先日、七五三詣りの撮影を禁ずる神社が増えているとの情報を耳にした。本当なのかと驚いたが、これは家族が撮るスナップ写真ではなく、プロカメラマンによる出張撮影を制限したものだった。神前結婚式を挙げる際には、撮影を依頼する話はよく聞くが、子どもの七五三にまでとは思わなかった。世の中には、節目の姿を出来る限り良い写真で残したい、とこだわる家族が結構いるらしい。
江戸時代まで子どもは、「七つ前は神のうち」と認識されていたように、七歳まではいつ神に召されるか判らない、脆い存在であった。だから七五三の通過儀礼は、各々の年齢まで無事に育ったことを、神に感謝する重要な行事と位置付けられていた。もちろん、家族皆で喜ぶべきお祝い事には違いないが、あくまでも宗教施設内での儀式である。一歩でも神の領域に入れば、節度が求められるのは当然のことだろう。
撮影を演出する道具として、シャボン玉を吹いたり、枯葉を散らしたりするほか、写り込んでくる通りすがりの人をも移動させようとする。こうした過度の「記念撮影」が、参拝者との間でトラブルになり、お詣りを受け入れる神社側も対応に苦慮する。無論、祈願の場所として選んでもらうことは有難いが、あくまで儀礼であり、その家族だけが満足出来るイベントではない。きちんと場所を弁えて、事に当たって欲しいのだ。
昨今では七五三と成人式が、唯一多くの人がキモノに手を通す場となっているが、どちらも儀礼であることは横に置かれて、単なるイベントに成り下がっている。神社での勝手なふるまいもしかり、意味もなく続けられている自治体主催の式典もしかり。そして本質を疎かにした通過儀礼の装いは、残念ながら、すでに形だけのものになっている。
七五三の衣装や振袖は、「その日限りの装い」として、今やレンタルが主流。しかし昭和の頃には、子供が生まれると判れば産着を用意し、七五三が近づけば祝着を誂え、振袖はフォーマルの装いとして欠かせない品物と認識していた。そしてこうした儀礼用のキモノや帯は、一代で終らず、世代を越えて使うものと考えられていた。だからどの家でも、儀式が終わるときちんと手入れをし、長い時間仕舞うことに備えたのである。
うちの店にも毎年、夏が終わるころになると、子や孫が七五三詣りで装うために、家に保管されていた祝着一式が持ち込まれてくる。ほとんどの場合、寸法を直すなど少し手を入れただけで、十分に使えるようになる。多くが30年以上経過している品物だが、そこには家の歴史そのものが根付いており、重みのようなものを感じさせてくれる。これこそが、本来の通過儀礼の装いかと思う。
さて我が家にも、使われることなく眠り続けている「儀礼の衣装」がある。それが、私が五歳の祝いで着用したキモノと羽織、袴一式。私には娘しかいなかったので、装う機会はなく、すでに60年が経過してしまった。しかしながら先日、ある理由から箪笥から出して状態を確認することになった。そこで今日は、今月が七五三の祝い月でもあるので、久しぶりに陽の目を見たこの衣装を、皆様にも見て頂くことにしよう。
藍色地 格子模様五歳長着・羽織 茶鼠五歳絹縞袴・博多献上帯(1964年)
私が五歳の祝いをしたのは、1964(昭和39)年のこと。この年は、東京オリンピックが開催された年。もはや戦後ではないと言われた昭和30年代初頭から、オイルショックが起こった昭和47年頃までは、年に10%も経済規模が拡大する高度経済成長期。この間に開催された東京オリンピックと1970(昭和45)年に開かれた大阪万国博覧会は、それを象徴する一大イベントであった。
この頃の呉服屋商いは上り坂で、直後の昭和40年代にピークを迎えることになる。おそらく両親も祖父母も、仕事に追われる毎日だったであろう。私は、そんな中で生まれ育った。そして誕生した時には、だれもが「呉服屋の跡継ぎ」が出来たと喜んだのではないかと、想像に難くない。そんな子の五歳の祝いであり、ましてや呉服屋の倅である。当然その装いは、こだわり抜いて誂えた品物であることは間違いない。
この一式を選んだのは、父か祖父のどちらかのはず。柔らかい藍色の地に、茶とグレーを組み合わせた格子縞という、極めてシンプルな図案。そして袴も同じ茶とグレー二色の縞袴を合わせ、帯も茶の博多献上縞を使っている。上の画像を見ても、色合いも模様もピタリとコーディネートされており、やはり「プロが選んだ装い」であることを強く感じる。もちろん色柄だけでなく、素材もしっかりしている。こうして今見ても、シンプルな中にあっても、その個性が前に出ている。
それでは、各々がどのような品物なのか、一点ずつ具体的に見ていくことにしよう。
長着(キモノ)を後ろから写したところ。前身頃と同様、背から両袖まで格子模様が繋がっている。地色は、紺より少しだけ柔らかみのある藍色。男児の祝着では、黒や濃紺、あるいは濃茶など深い色が主流だが、薄くなると表情が優しくなる。
模様の格子縞を拡大してみた。よく見ると格子は、薄茶色の太縞を交差させた中に、鼠色の細縞交差と緑色の極細縞交差を入れている。つまりこれは、太さと色の異なる三種類の格子を複合させた幾何学文になる。直線で構成される格子は、単純だが、組み合わせ方によって多種多彩な図案が形作れる。この格子にも、優れたデザイン性を感じる。
男の子の祝着と言えば、兜や鷹など、戦国武将になぞらえて、強さや逞しさ、あるいは格好の良さが前に出る模様が一般的で、このようなデザイン的な幾何学文様だけをあしらった品物は、最近ほとんど見かけたことがない。だからこそとても斬新で、すっきりとした姿にみえる。今から60年前は需要も旺盛な時代で、「レンタルで済ませる家」は少なかったはず。だからその分、様々な意匠を考えて、品物が作られていた。おそらくこの時代は今のように、「男の子の図案はコレ」とは決まっていなかったはずだ。
羽織の格子模様も、キモノと全く同じ位置に同じようにあしらわれている。肩揚げで隠れているが、胸にも紋が入っている。羽織・キモノ共に五つ紋付で、子ども衣装であっても「第一礼装」の装いであることが、きちんと意識されている。
男児の祝着は、色と図案を揃えたキモノと羽織をセットにして売られているが、それは昭和の時代も同じであった。羽織紐は、白と紺の二色組で地色とリンクしており、しっかりと前姿のポイントになっている。羽裏も、礼装を弁えた白地の綸子。
キモノと羽織の後姿を並べてみた。藍の地色と格子を構成する色とのバランスが良く、着姿全体に規則性が生まれている。男の子らしさを優先する模様ではなくとも、祝着として引き締まった姿が演出出来る意匠。格子というさりげない図案でありながらも、その着姿はとても個性的。いかにも、品物に精通した呉服屋が選んだ一式と言えよう。
袴は正絹で、グレーの地に茶と鼠色の縞を交互に付けた米沢平。子ども袴と言えども、しっかりと織り込まれていて、地厚。最近の縞袴の色は、黒とグレーの組み合わせがほとんどなので、こうした茶色縞は見かけない。帯も博多の献上縞で本格的。色を袴の茶に合わせているので、ピタリと着姿が決まる。
袴の縞を拡大すると、鼠縞はほんの少し緑を含む薄い鶯色のように見える。キモノと羽織にあしらわれている格子の茶色と、袴縞の茶色、さらに帯の茶色がリンクしている。ポイントになる色を茶色と定めて、この一式をコーディネートしていることが見て取れる。何を基準に考えれば、着姿が決まるかということを、よく理解している人が選んだ品物。この辺りに、呉服屋の息子(孫)に相応しい祝着を用意しようとした、父や祖父のこだわりが見える。
60年ぶりに箪笥の中から引き出された、五歳の祝着。改めてその品物を見ると、その当時父や祖父が抱いた「私への思い」が判る気がする。通過儀礼で使われる装いには、子どもの成長に対する家族の喜びが込められている。そして時代を経て、改めてその品物に出会った時、それがとても大切なモノだったことを再認識する。世代を超えて、再び着用しようとする理由は、そんな思いが背景にあるからなのだろう。
(墨暈し地 市松宝尽くしに松模様 型友禅男児産着・千切屋)
今回、私の祝着が陽の目を見たのは、この初宮詣りの産着に理由がある。それは、私の長女に男の子が生まれたから。箪笥の中からは、私が使ったと思しき掛けキモノ(産着)は見つからず、結局この新しい品物を誂えることになった。ただその時に目に触れたのが、ご紹介した五歳の祝着だったので、ついでに状態を確認したという訳である。
品物には目立った汚れもなく、良い状態で保管されていたので、五年後には安心して使えることになる。初孫が誕生し、バイク呉服屋もとうとう本当の爺になってしまった。嬉しいような、残念なような、少し複雑な気持ちがしている。
恥ずかしながら、バイク呉服屋・五歳の祝着姿をお目にかけましょう。60年前にはまだ、カラーフィルムがあまり普及していませんでしたが、ご覧の通り「総天然色」の画像が残っています。これを見ると、今日ご紹介したキモノと羽織袴の地色や模様が、どのように映るのかが判ります。わざわざカラー写真で着姿を写しているくらいですので、家族はよほど私の成長が嬉しかったのでしょう。
家内は何度も、私の母から、「あの子(私のこと)の小さい頃は、本当に可愛い子どもだったのよ」と聞いていたそうです。実際に私が高校生の頃、よく「昔は可愛かったのにねぇ」と残念そうに呟いていました。顔も性格も、これほど可愛げが無くなるとは「想定外」だったに違いありません。今思えば、大変申し訳ないことをしたような気がします。果たして私の孫は、どんな子に育つのでしょうか。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。