今の時期に東京へ出張に行くと、地下鉄の車内や駅の構内で、新入社員の集団を見かけることがある。似たような新しいスーツを着込み、革の短靴やパンプスは買ったばかりでピカピカに光っている。どことなく所在なさげで落ち着かない姿が共通していて、一目で新社会人と判る。学生気分が抜けて、自分の仕事の環境に慣れるまでには、まだ少し時間が掛かるだろう。
学生にとって、ここ数年は「売り手市場」であることから、就職先が全く見つからないようなことにはならない。むしろ焦っているのは、一刻でも早く良い人材を確保したいと考える企業側。インターンシップで早々に学生を囲い込み、採用に繋げようとする。調査によれば、今年の新卒者の60%以上が、一年前の四月には企業から内定が出ていた。5年ほど前に就職協定が撤廃されて以来、年々就職活動が早期化したため、大学生活は窮屈なものとなり、自由を謳歌する時間など無くなってしまった。
学業よりも職業。大学の4年間は、自分が何をするべきか熟慮出来る時間であったのが、何も考えないまま、周りに流されるように就活に追い立てられる。だから、会社に入ってから「こんなはずではなかったのに」と後悔する若者も多い。それを裏付けるように大学出の離職率は、3年で3割を超えている。そのため、企業はそれを何とか阻止しようと、給料を上げ、福利厚生にも力を入れる。借りた奨学金を肩代りする制度を、かなりの企業が導入していることにも、そんな一端が垣間見える。
そんな現代の就職事情だが、翻って我が呉服業界を見てみると、新卒者どころか若者の姿そのものを全く見かけない。取引先のメーカーや問屋の社員も、50代ですら若手。それ以下の者はまずいない。稀に見かけることはあっても、直ぐにいなくなる。話を聞けば、多くが一年と持たないそうだ。
そして流通の川上に当たるモノ作りの現場や、仕立や悉皆などの加工の現場では、輪をかけて若者はいない。いや若い者云々ではなく、人間そのものが消えかかっていると言っても良いだろう。この業界で仕事に従事する者の平均年齢は、とうに60歳を越えているはず。それは日本の農業就労者の平均年齢・67歳とほぼ同等で、担い手不足と高齢化の問題は同様に深刻である。
呉服業の中において、製造と流通両方の役割を担っているメーカー問屋は、まさに業界の浮沈を握る存在。クリエイターとプロデューサーがいなくなれば、否応なくモノ作りは停滞し、市場に流れてくる品物は質・量ともに低下するのは必然のこと。これを証明するかのように、昨今では、問屋がオリジナル商品を企画することが稀になった。
そこで今日のブログでは、問屋が独自に考えた色柄を、各産地の機屋や染屋に依頼して誂えたオリジナル品・止め柄や止め機とはどのような品物なのか、ご紹介することにしよう。そこには、作り手として、また売り手として力を見せていた、良き時代の呉服問屋の商いの姿が映し出されているように思う。
(問屋が企画した、オリジナル十日町紬絣 左二点・千切屋 右二点・菱一)
先月末、友禅メーカー・千切屋治兵衛の営業マンが久しぶりに店を訪ねてきた。千切屋治兵衛・通称千治(ちじ)は、室町後期の1555(弘治元)年、京都市中の衣棚町で創業した法衣業・千切屋を源流とする。千切屋は、友禅が生まれた江戸元禄期に呉服業へと転じ、代が変わるごとに分家を増やして、その数千切屋百軒と言われた。江戸時代、友禅のトップメーカーとして隆盛を極めた千切屋一門だったが、現在その流れを汲んで仕事を続けているのは、總左衛門の千總と治兵衛の千治の二軒だけになった。 (なお現在営業する「千切屋」は、別の流れを汲む呉服問屋で、創業は江戸享保年間)
千總の品物は主にデパートでの扱いが多いが、千治はどちらかと言えば専門店向き。ガチガチの古典意匠も作れば、少し目先を変えたマニアックな柄も作る。バイク呉服屋では、手を尽くした高価な絵羽モノなどは買えないが、凝った図案の小紋や動物をモチーフにした面白い染帯などを、時々仕入れて店に置いていた。以前は紫紘と一緒に東京で店を構えており、時折合同展示会を開いていたので、そこで品物を選んでいたのだが、ここ数年はその機会も無くなり、かなりご無沙汰になっていた。
品物の発表会や展示会の案内は、欠かさず送られて来ていたので、頑張って仕事を続けているのは判っていたのだが、なかなか京都までは行けない。せめて東京で開催してくれればと思うが、そうもいかない事情がある。その大きな要因は、人手が足りないこと。聞けば、関東圏の営業担当は、一人しかいないと言う。千治の品物の質を理解して扱えるのは、かなり専門性が高い呉服屋と思うが、それにしても一人ではどうにもならない。迅速な対応は難しいので、商いの機会を逃してしまう可能性があるだろう。
そして人がいないのは、何も千治に限ったことでは無い。紫紘の営業マンは二人、竺仙は三人、川島は一人。この人数で、全国の取引先の要望に応えるのは、どう考えても難しいはず。専門店だけでなく、デパートとも取引があるので、催事などの準備に駆り出されれば、どうにも身動きが取れなくなる。うちに来る竺仙の担当者など、「昨日まで札幌で、あさってからは神戸です。」などと言っている。今時プロレスの興行や相撲の巡業だって、こんなハードな日程は組まない。ただこれは他の取引先も似たようなもので、トキワ商事や松寿苑などは、社長が自ら営業に歩いて回っている。
考えてみれば、きちんとモノ作りをしているメーカー問屋ほど、こうした人手不足が顕著になっている。仕事の最前線に立つ社員がここまで少なくなり、人も育っていないというのは、それだけ専門店相手の商いが難しく、同時にモノ作りが厳しい環境に置かれているということだ。つまりはそれが、問屋の独自性の喪失に繋がっているのである。
すっかり前置きが長くなってしまったが、これから、かつて作られていた「問屋のオリジナル品=止め機・止め柄」をご覧頂ながら、問屋が直接呉服屋の商いに寄与していた活気溢れる時代に、思いを馳せて頂くことにしよう。
(菱一止め機 光琳椿模様 一元絣9マルキ泥大島・鹿児島 恵織物)
まずは「止め機」とは何か、というところから話を始めてみよう。簡単に言えばこれは、流通の中心的な位置に立つ集散地問屋が、みずから企画した図案や色を各産地の機屋に提示し、作らせた「オリジナル品」である。もちろんこの品物は、他の問屋で扱うことは出来ず、その機屋が製織した品物は、全部問屋が買い上げる。一軒の問屋だけに止まる機という意味で、こうした問屋依頼の誂え品のことを、「止め機(とめばた)あるいは止め柄」と呼ぶのである。
上の画像の品物は、今は無き東京の問屋・菱一が、今は無き鹿児島の機屋・恵織物に依頼して織らせた泥大島。経緯二本の絣糸を組み合わせた一元絣で、経糸1160本に対し、経絣糸772本を使った、算換算9.6=9マルキの精緻な絣模様の品物。菱一では、これを6反ロット(同一条件で生産する単位)で恵織物に依頼して織らせた。つまり全く同じ柄の品物を六反作り、それを全部引き取ったということになる。
模様は椿を丸く図案化した、光琳梅。尾形光琳は、植物モチーフを丸みを持った線で描いていたが、こうした特有の図案には光琳の名前が冠せられ、光琳椿とか光琳梅といった図案名が付いた。この大島は光琳椿を連続させ、しかも赤・黄・緑・白の四色を使った多色紬。一般的な大島とは違う、モダンで洒落た柄行きである。優れたデザイン性を感じさせる大島で、今こんな品物は探してもなかなか見つからない。
絣も細かく手のかかる仕事の品物で、その上意匠も斬新。だが菱一は、こんな品物を6反も織らせて、全部捌こうとしたのである。もちろん、作ったからには売れるという自信が無ければ、機屋に発注など出来ない。もし仕入れる小売屋が無ければ、いつまでも問屋の棚に在庫として残り続けることになる。そのリスクを覚悟した上でのオリジナル品の製織なのだ。これは、問屋のモノ作りに対する気概の表れと言っても良い。
(菱一止め機 露芝に蝶模様 一元絣9マルキ泥大島・奄美 平田絹織物)
反物の一番端の部分に、別織・別誂の文字と共に「菱に一文字」のロゴが織り出されている。これがあるおかげで、この大島が一目で菱一のオリジナル品と判る。最初の椿柄を製織した恵は、組合証紙に旗印が付いているので鹿児島の機屋。この露芝柄は地球印・奄美の組合に所属する平田絹織物。問屋の誂え品は、ある程度まとまった数を製織することになるので、依頼する機屋の規模は自然と大きな所になる。
70年代から80年代半ばにかけてが、最も大島の生産反数が上がった時代。この頃、問屋依頼のオリジナル品の製織は、全体の7割を優に超えていた。需要が旺盛だったこの時代には、各問屋は積極的にオリジナル品を企画し、機屋へと発注をしていた。ロット数も今のような数反ではなく、一つの柄を二十反近くも織らせていた。自分のところで柄や色を決めた誂え品には、その問屋のセンスや個性が表れ、それが他店で扱う品物との差別化にも繋がったのである。
黒に近い深紫・檳榔樹色で地を染めた珍しい大島。露芝の中に蝶が舞う絣模様は、紬意匠としては動きのある図案。模様が密ではなく、地空き部分が多いのも特徴である。最初の重ねた椿図案やこの地空き図案を見ると、どこか「小紋的な発想」があるように思える。モチーフにした植物をデザイン化して意匠にしたり、植物と蝶をとり合わせて写実的な模様にする。当時の菱一は、オリジナル小紋も作っており、大羊居や大松など手描き友禅も多く扱っていたので、模様や図案、あるいは挿し色など意匠に長けた社員が何人もいた。こうした商品開発や仕入れを行う、いわば染織品のオーソリティと言える者が社内にいることが、一流のメーカー問屋として存在出来る大きな条件であった。
(菱一止め柄 ちりめん地四季花飛柄 京紅型小紋・栗山工房)
菱一のオリジナル品は紬に止まらず、小紋でも様々な品物を扱った。自分のところで模様を考え、地色や挿し色を決めて、職人に発注する。小紋の場合、一つの柄に対して地色を3~5色くらい変えて染め出しをしていた。そして上の品物のような、型染紅型でもオリジナル図案の品物を作った。誂えを依頼した先は、京紅型の製作としてよく知られている栗山吉三郎工房。反物の端には、栗山工房の「亀甲に吉」のロゴと、菱一が社是として掲げていた「キモノを創る」の文字が並んで染め抜かれている。
シボの大きいちりめん生地を使い、深い群青地に鉄線・楓・橘・梅をバランスよく散りばめている。これは、菱一が考えた図案を、そのまま栗山工房が型を起こして染めた小紋。栗山では自分の工房で独自に型を起こし、様々な小紋や染帯を作っているが、こうした問屋依頼の誂え品の仕事も受けていた。
栗山紅型の小紋では、以前トキワ商事の誂え品も見たことがあったが、もしかしたらまだ他の問屋のオリジナル紅型があるかも知れない。もちろん上の画像の型紙は菱一専用で、たとえ地色や配色を変えたとしても、勝手に使うことは出来ないはず。ただ菱一が会社をたたんだ今となっては、その約束を守る必要があるか否か。型紙は破損しなければ使えるので、栗山の品物として出てくる可能性はあるのかも知れない。
(左:菱一止め機 切紙絣 右:千切屋止め機 四角ドット絣 十日町・根啓織物)
問屋発注のオリジナル紬は、大島ばかりではなく、十日町の機でも織られていた。十日町の紬は産地としては後発で、昭和40年代になって本格的に製織が始まった。時は高度経済成長盛りで、カジュアル着の需要も拡大していたことから、十日町では手軽に求められる紬の生産にシフトした。化学染料で糸染めし、機械括りで絣を作って機械で織る。数を作って安く売ることに、活路を見出そうとしたのである。
そんな目論見に応じるように、問屋では上の画像のような絣図案を提示して、十日町の機屋で製織させた。右は菱一の橡(つるばみ)紬、左は千切屋の縹(はなだ)紬。こうしてラベルをみるとよく似ており、品物のネーミングも似通っている。右の千切屋製の絣は、つい先日仕入れた品物だが、その時見た品物の中に、以前菱一で橡紬として売られていた絣模様と全く同じものがあった。つまり菱一終業の後、橡紬の絣柄の一部が縹紬と名前を変えて織られていたのである。実際に織ったのは十日町の根啓織物だが、依頼する問屋は変われども、止め機の品物として再び出荷することが出来れば、作り手として、それに越したことは無いのである。
先月仕入れた二点の千切屋の止め機・十日町絣。左の七宝絣は、最近では珍しい可愛い絣柄だったので、思わず買ってしまったが、10日も経たないうちに売れてしまった。価格は竺仙の綿紬浴衣と同じくらいの、かなり求めやすい値段。この二点は、止め機としてロットで数点織らせた中で売れ残った品物。おそらく千切屋は、在庫になるよりはましと考えて、安く見切って売ったのであろう。安く仕入られたバイク呉服屋は、もちろん安い価格を付けた。なので、こういう品物を求められたお客さまには、かなり得をして頂いたことになる。
問屋の力量が試されるオリジナル品・止め機。産地にモノ作りを任せるのではなく、自らが参画して思う品物を作らせる。それこそが染織品を扱う問屋としてのステータスであり、また矜持ではないだろうか。今日止め機の品物としてご覧頂いた多くが、今から7年前に店を閉じた菱一の誂え品。稿を書きながら、「キモノを創る」ことを社是としていた菱一の、問屋としての姿勢が改めて感じられた。今にして思っても、何とか残って欲しかった惜しい会社であった。
どこの問屋でも社員の数は極限まで少なくなり、営業も数人しかおらず、商品企画や仕入に至っては、それこそかなり限られた人数で行っている。それを考えれば、この先問屋が自らリスクを背負った止め機や止め柄を企画することは相当難しいと思うが、僅かでも良いから続けて欲しい。品物に個性を求める小売屋は、問屋が手掛けたオリジナリティ溢れる品物を、いつも待ち望んでいる。
最後に、菱一が止め機として誂えた二点の大島と、止め柄として栗山工房が型を起こした紅型小紋の仕立て終えた姿をご覧に入れながら、今日の稿を終えることにしたい。
(椿模様・泥大島キモノ 恵織物)
(露芝に蝶模様・泥大島キモノ 平田絹織物)
(鉄線・楓・橘・梅模様・京紅型羽織 栗山工房)
試しに「染織を学べる大学」を調べてみたところ、これが結構あるんですね。芸術分野のトップに立つ東京藝術大学には、美術科・工芸専攻の中に染織を専攻できる修士課程があり、染織の中心地・京都の市立芸術大学では、染や織の技法を実践的に学ぶ染織コースが設定されています。
また私学では、民藝運動の創始者・柳宗悦の甥にあたる柳悦孝が学長を務めた女子美術大学の工芸科が、本格的なカリキュラムを取り入れており、染・織・刺繍と分かれた専攻に応じて、型染や注染、友禅、絞り、そして絣や手紡ぎの製織方法や天然染料の扱いなどを学ぶことになっています。他にも、加賀友禅の故郷・市立金沢美術工芸大学や、紅型と絣の故郷・県立沖縄芸術大学に染織を学べるコースが開設されています。
こうしてみると、染織に興味を持って学ぶ若者が一定数いて、それぞれにかなりの知識を大学で得ていることが判ります。何故こうした学生を、呉服業界が取り込めていないのでしょうか。モノづくりと流通を担うメーカー問屋にこそ、必要な人材と思うのですが。けれども、先の見通しが立たない呉服業界は、若者にとって魅力のある職場には映りません。そもそも、将来この仕事で食べていけるかという不安が、どうしても付きまとってしまいます。
呉服市場において、人の手を経ない工業化された品物しか残らないのであれば、人は必要では無くなります。けれども、染織を文化と捉えて伝統的な技術を残すのであれば、どうしても担い手が必要になります。採用を諦めていては、未来はありません。本当にそこのところを、判っているのでしょうか。そして業界に入った若者を、休みも無く日本中を走り回らせるような働き方をさせてはならないことは、言うまでもありません。今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。