バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

旅の癒し風呂は、やばい風呂(前編)   斜里・越川温泉

2026.02 17

「やばい」という言葉を肯定的に使うようになったのは、いつからだろうか。以前は、危ないとか不都合とかの否定的な意味しか持たなかったはず。それが昨今では、物事に感動した時も、美味しいものを食べた時も、美しいモノを見た時も、嬉しいことがあった時も、「やばい」の一言で、全て間に合わせてしまっている。

初めてこの言葉が広辞苑に登場したのは、1976(昭和51)年のこと。すでに半世紀前のことだが、この時には危険なこと、不都合なことの隠語と記載されているので、当然ネガティブな意味を持つ言葉として認識されていた。けれども2000年頃になると、「やばい」は若者の間で、それまでと全く正反対の方向で使われるようになる。つまりその意味は、「最低」から「最高」に変わったのである。

だが「やばい」は、すべて肯定的な形容詞になった訳ではなく、従来通り否定的な意味として使うこともある。どちらの意味を持つかは、前後の文脈で判断することになる。両極端の意味を持つので、使い分けはそれほど難しくはないが、外国人にしてみれば、とても厄介な言葉で、簡単には理解されそうもない。

 

さて今日は、旅のお話をさせて頂こうと思う。キモノの稿を待っておられるいつもの和装ファンの方々には、大変申し訳ないと思うが、このブログの読者には、バイク呉服屋の「やばい旅話」を望む「やばい旅マニア」の方々が、一定数おられる。そのため私は、年に数回そんな方を意識して、知られざる場所を彷徨い歩いた記録を書いている。

これまでの旅の稿を読まれた方は判ると思うが、私の旅先は一般の方からすれば、大変やばい場所=相当危険な場所と認識され、誰も真似して出かけてみようとは思わない。だが一部の変態的な旅人には、本当にやばい場所=簡単には行けない魅力的な場所と評価され、中にはヒグマの恐怖も省みずに、同じところを歩こうとする命知らずもいる。つまりこの旅ブログの稿は、完全に否定される方と高く評価される方、真っ二つに分かれる訳で、どちらにせよ「やばいこと」には変わりはない。

楽な手段で観光地を巡り、美味しいモノを沢山食べ、きれいなホテルや旅館に泊まり、沢山のもてなしを受ける。これが最高の旅だと考える方には、まるっきりつまらない内容になるので、これ以上のお付き合いは無用だ。そして、インスタ映えの写真を撮ることを旅の主目的にされている方にも、ご退場頂こう。それでは今回も、マニア専用のヤバい旅の話を始めよう。

 

越川温泉 北海道斜里郡斜里町富士 含石膏食塩芒硝泉 1976年掘削開湯

私の北海道旅はいつも、ほとんど歩き旅になる。とりあえず車で入れるところまで行き、そこから目的地までひたすら歩く。細い林道の脇道や海岸べりの道なき道、そして時には背丈を越えるほどの藪道に入ることも珍しくない。簡単に辿り着けない場所だからこそ、手つかずで残される風景がある。こうして苦労して目の当たりにした景色に、心震わせたことは一度や二度ではない。

けれども、そんな人知れぬ場所へ出かけることには、当然リスクがある。私はその日に歩く距離の上限を、だいたい25~30Kと決めている。時速5Kと考えれば、約6時間ほど。行くところは、この時間内に往復できるところに限定される。行動する時間は、朝9時~夕16時辺りまでになるが、これは少しでもヒグマと遭遇するリスクを減らすためだ。クマは朝夕の薄暗い時間に行動する習性があるので、どうしても明るいうちに目的地から帰って来なければならない。

とはいうものの、歩いている時には常に極度の緊張状態に置かれる。このカーブを曲った先で、いきなりクマが仁王立ちしてるかもしれない。いつも、そう思う。不意の遭遇が最も危険で、その時クマは人の存在に驚くと同時に襲ってくる。クマ鈴や爆竹を鳴らしても、ホイッスルを吹いても、避けられないことがあるだろう。それでなくとも最近は、「以前より、クマが人を避ける習性が薄らいでいる」と言われているのだから。

 

そんな訳で私の北海道旅は、四六時中クマの恐怖に曝されている訳で、大変疲れる。そして行く場所の多くは、携帯の電波がつながらないところ。何かあっても、誰も助けてはくれない。とにかく事故が無いようにと、自分を律しながら、一歩一歩歩く。毎日体力を削られるだけではなく、心理的な負担もかなりのものがある。

そんな時、重荷を解放してくれるのが、温泉である。歩き旅の合間に入る、素朴で簡素な湯。人知れぬ場所にコンコンと湧き出す湯に浸かると、身も心も解放される。そこで今回は、そんな癒しの風呂を二つ、前後編に分けてご紹介することにしよう。もちろんそれは、私にとって最高に「ヤバい湯」である。

 

越川温泉の入り口は、何の案内標識も無く、左右にドラム缶が突っ立っているだけ。

一軒目の越川温泉は、知床半島の付け根・斜里町の越川地区の外れにある。ここは、越川地区の住民が共同で管理運営している、まさに地元民による地元民のための温泉。普段温泉には誰もおらず、入湯希望者は管理組合が温泉を運営するための「協力金200円」を貯金箱に入れて、勝手に入る。それではまず、この温泉のある場所・越川とはどんな場所なのか、そこから話を始めよう。

 

JR釧網本線・知床斜里駅は、駅名の通り知床半島への入り口に当たる駅で、町の外れからは、半島の西海岸沿いに進む国道・334号が通っている。この道を約1時間走ると、私が若い時に働いていた宇登呂地区へ着く。そして斜里の町内を基点とした国道はもう一本あり、それが上の地図にも見える244号。この道は、知床半島の付け根を東西に縦断し、根室標津を経て、別海町まで繋がっている。海岸の道・334号の通称は知床国道、244号は斜里国道と呼ばれている。

越川地区は、斜里から国道244号を8Kほど走った先。車だと15分ほどで、歩いても1時間半くらい。最寄り駅から歩くとすれば、斜里よりもむしろ、一つ先の中斜里駅の方が近い。この駅を通る道道827号をまっすぐ東に歩けば、1時間ほどで越川地区の中心に辿り着くはず。

1968(昭和43)年10月の時刻表に掲載されている、北海道路線図。

今から半世紀以上前、越川地区には鉄道が通っていた。それが、根北(こんぽく)線である。地図にも、斜里から越川までわずか3駅の路線図がはっきりと示されている。この線は、根室と北見を繋げる鉄道として根北線と名前が付けられ、釧網本線・斜里と標津線・根室標津を結ぶ予定で、1937(昭和12年)に建設着工。一端、戦争による資材不足で工事が中断され、戦後の1952(昭和27)年になって再開される。

1957(昭和32)年には、工事が終わった斜里ー越川間を先行開業させたものの、沿線住民の数は限られており、毎年の営業収支は大幅な赤字で、国鉄総路線の中で、最も収支係数の低い路線の一つだった。そして開業からわずか13年、1970(昭和45)年12月に廃線となる。北海道の行き止まりローカル線には、根北線同様、工事途中で無理やり開業したものの、赤字続きで廃止される線区があちこちに見られる。美幸線(美深ー北見枝幸)しかり、興浜南・北線(興部ー雄武ー北見枝幸ー浜頓別)しかり、白糠線(白糠ー北進)またしかりである。

廃線2年前の根北線時刻表。一日わずか三往復。この当時の利用者は、一日160人ほどで、収支係数(100円稼ぐのにかかる金額)は、1300を超えていた。なお時刻表に記載は無いが、以久科と下越川の他に三つの簡易乗降場が存在し、僅かな通勤通学客の便宜を図っていた。

越川集落の中心・旧下越川駅近くには、越川小学校の校舎が残っている。開校は1915(大正4)年、閉校は2003(平成15)年。越川の開拓は、1906(明治39)年に薩摩・島津藩の末裔がこの地に農場を開いたことに始まる。その後大正期になって、栃木県から団体入植があり、一挙に住民が増えた。斜里町史によれば、越川と言う地名は、この集落に入るには以久科川と言う川を越えなければならないことから、その名前が付いたと記されている。

生産される作物はジャガイモとビートが圧倒的に多く、昭和40年代には、この二つの作付面積だけで一戸あたり12haにも及んだ。戦後70戸近くあった居住者も漸次減少して、現在の戸数は21、住民数は69人になっている。この越川地区の住民の手で運営されているのが、越川温泉なのである。

国道244号から見える旧根北線跡は農地に呑み込まれて、線路跡も駅跡も、全く判らない。廃線後半世紀以上が経過しているのだから、無理も無い。しかし、ここに鉄道を敷く意思があったことを証明する遺物が、終着駅だった越川駅の先に残されている。

越川の中心集落から、旧越川駅跡を過ぎて少し国道を進むと、道路の上にコンクリート作りの巨大な橋が現れる。この橋が、旧根北線の第一以久科川橋梁(通称越川橋梁)である。1940(昭和15)年に完成したこの橋だが、列車は一度も通ることなく放置された。構造は10連のアーチ橋になっており、その威容が美しい姿で残っている。国はこれを歴史的な構造物と認め、1998(平成10)年には、国の登録有形文化財に指定されている。

上の地図で判るように、根北線が廃線となった後、斜里と根室標津の間にバス路線が設置された。その路線の中で「平田宅」の記載があるが、当時ここが越川温泉に最も近い停留所であった。なお、このバス路線はすでに廃止され、今この温泉に行く公共交通は何もない。

1981(昭和56)年のバス時刻表。この頃同じ斜里町内で働いていた私は、この前年にこのバスに乗って、越川温泉に浸かっている。もう45年も前のことだが、温泉の佇まいは、この時からほとんど変わっていない。バスを降りた平田宅停留所は、旧越川駅と先に紹介した越川橋梁との間にあり、そこから温泉まで10分ほどの距離だった。

北海道のバスに乗ると、○○宅という家の名前をそのまま使った停留所を見かけるが、これはその場所に目ぼしい地名や構造物が他に無いため。ただ、この平田宅には歴史的な意味がある。それは、この地に「駅逓(えきてい)」が設置されていたからである。駅逓とは、僻遠な地に置かれていた、宿屋と運送屋と郵便中継所を兼ねた施設で、北海道の開拓時代を象徴する交通機関。越川駅逓所は、1894(明治27)年に斜里山道の開削に伴って設置されたが、1912(明治45)年に着任した平田久治は、四代目の駅逓取扱人として、駅逓が廃止される1941(昭和16)年まで31年の長きにわたってその任に当たった。久治は、廃止後もこの地に止まって牧畜業を営んでおり、平田宅という停留所名はその名残であった。45年前にここでバスを降りた時には、傍らには古い廃屋が残っていた記憶があるが、これが駅逓の跡であったのだろう。

 

なお余談にはなるが、このバス路線を運行していた斜里バスには、当時様々な噂があって、特に旅人の間では面白おかしく語られていた。曰く、路線バスの運転手が運行中にスピード違反で捕まったとか、観光客が慣れぬ運転でノロノロ走っていると後ろから煽るとか、途中でガス欠になりそうだったので、乗客を乗せたままスタンドに入って給油したとか。このバス会社は、現在も運行を続けているので、これは真偽のほどが定かでは無い伝説としておこう。

さて、またまた本題の風呂に入るまでの話が長くなってしまったが、私の癒し風呂・越川温泉がどんなヤバい風呂なのか、これから温泉の中へとご案内することにしよう。

 

最初のドラム缶ゲートを通り過ぎて、30mほど進むと、広い敷地の中にポツンと小さな小屋が建っている。国道からは全く見えないので、湯の存在を知らない人は、通り過ぎてしまうだろう。今はネットに情報が上がっているので、温泉好きな道外客の姿もちらほら見えるが、それでも認知度は低い。浸かりに来た日は、秋も深まった10月の下旬。雨降りの午後の湯には、地元の先客が一人。

東側のサッシの扉を開けると、いきなり飛び込んでくるのが、この応接間のような休憩室。不揃いのソファと椅子が並んでいるが、きちんと整理されていて、管理者が古い建物を大切に使おうとする姿勢が見える。おそらくここに置いてある備品は、温泉組合の組合員が各自持ち寄ったモノであろう。記憶は定かでは無いが、私がこの湯に最初に来た昭和の頃も、こんな感じの休憩室だった気がする。

天井を見ればわかると思うが、ここには電気の設備が無い。壁にも組合長の名前で、「管理が出来なくなったので、灯りを用意してお入り下さい」とある。勝手知ったる地元組合員なら、懐中電灯を持って利用できるだろうが、一見の浴客では難しいだろう。

協力金と言う名の入湯料金は、格安の200円。温泉維持の名目で設定されている料金だが、このご時世に何とも良心的な値段。しかも誰もいないので、支払いは利用者の良心に任されている。そしてお金を入れるところが、また凄い。ご覧の赤いドラム缶に、貯金箱・200円と書いてある。しかも缶の上をコンクリで固め、硬貨を入れる小さな穴がポツンと開いている。壁にもピタリとくっついているこの貯金箱、一体どうやって開けるのだろう。一度組合員の方に、お聞きしたいものだ。

壁には、北海道衛生部による温泉の成分表が掲げてある。自噴は、1976(昭和51)年の12月20日。今から丁度半世紀前のことだが、これだけ長い間地元の人だけで管理している温泉というのも、珍しい。おそらく越川地区の組合員たちも、ほとんどが代替わりしているはず。集落からは少し遠い場所にある湯だが、今もしっかり地域に根付いている。当然部外者の我々は、そのご厚意に感謝しつつ利用しなければならないが、どうやら温泉の中に犬や猫を入れるとんでもない輩がいるらしい。私が定宿にしている幌加温泉の若い管理人も、SNSやユーチューブなどで簡単に情報発信される時代になって、知らないうちにマナーを守らない客が増え、これまで守られてきた宿のルールが蔑ろになっていると話す。

「身を清め、心を洗って帰るなら、又のお越しをお待ちしてます」と書いてある。組合役員の名前の横には神棚を設え、斜里神社のお札が置いてある。そして壁の至る所に、交通ルールに関わるポスターが貼られている。この湯を利用することが多い、北海道を旅するバイカーに向けてのことか。では、風呂に入ってみよう。

休憩室のカーテンの先は、男女別に分かれた脱衣場が設えてある。もちろん、鍵を付けたロッカーなんぞあるはずもなく、三段の棚と昔ながらの籠が置いてあるだけ。セキュリティも何もないので、貴重品は自己管理するしかない。地元の人を対象にしている湯なので、そもそも人のモノを盗むような人はいないと言う前提に立っている。

浴槽はご覧の通りの、年季の入ったコンクリート製で、淵が赤茶色に変色している。浴室は六畳ほどで、ベニヤ板で仕切られている隣が女子風呂。昔入った時には、同じような浴槽が三つあって仕切りも無く、浴室の天井は塩化ビニールの板が張ってあった記憶がある。おそらくこの木造浴室は、後で建て直したものだろう。

湯の色は僅かに濁りのある薄緑色で、少し熱い。肌感覚では、43℃くらいだろうか。画像に見える茶色のホースから源泉が浴槽に入り、それを蛇口に引いた沢の水で調節している。源泉は流れっぱなしで、洗い場は常に湯浸しの状態。水道は無く、体を洗うのは浴槽の湯を使うしかない。もちろん、石鹸やシャンプー・リンスなどアメニティ用品などあるはずもない。

パイプから溢れる湯と沢の水。ただそれがあるだけの、極めて原始的な温泉。掛かっているタオルは、地元の人たちが入浴用に置いていったものか。飾り気も無く、何のてらいも無い。観光向けの温泉施設には絶対に見られない、この風情。入って下さいと、媚びを売るのではなく、これで良ければお入りください、嫌ならやめてねと言っているかのよう。

こんな素朴な風呂にゆったりと浸かれば、体の節々まで温もりに包まれ、連日続く緊張から解放される。クマの恐怖と一人歩きの不安は、こんな湯でなければ解消されない。まさに私にとってヤバい風呂・最高の癒し湯である。そしておそらく、清潔できれいなことが当たり前と思う方々には、絶対受け入れられず、最低なヤバい風呂と認識されるはず。結局、どちらにしても越川温泉はやばい湯になるのだ。

 

沢山の人を呼び込んで、沢山お金を落としてもらおう。これが、観光で飯を喰う者誰もが考えること。いかに観光客を呼び込むか。そのためには道を整備し、宿泊施設も作り、観光の目玉となるような設備を作る。その中で温泉は、客を呼び込む最高の道具になるはず。そしてSNSに「映える写真」がアップされると、それを見た者が客としてその地を訪れ、次々に増幅される。今のところ、情報発信をするインフルエンサーに「推してもらう」ことが、手っ取り早く、そして確実に旅行者を増やす有効な方法にもなっているようだ。

今の時代は、設備も整わず、清潔さも感じられない場所は、やはり敬遠される。そして、生活感が丸出しの場所は、作られた非日常を感じたがる旅行者にとって、魅力ある場所にはならない。世の中には観光業で成功している人物が何人もいるが、その方々は旅の本質が判っていないからこそ、成功したのではないだろうか。何も無い、何も加えない、何も作らない場所こそが、最も魅力的なことを。それに気づかないからこそ、事業に邁進することが出来たのである。

 

その場凌ぎの手を掛けない装いが主流になり、本来の儀礼の姿や品物の本質が忘れ去られた呉服の現状と、今の旅の形はどこか似ていますね。上っ面だけを見て、中身をきちんと見ない。残念ながら、それが現代の日本人の本質なのかも知れません。最後は批判めいたつまらない話になってしまい、申し訳ありません。次回の後編では、越川温泉にも勝る「ヤバい温泉宿」をご紹介する予定です。

今回も最後まで、長い旅の話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

(斜里・越川温泉の行き方)

釧網本線・中斜里駅下車。道道827号(越川ー中斜里停車場線)を真っ直ぐ東へ歩く。約7.5Kで越川市街。さらに国道244号を根北峠方面に4.7K。旧根北線の越川橋梁を通り過ぎると、まもなく左側に入る道がある。ドラム缶が目印。中斜里から約12K・徒歩2時間。

車ならば、知床斜里駅から国道244号を根室標津方面に向かって走り、約25分。

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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