バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

個性的な二軒の機屋で守る、堅牢な釘抜き紬  牛首紬

2024.10 16

先日、衆議院が解散する場面を見ていたが、いつもであれば議長が解散の詔書を読み終えたところで、議員たちがもろ手を挙げて万歳と叫ぶのだが、今回は与党の議員だけが少し遅れて手を上げ、野党議員は野次をとばしているだけという、何とも締りの無い解散風景になっていた。これも、混沌とした今の政治情勢を象徴しているのであろうか。

政府の公的伝達機関・内閣官報局が発行する「会議録」には、1987(明治30)年の第11回帝国議会において、「解散詔書が読み上げられると、拍手が起こり『萬歳』と呼フ者アリ」と記述されている。これが、先例となって今なお続いているというのだから、その歴史は相当古い。なおこの時の議長は鳩山和夫で、2009(平成21)年の政権交代で首相の座に就いた鳩山由紀夫の曽祖父に当たる。

 

政権交代を可能にする二大政党制を目指し、今の小選挙区比例代表制度が導入されたのが、1994(平成6)年。政権交代が実現したのは、前述した2009年の選挙のみで、僅か3年で民主党が政権転落して以降は、自民党が勝ち続け、その間に野党は離合集散を繰り返して、一強多弱と言われる政治状態が続いてきた。しかし昨年、政権に胡坐をかき続けた自民党の驕りの象徴として裏金問題が勃発し、特に政権中枢にあった安倍派の多くの議員が、この問題に関与していたことを露呈した。本来ならば、野党は政権交代の絶好機なのだが、多党化している現状を見れば、期待は出来そうも無い。

二大政党制と言えば、イギリスの保守党と自由党、あるいはアメリカの民主党と共和党が挙げられるが、実は日本でもすでに戦前には、立憲政友会と立憲民政党の二大政党制が実現していた。政友会の支持者は、地主や財閥などいわゆる資本家で、民政党は議会主義を標榜して、都市の中産階級を地盤としていた。これを考えてみると、自民党は政友会の、旧民主党は民政党の後継政党のようにも思える。戦後は、労働者階級の政党として日本社会党が結成され、長く自民党の対立軸になっていたが、議席数は常に自民の半数程度であり、また当時の中選挙区制の下では到底政権交代は望めず、二大政党制との位置づけにはならなかった。

主義主張の異なる二大政党が、国民の選択=選挙によって審判を受け、結果として政権交代が可能になる。判りやすい政治状況なのだが、自民党の対立軸が定まらないうちは、この制度はほとんど意味を為さないだろう。

 

さて政治の世界に限らず、二つの性格の異なる組織が切磋琢磨しながら、物事を発展させていくことはよくある。競い合うライバルがいるからこそ、好結果に繋がる。そんな事例が、ある伝統織物の産地で見られる。需要が減り、後継者を探すことすら困難な各産地の現状からすれば、ここは稀有な存在である。いつにも増して、前振りが長くなってしまったが、今日は二つの性格の異なる織屋により、長くモノ作りが維持されてきた牛首紬について、話をしていきたい。

 

(加藤改石製織・手機 牛首紬白生地着尺)

代表的な紬織を三つ挙げるとすると、世間的な認知度の高さを考えれば、大島紬と結城紬は堅いところ。あと一つとなると、新潟の塩沢紬か山形の置賜紬(米沢紅花紬や長井紬)、あるいは長野の信州紬(上田紬や伊那紬)などが考えらえるが、特徴ある風合いや希少性から、白山の麓・石川県白峰村で織られている牛首紬を選ぶことが多い。

昨年度の生産数は、大島が2710反で、結城は500反にも満たない。大島は、ピークだった1972(昭和47)年の生産反・29万7千反の0.9%、結城は1980(昭和55)年の生産反・3万1千反の1.2%と、もはや壊滅的な落ち込み方である。一方で牛首紬の生産数は、2000反あまりで、ここ数年ほとんど変化はない。生産のピークは、1934(昭和9)年の1万2千反あまり。つまり、最高値を記録してから90年経った現在でも、当時の15%以上の生産反数を維持していることになる。これは大島や結城産地の現状と比較すれば、大健闘していると言えるだろう。しかも、これほど和装の需要が落ち込んでいる現代において、である。

そして驚くことは、昭和40年代からこの半世紀の間、僅か2軒の機屋だけで牛首紬の生産が維持されてきたことである。しかも、一軒の機屋の生産反は200反ほどで、残る一軒が残りの1800反を織っている。二軒の生産比率は、実に1:9。極端な生産バランスで、長いことモノ作りを維持してきたのだが、それには理由がある。そしてそれこそが、厳しい時代の中にあって、牛首という紬を守り続けて来られた、大きな要因とも言えるのだ。

 

牛首という名前は、白山を開山した泰澄(たいちょう)が、村の中心部に護摩堂を建立し、神仏習合の神・牛頭大王を祀ったことに由来する。これは718(養老2)年頃のことだが、この時代にはすでに養蚕の技術が伝えられていたらしい。以来糸作りとともに、徐々に製織も行われるようになり、江戸元禄年間には、商品化されていたことが記録に残る。1788(天明8)年に刊行された、江戸の絹織物記録・絹布重宝記(けんぷちょうほうき・武村嘉兵衛著)によれば、「釘抜太織、帯地、加賀より出る。見てより高値なれど、地性至って剛なり」と紹介されているほど。この頃すでに牛首紬は、「釘が抜けるほど丈夫な織物」と認識されていたのである。

さて、この時代から続く「釘抜き紬」の伝統を守り続けてきた二軒の機屋。各々を見ると、一方は少量生産で頑なに昔の技法を守る・保守派。もう一方は、技術革新により一定の生産数を確保し、次世代へと品物を繋げていこうとする・革新派。双方は、異なる考え方でモノ作りに向き合っているが、牛首紬を愛する気持ちはどちらも変わらない。それでは、二つの機屋は、どのような生産方法をとり、どんな品物を織り出しているのか、まずは保守派・加藤手織牛首紬(加藤改石)の方から、話を進めてみよう。

 

大正期から戦前まで、1万反を越えて製織されていた牛首紬も、1941(昭和16)年に出された、生活必需物資統制令により大きく生産を制限され、その上に食糧増産のために、白峰村の桑畑は野菜他の作物畑へと変わって、原料の生糸供給が難しくなった。そのため、この時代に相次いで機場が廃業した。戦後になっても、経済が混乱した中では牛首紬を求める声は小さく、需要は全く伸びない。そして、1902(明治35)年に創業した最も大きな機場・水上機業場が、1955(昭和30)年に機を止めたことで、白峰の織屋は全て姿を消し、ついに牛首紬は途絶えてしまった。

そんな中で、桑島集落に在住していた加藤三治郎一家が、炭焼きの傍ら、山繭を使って自家養蚕をし、原糸を自前で調達。そして牛首紬伝統の技を守りながら、細々と紬製織を続けていた。現在織場の代表を務める加藤改石さんは、三治郎さんの息子にあたる。加藤家によって紡がれた牛首の細い糸は、60年代に入り、村が地場産業振興の一環として新たな桑畑を整備し、養蚕事業を援護したことで、より確かなものとなる。折しも、高度経済成長時代でもあり、旺盛な和装需要にも支えられて生産数も増え、新たな機場も建設される。ここでようやく、牛首紬の戦後復興が成ったのである。

 

加藤手織牛首紬・白生地の表面を拡大したところ。織りの表情を見ると、太い緯糸の姿が目立ち、織りの目が密になっていることが見て取れる。大島や結城のような軽さは無いが、硬い中にも弾力は感じられる。伸縮性があるので、一旦生地にシワが付いても戻る力がある。生地の見た目からも風合いからも、いかにも強く堅牢度の高そうな織物と感じられ、「釘抜き紬」の名に恥じないフォルム。ではこの強い織質は、どこから来ているものなのか。それはやはり、原料の糸そのものに大きな要因がある。

牛首紬の原糸は、経糸は普通の繭糸を使い、緯糸には、双頭蚕が作る玉糸を使う。玉糸とは、玉繭から取れる糸のこと。通常では、一個の繭は一頭の蚕が作るが、玉繭は、それを二頭の蚕(双頭蚕)で作ってしまったもの。双方の蚕が勝手に糸を吐きまくって作った繭だけに、その形成過程では糸が複雑に絡みあっている。

しかもこの糸は、太く縮れて沢山の節を持っている。この玉糸の性質こそが、丈夫な牛首紬の基になっているのだが、そこで問題になるのは、厄介な玉繭からどのように糸を引き出すかということ。これが出来なければ、牛首の根幹を成す緯糸が生まれてこない。なので、牛首紬の製織工程の中では、糸を引き出す「のべびき」という作業が本当に大切になる。

のべびきは、座繰り糸機と呼ぶ機械を使って行うが、加藤改石では、牛首が生産され始めた明治時代当時と変わらない形のものを使用している。玉糸は、60個ほどの玉繭を鍋に入れ、二十分ほど煮沸して柔らかくなったところで、手で引き出される。これを何本か合わせて糸にするが、この時糸の太さを揃えることが職人に求められる。

糸はその後、「節こき」という陶製の小さな穴に通し、ケンネル式(繭から引いた糸を一本にまとめ、撚りを施す機械)で少し撚りをかけてから、小さな枠にまとめる。原始的な繰糸機では糸の織度を測ることは出来ないために、仕事を担う職人の手に糸の出来は委ねられている。この糸の優劣こそが、牛首紬の質のカギを握っており、そのためこの作業が重要視されるのである。糸が複雑に絡む玉繭から取れるのは、太く縮れて沢山の節を含む厄介な玉糸。これをほぐしながら、こわばった繊維同士を馴染ませる。その結果として、嵩が高くて伸縮性のある玉糸が生まれ、やがて織りなした時に、独特の風合いをもたらすことになる。

 

加藤改石の製品は、すべてが手織で、使うのは、バッタン式と呼ばれる高機の織機。これは明治の末頃から導入された機だが、それまで手で飛ばしていた杼が、紐を引くだけで左右に飛んでくれるようになる。これが、フライングシャトル(引き杼)という機能である。そのため織り手は、筬(おさ・糸を打ち込む用具)の打ち込みと足の踏木操作に集中することが出来て、織り効率は相当に上がった。

とは言え、織手が筬を使って一越ずつ丁寧に織りなしていることは変わらず、その手間の掛かり方は、機械機と比べようもない。加藤改石では、後染用の白生地だけを織っているが、述べてきたような工程を忠実に辿っているため、月に製織される数は10反~15反ほどで、年間の生産は200反ほどに過ぎない。なのでここの牛首白生地は、ほとんど流通に乗ることはなく、かなりの希少品になっている。

トレードマークは、ヤマの下に「石」の字。これは、当主・加藤改石さんの名前に因んだもの。1978(昭和53)年には技術保存会が出来、その10年後に伝統的工芸品に指定された。現在品質検査は、石川県牛首紬生産振興協同組合が行っている。昭和30年代、ただ一軒で守り続けた牛首の技法が、現代にそのまま受け継がれている。守ることが出来たのは、牛首の灯は消さないと言う強い意志があったから。それこそが、この織屋最大のバックボーンである。だから、「何も変えることは出来ない」のだ。

 

(白山工房製織・玉糸機 クリーム地縞柄 夏牛首紬)

さて、もう一方の革新派・白山工房(西山産業)の方に話を移そう。白山工房と言うのは、牛首紬織の資料館名で、運営に当たっているのは白峰地区にある「西山産業」という会社。この企業は、砂防工事や林道開発などの土木事業が経営の柱で、融雪装置や太陽光発電システム販売を手掛ける環境部門があり、そこに付随する形で、牛首紬を製織する繊維部門がある。

この会社が牛首紬生産を開始したのは、1963(昭和38)年のこと。そのきっかけは、戦前戦後に織りの中心で、1955年に機を閉じた最後の牛首織会社の主人と、現在の西山産業経営者の父親とが親しい友人だったこと。おそらく織屋の主人が、このままだと牛首紬は完全に廃れてしまうと、当時の社長に訴えたのだろう。そこで社長が「このままつぶしてなるものか」と一念発起して、自分の会社に繊維部を立ち上げ、織りの復興を目指したという訳である。この西山産業社長の英断がなければ、現代のキモノ愛好家が、この紬に手を通すことは不可能だっただろう。

 

最初の品物がクリーム地に水色と紫の縞なら、こちらはピンクと緑の縞。どちらも夏牛首だが、白山工房が織りなす縞モノは、こうした優しい色合いの品物も多い。白山工房では当初、加藤改石同様、すべて手織りで生産していた。しかし産業として継続するためには、一定の生産量は必要と考え、力織機、つまり機械による製織に舵を切る。

そもそも玉糸を緯糸に使う織は、機の打ち込み具合が織手によって変りやすく、品質が安定しないという弱点があった。その上織手間も掛かるために、簡単には生産反数は増えていかない。そこで開発されたのが、引き杼を使いながら打ち込みを機械で行う「玉糸機(たまいとばた)」であった。ただ機械製織と言っても、伝統工芸品としての認定要件・引き杼使用がクリアされており、生産効率が上がると同時に、手機織の欠点も補える。牛首紬生産にとって、一石二鳥の役目を果たす玉糸機の導入により、生産反数が増え、市場の認知度も上がることになった。

西山産業のトレードマークは、角印。この夏牛首でも、証書の横に付いている。製織は一部を機械に頼るようになったものの、牛首という紬の根幹を成す、のべびき・座繰りによって引き出された玉糸を使っていることは、加藤改石の仕事と変わりはない。白山工房の紬にも手機を使った品物はあるが、市場に出ている品物の多くは玉糸機使用で、その模様は上の画像のような縞モノがほとんどである。

ただ玉糸機は機械任せで織れる訳ではなく、高機同様に、織職人が一人ずつ一台の機を受け持ち、一反ずつ丁寧に織っていく。これは、緯糸となる玉糸に織ムラが多く、この糸を取り除くためには熟練した職人の目を必要とするから。なので厳密にいえば、これは人の手と機械の折衷織なのである。

 

織物の産地では、高級感を高めるための付加価値として、「手機」であることが強調されがち。だから機械を使っていることを、堂々と公言するところはあまり見かけない。けれども白山工房では、あえてそれを行っている。そしてさらに、機械で織ることのメリットと理由もきちんと説明している。それは、消費者や我々のような扱う呉服屋に対して、正直で真摯に仕事に向き合う姿勢の表れだ。

玉糸機の導入が、伝統織物を残すための「一つの手段」であり、それは未来へと繋げるための決断でもあった。伝統技法にこだわるあまりに、作り手が途絶えてしまえば、それこそ本末転倒になる。時代を見据えながら、柔軟に仕事の方法を変える。もちろん、牛首紬として最も重要な玉糸引きの技術は守りながらも。こうした革新的な姿勢は、他の織物産地のこれからを考える時、十分参考になるだろう。西山産業の取り組みは、伝統工芸品を未来へと繋げるための一つの試金石と言って良い。

 

頑なに伝統技術を守り、牛首白生地を少量だけ織り続ける加藤改石。機械織で手機の弱点を補い、市場に安定した品物を供給する白山工房。仕事の方策や考え方は全く異なる二つの織屋は、互いに無いものを補いながら、牛首というこの国を代表する織産地を守り続けているように思う。

「保守」と「革新」、この両輪が上手く廻り続ければ、牛首紬の未来は明るい。

 

牛首の紬織を担っている加藤改石と西山産業、その仕事ぶりは本当に対照的です。けれども、どちらが良い悪いではなく、どちらの考え方も必要で、だからこそ厳しい時代の中にあっても、しっかりと生き残っているのだと思います。反発し合うのではなく、補い合う。そんな姿勢がなければ、たった二軒の機屋だけでは、長く産地を守り続けることはできませんから。

政治の場面でも、二大政党が切磋琢磨して、国を良い方向に進めてくれると良いのですが、現状ではそれは望むべくもありません。苦労して首相の座に就いた石破さん、同じ名前・茂の誼(よしみ)で頑張ってほしいのですがね。今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

なお誠に勝手ですが、今週の日曜日・20日から26日の土曜日まで一週間、私用により店を休ませて頂きます。その間に頂いたメールのお返事も遅れてしまいますが、何卒お許し下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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