥の中に眠り続けていた振袖である。話によれば、ほとんど風を入れることはなかったようだ。
箪笥の引き出しを開けたところ、カビの匂いがする。この時点で、かなり嫌な予感がする。何年も開いていない箪笥というのは、多かれ少なかれ独特なにおいがするものだが、今回は開いた瞬間に、充満していたものが一気に外に出たような、強烈なものであった。
恐る恐る品物を開いてみる。まず目に入ったのが、最初の画像にある後身頃全体に広がる大きな変色。汚れは、黄色というより褐色に近い。
上前おくみと身頃にも同様の変色。両袖にもある。各部分だけに孤立している汚れというより、全体に広がってしまい、どこから手を付けてよいのか困るような状態になっている。地色が薄い鶸色のために、変色汚れはかなり目立ってしまい、これを何とかしない限り使えそうもない。
地色そのものの変色。中揚げ部分を境に色が変わっていることがわかる。下の方が元の色で、上が変色した色。色ヤケしたようにくすんでしまった。所々に赤い染料が落ちたような箇所も見受けられる。
一見しただけで、かなり厳しい状態の品物だと判断できるが、とりあえずお預かりする。私は、どんな品物でも、その場で直しの成否を判断しない。自分では無理だろうと思っていたものでも、職人さんの手で再生が出来たことを、何度も経験しているからだ。
以前、ひどい黄変しみが発生した帯の再生についてお話した稿がある。(2013 10・8「カビ変色を再生する前に」) ここで取り上げた帯も、最初に自分が預かった時には、到底直らないと思った。けれども、色ハキや地直しなどの補正技術により、再生することが出来たのだ(ご参考までに、この稿を読んでいただければ有難い)。どんな厳しい状態の品物でも、職人による判断を待たなければ、直しの成否をお客様に伝えることは出来ない。
品物は、まず洗張り職人の太田屋・加藤くんのところに送られる。カビの発生を疑われるものは、洗張りをしなければカビ菌そのものが落ちない。変色部分が無いものなら、洗張りをすることで、解決出来る。しかし、黄変色やしみ、さらに地色がヤケを起こしたように変わってしまったものは、洗張りだけでは、ほとんど直らない。変色はそのまま残ってしまうのだ。
こうなると、洗張りをした後の補正(しみむき、色ハキ、地直し、柄足し)の仕事で、どれだけ直るかということで、仕事の成否が決まる。
洗張り職人と補正職人は、仕事の上で密接な関係になっている。洗張りをしただけでは落ちないしみというものがある。しみそのものも、依頼した側が気付かず、仕事を進める中で、職人自身が見つけることもある。そんな時には、洗張りを済ませた後、洗張り職人から、補正職人の方に品物が回される。
補正職人・ぬりやさんは、一週間に一度、決まった曜日に、必ず洗張り職人・加藤くんの仕事場を訪ねている。仕事の経験においては、ぬりやさんは加藤くんの師匠にあたる。どのような手段で直すことがよいのか、また直しそのものが出来る状態かどうかなど、一つの品物を巡って、二人の間で相談されることになる。
生地の地色変色や、ひどい黄変しみが直らなければ、洗張りをしても意味がない。品物として、再生できないからだ。だから、補正職人は、洗張りをする前に品物の状態を見て、変色やしみが直せるものかどうかを判断する。つまり、厳しい状態にある品物が直るかどうか、その成否を決めるのは補正職人ということになる。
さて、ぬりやのおやじさんは、この振袖にどんな判断を下したのか。その答えは、修復は難しいとのことである。
この変色は、溶剤を使ってもほとんど薄くならず、消すことは困難。さらに、キモノの地色そのものが変わり、それが一部ではなく、全体に広がっているから、部分的な修正という訳にもいかない。限られた範囲の汚れならば、柄を足したり、刺繍を入れたり、あるいは金砂子などを散りばめたりと、上手く汚れを隠すような方法も考えられるが、あまりにも汚れが広範囲に及ぶため、このような手段を取ることができない。
また、地色の色を替えたとしても、難しいとのこと。つまり、この薄い鶸色から、濃紺や黒などの濃い地色に染め替えたとしても、黄変色汚れはそのまま残るため、目立ってしまうのだ。
腕の良い職人というのは、自分が無理と判断したものに、手を付けない。手を付けるということは、直ると確信出来るものだけである。途中で思うように直らないからと言って、無責任に仕事を放り投げるようなことがあってはならないと、考えている。だから、自分の経験から、出来る仕事と出来ない仕事のすみ分けが厳格に出来ている。そこには、直らないものに工賃は頂けないという、職人のプライドがあるように思える。
ということで、この品物は手が付けられることなく、戻ってきた。私は、この残念な結果を、お客様に伝えなければならない。自分の振袖を娘さんに着てもらいたいというお母さんの気持ちを考えると、本当に心苦しい。しかし、中途半端に手を付け、思うような修復にならなければ、使っては頂けない。預かった私としても、直らない仕事の代金など、貰い受けることは出来ない。
直すということは、お客様が納得される状態に戻ってこそ、である。品物の状態と自分の技量を天秤にかけ、その成否が正しく判断できる職人こそ、信頼できる人ということが言えよう。また、そのような職人がいるからこそ、お客様から品物を預かることが出来るのである。
今まで、バイク呉服屋が預かった直し仕事は、どれくらいあるだろうか。おそらく1万枚は越えているだろう。到底、ぬりやのおやじさんのように、的確な直しの成否の判断は出来ないが、自分の経験からも、キモノ全体に及ぶ地色の変色はかなり難しいことがわかる。
部分的な汚れやしみならば、たとえ直らなくとも、仕立ての工夫などで使える場合がある。例えば、キモノの上前に取れないしみが付いていたとしても、下前がきれいならば、上前と下前を切り替えて仕立ることで解決出来る。衿も同様である。
直しの依頼というのは、品物を預かった時点で責任が生じる。直せるものにせよ、直せないものにせよ、誠意を持って品物と向き合うことが、預かる者にも、直す職人にも求められることは、言うまでもない。
毎日の仕事の中で、当たり前のように預かる直しの品物。お客様は預ける者に全幅の信頼を置いて、品物を渡します。我々は、その期待に答え、次に着る時に安心して手を通して頂けるようにしなければなりません。
一つ一つの品物はそれぞれ状態も違い、直し方もそれにより変わります。簡単なしみでも、難しい変色でも、仕事に丁寧に向き合う姿勢は同じです。
一つでも多くの品物を再生して、新たな場面で使えるようにすることは、我々呉服屋の使命とも言えましょう。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。なお、次回は少し早いですが、浴衣のコーディネートの稿を予定しています。