ブログを始めた頃は、よく業界の内側の話をした。だから、この手の内容を分類するために、「現代呉服屋事情」というカテゴリーも設けてあるのだが、最近ほとんどご無沙汰だ。昨年は、現代離れしたバイク呉服屋のアナログ的商いについて、一昨年は、価格設定に関わる話を二回に分けて書いただけである。けれどもこのカテゴリーは、普段消費者からは判り難く、しかも呉服商いの本質に関わることでもあるので、興味を持って読んで頂ける内容かとも思う。
これまでの稿の中では、流通の問題点を探ったり、振袖商法のからくりを暴いたり、職人の後継者不足を嘆いたりしているが、何れも、業界の現状に対する怒りや不満、そして行き場のないやるせなさを心の中に含みながら、筆を進めてきた。文章の中では極力感情を抑えているものの、特にふざけた輩の詐欺まがいな商い、あるいは犯罪的な押し付け商いなどを見聞きする度に、怒りが沸々と沸き立ち、クマ撃退スプレーを所構わず噴射したくなったのは、一度や二度ではない。
しかしである。もう最近は、そうしたことにほとんど腹を立てることもなくなってしまった。一向に変わらない呉服業界の商いの姿に辟易したこともあるが、所詮これは、自分の仕事とはほとんど関係のない他人事である。ブログで伝えたいことは、そんなつまらぬことでは無い。それよりも品物の情報や様々な手直しの実例、さらにコーディネートの実際など話す方が、読まれる方にとって有意であり、これを知って頂くことこそ、私の本意でもある。そして書いていても、その方がよほど楽しい。
また業界の問題点について、関心が薄れてきたのは、私の年齢が進んだことも関りが大きい。しかも後継者がいないものだから、業界の将来についてどんどん興味が薄れる。私が店をたたんでも、キモノの愛好家が消えることはなく、和の装いを必要とする儀礼は続くのだから、業界は健全化しなければならず、また消費者が行き場を失うような事態は、あってはならないと思う。けれども、これもまた商いの残り時間が少ない私にとっては、どうにもならないこと。完全に諦めの境地に達している。
現状では、二極化した消費者の動向と、それに伴う小売現場の質の低下が背景となり、そこに職人の枯渇や産地の疲弊、さらには品物の劣化など様々な要因が重なって、すでに業界全体が取り返しのつかないところに追い込まれている感が強い。その病状はまさに「多臓器不全」であり、相撲用語で言うところの「死に体(自力で回復できる状態にない体勢=つまり負けている)」に陥っていると思われる。
それでは、何が原因でここまで追い込まれてしまったのか。業界全体を俯瞰して理由を挙げ出したらキリは無いが、私は小売屋なので、小売りの立場から考えてみると、行き当たるのは「展示会」という特徴的な商法である。今もほとんどの呉服屋が、展示会と言う名の催事を展開しており、ここが商いの中心として儲けを得る役割を担っている。
しかし、現在の展示会商法は呉服屋の質を変貌させた元凶であり、消費者の目を呉服の本質から背けさせる大きな原因になっていると私は思う。だが、展示会の歴史を振り返ってみると、最初は至極真っ当で健全な商い手法であり、消費者にとってもメリットのある購買機会となっていた。ではそれが、なぜ変質していったのか。そこには、需要の減退に伴う小売屋の変質が伴っている。ここを探っていけば、「死に体」となった原因に辿り着くはずである。
怒ることを忘れたバイク呉服屋だが、ことここに至っては、冷静に事態を検証する必要があるような気がする。そして今書いておかないと、この先その機会を逸するような気がするのだ。ということで、久しぶりに書く現代呉服屋事情の稿として、何回かに分けて「展示会」の話をする。展示会の変容が業界の衰退とどのように関わってきたのか、とくと考えてみたい。まず今日は、有用な商いの場としてに機能していた、展示会草創期の頃を振り返ってみよう。
昭和30年代後半の展示会風景。キモノ姿で一番前に座っているのが、私の祖父。
うちの店で会場を借りて催事・展示会を行うようになったのは、昭和30年代後半あたりからである。上の画像は、その草創期のもの。会場は、当時の店から近かった県の施設(確か県民会館と名前が付いていた)。「秋きもの創作逸品発表会」と会場正面には看板が掲げられ、会場一面に敷き詰められた簡易畳の上には、所狭しと品物が並んでいる。紐を張って、商品が置いてある場所を書き記す。白地浴衣800円、紺地浴衣1000円と表示されている価格に、時代が表れている。
展示会を開催する以前、そもそも呉服屋商いの中心は店頭であり、さらに「屋敷売り」と言って、顧客の家に品物を持ち込んで商いをすることも度々あった。屋敷売りは、店の顧客の中でも上得意客から依頼されることが多く、中には毎年ある時期になると、必ず訪問して商売をさせてもらう家もあった。うちの場合、祖父の代から旧家や商家の得意先が多く、商いの中で屋敷売りが占める割合は特に多かったように思う。そういえばよく祖父が、「呉服屋が通される部屋は、その家で一番立派な部屋だよ」と言っていたのを思い出す。
その頃、店売りと屋敷売りの二本立てで、十分に商いにはなっていたのだが、私が生まれた昭和30年代中ごろから高度経済成長が始まり、庶民の懐が豊かになり始めると、呉服の需要も飛躍的に高くなる。もちろん、来店客の数も販売する品物の数も増えるばかり。そこで考え出されたのが、「展示会」という商いの場を設けることだった。
展示会は、多くの人に馴染みのある公の施設や、ホテルのワンフロアを借りきって行われたが、そこに展示されたのは、店に置いてある手持ちの品物だけでなく、取引先のメーカーや問屋が出品した数多くの品物。期間が限定された催事の間だけ品物を貸したのだが、これが今に残る商いの慣習・「委託商い・浮き貸し」の始まりである。
需要が高まっていたこの当時は、まさに「作れば売れる時代」であり、問屋はかなりの在庫を持っていた。もちろん店は普段から仕入れをしていたが、取引先は展示会に品物を出すことで、「売れる機会」を増やそうとしたのである。ここで売れれば、通常仕入れに上乗せすることが出来る。会社に品物を置いておくより、展示会に出したほうが商いには有効と考えるのは当然だった。
呉服屋にとっても、店に置いてある品物だけでは、広い会場のスペースを埋めることは出来ず、商品を応援してもらえるのは有難いこと。出品される品物には、普段では仕入れないような高額品や希少品もあり、それは消費者の購買意欲を駆り立てることにも繋がる。展示会の期間は通常3~4日で、週末に開催されることがほとんどだったが、小売屋としては、短期間にまとめて商売を成立させる絶好のチャンスとなった。事実こうした展示会を実施することで、以後売り上げは大きく伸びていくことになる。
そして、和装に関心が高かった当時の消費者にとっても、広い場所で沢山の品物の中から、気に入ったものを自由に選ぶことが出来る展示会は、またとない買い物の機会となる。その頃はフォーマルはもちろん、カジュアルモノの需要も高かった。家着の代表だったウールなど、どれくらい売れたのかもわからず、浴衣の需要は春先からあった。
かように草創期の展示会というものは、小売店、取引先、消費者の三方が皆有用であり、開催する価値のある新しい商いの場になっていった。しかしこの時代の展示会は、あくまで店頭商いの延長線上にあるもので、特別な仕掛けなど何もなく、もちろん問屋から「売り子」が派遣されてくるようなことは無かった。店の者が自分で品物を説明し、自分で売る。至極真っ当な商いが展開されていたのである。そして並行して、店売りも屋敷売りも、以前と同じように活発に行われていた。
昨年の呉服市場規模は2240億円余りだったが、これは、ピークだった1981(昭和56)年の1兆8000億と比較すると、僅か12%ほど。需要はこの40年で、八分の一にまで落ち込んだことになる。けれども、呉服屋の子どもとして店の様子を見てきた私の肌感覚では、呉服屋に一番活気があったのは、昭和40年代だったと思う。
私は小学生の時、展示会前日の会場設営と最終日の撤収作業をよく手伝っていたが、その頃の会場は、地方新聞社のビルの地下にある大規模な展示スペースだった。そこに敷き詰める畳の数だけでも100枚近くは必要で、品物を飾る衣桁や撞木も大量に準備しなければならない。もちろん店に手持ちは無く、そのときだけ借りることになる。展示会全盛のこの時代、そうした備品をその時だけ貸し出す会社・貸物社があった。
そして取引先のメーカーや問屋では、前日までに会場へ大量の品物を運び込んだ。当時は今ほど交通事情がよくなく、宅急便や佐川急便のように確実に荷物を運ぶ業者も無かったので、取引先の社員が自社の車に品物を満載し、直接運んできた。そしてそのまま展示会の開催中、会場に張り付いて手伝いをした。そして夜になると、そのまま会場に泊まり込み、品物の番をしたのである。
こうして始まった展示会。その初日の朝・開店する9時前には、会場の前にはかなりの数の人が並んで、開くのを待っていた。当時うちの店では、男性3人と事務員の女性3人の従業員がいたが、祖父や父はもちろん、皆が総出でひっきりなしにやってくるお客さんの相手をしていた。手伝いにきた問屋の社員は、引っ張り出される品物の片付けに追われていたが、きちんと並べてもすぐに客に崩されるので、全くキリが無かった。それは、それだけ大勢の人が展示会にやってきた証左でもある。
そして売れた品物は、呉服札に購入者の名前を書いて、次々に40kg用の茶箱へと入れられた。ほとんどの品物は誂えが必要だったので、一旦保管して店に持ち帰らなければならない。茶箱は、縦65cm×横45cm×深さ45cmと相当な大きさ。けれども展示会が終わるころには、品物を満載した茶箱が5、6箱積みあがるのが常だった。この頃、一度の展示会にどれほど品物が売れたのか定かではない。けれども期間中の来客数は、150人あるいは200人は優に超えていたことを考えれば、その人数分以上の品物が捌けていたと想像できる。
この頃、店の外で開催する展示会は年に3回ほどだったが、入学卒業の装いを準備する2月と新年の装いを考える10月の催事は特に忙しかった。当時母親は、色紋付に黒羽織を身に付けて入学式に列席したが、これはその時代に「PTAルック」と呼ばれた定番の装いだった。そして新しい年には、新しいキモノを用意して迎える家も多く、男物の大島紬アンサンブルや女の子用のウールアンサンブル、そして華やかな小紋のキモノや絞りの羽織などが、秋の売れ筋商品になっていた。
旺盛な消費者の購買意欲は、小売屋の商いのモチベーションを限りなく高め、問屋やメーカーは取引先や客の期待に応えようと、一生懸命モノつくりに励む。展示会と言う商いの場は、活況を極めたその頃の呉服業界を象徴する現場そのものだった。この時代を生きた業界の人々は、まさか半世紀後に、日本の民族衣装を扱うことがこれほど「危機的な状況」を迎えようとは、夢にも思わなかったはずである。私の祖父や父は、「呉服屋の良い時代」を経験して幸せだったと思う。しかしその記憶がいつまでも頭に残ったことで、後に時代の変遷に対応することが難しくなったとも言えよう。
こうした呉服屋天国の時代はそう長くは続かず、1974(昭和49)年のオイルショックによる物価高騰、そして高度経済成長の終焉により、曲がり角を迎える。そして同時に核家族化や女性の社会進出など、日本の社会や家族のあり方そのものが変容し始め、それが呉服需要の変容へと繋がっていく。その結果、呉服屋経営の柱となっていた展示会のあり方も、変わらざるを得ない状況になっていったのである。
次回の稿では、昭和50年代に限られた場の装いとなった呉服を、小売屋はどのような展示会を開いて、状況を打開しようとしたのか。そして平成に入り、バブル経済が崩壊した後、坂道を転がるように落ちていく呉服の需要に直面した時、展示会はどのように変容したのか。それぞれの時代背景を考えながら、検証しようと考えている。
私が子どもの頃の展示会は、まさにお祭りでした。会の最終日には打ち上げと称し、自宅の広間で大宴会が開かれました。そこで祖父は、従業員を始めとして、手伝いにきた問屋の社員一人一人に「金一封」を渡して、労っていました。店も沢山の売り上げを作ることが出来、出品された問屋の品物も数多く売れていきました。会場に来られたお客様も、沢山の品物を一度に見ることが出来、満足されて帰られたはずです。まさにこの時代の展示会は、店、取引先、消費者が「三方良し」の催しになっていたのです。
北秀の手を尽くした友禅、菱一の粋な小紋、紫紘の重厚な袋帯、藤娘きぬたやの絞り絵羽織、京都吉田の加賀友禅、トキワ商事の藍染、珍粋の更紗小紋、秋葉の結城紬、中勝の男物、横倉のお召、青柳の浴衣、中田商事の白生地。これは昭和40年代、うちの展示会を彩った問屋の品物です。手伝いに来ていた社員たちも20代、30代の若手ばかりで、本当に活気がありました。あれから半世紀、盛者必衰、万物流転です。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。