バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

「色留袖」を再考してみる  装いの機会を増やす方策は、何処か

2025.10 08

長年携わってきた自分の仕事を、国が認めて、その功績を褒めて貰うということは、やはり嬉しく誇らしいことなのだろう。特に国会議員や企業経営者などはその傾向が強く、貰えるものなら、少しでも格の高い勲章が欲しいらしい。こうした承認欲求は、社会的地位が高い者ほど強いが、平々凡々と生きている市井の人々には、それは全く無縁なことで、殊の外、自分の仕事ぶりを褒めて貰おうとも、称えて貰おうとも思うまい。

国や社会に対する貢献を褒賞する叙勲制度は、1875(明治8)年の太政官布告により正式に制定された。勲章を授与する条件が、国家や公に対する功績となれば、やはり戦前は軍人や官僚が授賞者の中心となり、民間人は少なかった。それが、戦後の1946(昭和21)年には、文化勲章など一部を除いて、生存者叙勲は廃止となる。それは、戦前の叙勲制度が軍国主義を助長したと捉えられ、国民主権の新憲法下では相応しくない制度と判断されたからであろう。

 

そんな勲章制度が復活したのは、1964(昭和39)年春の叙勲から。当時の総理大臣は池田勇人だった。日本国憲法第7条・天皇の国事行為の中には、栄典を授与する定めがある。おそらく当時の政府内には、この制度を、象徴天皇と国民の間を繋ぐ架け橋にしようとの考えがあった。さらに、国民には勲章を頂くことを名誉とする意識があり、これを目標にすることで、国民の国家への貢献度を高めたいとも考えた。穿った見方をすれば、国家への忠誠心を助長する一つの道具として使ったようにも思われる。

ともあれ、それから60年余り経った現代でも、毎年春と秋合わせて4000人もの人々が勲章を授かっている。そこで今日のテーマは、そんな叙勲の授与式には欠かせない衣裳・色留袖について考えてみる。このアイテムには、格の高さ故の使い難さがあり、装いの幅を狭めている。しかも、上質な施しの品物が多いので、もっと活躍する場面があって良いし、またそうでないと「宝の持ち腐れ」にもなりかねない。何かと課題の多い色留袖について、様々な視点から考えを及ぼしてみたい。

 

大松の手による、上品な花籠模様の江戸友禅色留袖。合わせた帯は、龍村の透彫文。

黒地以外の色で、裾だけに模様あしらいのあるフォーマル着。色留袖と名前が付いたこの商品は、1960年代の半ばに初めて製作された。つまりそれは、叙勲制度が復活した時期とリンクしており、明らかに授与式用の衣裳として開発された品物である。

女性本人が褒賞を受ける場合に限らず、夫が受ける褒賞に同伴して宮中へ上がる場合にも、厳然としたドレスコードが存在する。それが、洋装ならばフォーマルドレス(ロングアフタヌーンドレス)であり、和装では色留袖となる。これは叙勲制度が復活した当時から、今に至るまで変わらない。こうした経過から、色留袖は「叙勲の時の衣裳」というイメージが強く残り、それが装う場面を限らせることにも繋がっている。

 

当然この当時も、黒留袖を最も格が高い衣装として認識していた。けれども宮中では、黒は喪に服する時の色と決められていたため、勲章授与に際する宮中参内時に、黒地の留袖を着用することが出来なかった。そのために、黒以外の地色の留袖がどうしても必要となったのである。キモノの模様配置や形式はそのままで、地色だけを変えるという単純なリニューアルだったので、作り手も対応しやすく、短期間である程度の品物の数も揃えられたと思われる。

しかしながら、新たなアイテムとして市場に出てきた色留袖が、「叙勲・褒賞授与式だけの衣装」にしかならないのであれば、それこそ限られた需要しかなく、商いを支える商品にはならない。そこで考えられたのが、「黒留袖に準ずる格」を持つ品物であり、特別なフォーマル着として使えること。結婚式の際、両家の母親や既婚者の姉妹であるなら、黒留袖の着用が必須だが、少し関係が浅い甥や姪の儀礼ならば、黒ではない留袖・色留袖で列席しても構わない。いつしかそんな位置づけがなされて、色留袖=準第一礼装としての立ち位置が固まった。

 

色留袖は、こうした経緯によって装いの役割を果たしてきた訳だが、「黒留袖に次ぐ、特別なフォーマルモノ」という意識があまりに強いことから、実際に使う場面が少なく、また装うに値する場面はどこなのかが、ほとんど曖昧なままであった。その結果、ほとんど出番がないまま、長く箪笥に仕舞われるケースが多くなってしまった。

だが、特別な時に装う品物だけに、良質なあしらいが施されているものも多く、これを使わないまま寝かせておくと言うのは、何とも勿体ない。そこでバイク呉服屋は、色留袖に何とか陽の目を見てもらおうと、自分なりの方策を考えてみたので、これからそれをお話してみる。なお、話の間には、うちで扱ってきた上質な色留袖の画像を挿し入れるので、その模様や精緻なあしらいも楽しんで頂きたい。

 

押田正義が描いた、連山四季花模様の色留袖。合わせた帯は、北村武資の魚子文。

色留袖の着用を狭めている理由は、何と言っても、品物の格の高さにある。この格を上げている大きな要因が、付いている紋にあるだろう。ご存じの通り、紋は「家の象徴」であり、キモノにこれがあるだけで、否応なくその格は上がる。第一礼装として使う黒留袖と喪服には、背と胸と袖に五つの石持日向紋が付いている。これは紋の中でも、最も格上のあしらい。

第一礼装に準ずる色留袖にも、当然紋があしらわれるが、黒留袖のように五つと決まっている訳ではなく、一つ・三つ・五つと装う方の考え方で、その数は変わる。紋の入れ方は、地色を抜いて紋を描き入れる「染め抜き日向紋」になる。黒留袖や喪服の場合は、予め紋を描き入れる場所が白く抜かれている石持(こくもち)になっているので、紋入れの方法が色留袖のそれと少し異なるが、紋そのものの格式は変わらない。

かように、色留袖には紋に対する自由度があり、入れる紋数が少なくなれば格が下がって来る。五つより三つ、三つより一つの方が、仰々しさが前に出なくなる。結果として、五つ紋の色留袖は思い切りフォーマル度が増し、それに比べて一つ紋であれば、格が下がって何気に使いやすくなる。つまり出番を増やすためには、まず紋を減らすことを考え、究極的な手段としては、紋そのものを無くしてしまうことがあっても良いように思える。格式を重んじる和装フォーマルの常識からすれば、紋の無い色留袖を装うことなど、酷く道を外した考え方になるだろうが、私なりの根拠もあるので、次にそれをお話してみよう。

 

菱一製作の珍しい絽の色留袖。図案は花筏文。合わせた紗袋帯は、龍村の唐花の丸。

色留袖から紋を全て外すと言うことになると、そのキモノは何になるのか。模様あしらいが裾だけなので、これは留袖形式になる。しかし紋が付いていないので、留袖の役割は果たしていない。それでは、何になるのか。訪問着の場合、模様は裾と袖、そして胸にも施され、中には模様全体が繋がって、総柄のように見える品物もある。また反物の状態で加工される付下げは、その多くが訪問着に比べて模様の嵩が少なく、あっさりとした柄行きの品物が多い。いずれにせよ、紋の無い裾模様だけのキモノは、その模様形式だけを考えれば、現在あるキモノアイテムのどこにも属さない。

けれども時を遡り、今のキモノの原点ともなっている江戸小袖の模様形式を考えてみると、裾だけの模様あしらいが数多く見られ、それが黒留袖の原型にもなっている。ではどのような模様姿であったのか。少し長くなるが、お話してみよう。

 

江戸中・後期における小袖の意匠構成は、それまでのキモノ全体に模様を施す華美なあしらいに代わり、模様を減らし着姿を地味に見せる方向へとシフトした。これは、寛政期に出された奢侈禁止令によるところが大きく、両方の褄から裾にかけてだけ模様を置く「褄模様」と、裾の回りだけに模様のある「裾模様」が装い姿の中心になった。

こうした模様姿は、京よりも江戸で広く流行したことから、「江戸褄模様」と呼ばれるようになったが、その意味するところは、現在の江戸褄=留袖=既婚女性の第一礼装というものではなく、あくまでもあしらいの形式を意味していた。そしてこの意匠形式は一様ではなく、現在の留袖模様に於いて踏襲されている、上前の褄下から後身頃、下前衽に向かって斜めに模様が続く「後掛け模様」や、模様全体の位置を高くして、腰までかかるような派手なあしらいの「腰掛模様」、さらには、下前の褄だけに模様を付け、前姿からは無地にしか見えない「片褄模様」など、様々なパターンがあった。

褄下のすぐ下から模様が始まり、後身頃へと流れる「腰掛模様」の色留袖。

道長取り模様が、裾から後へと流れるスタンダードな「後掛け模様」の色留袖。

このように、現代の黒留袖や色留袖で表現される裾だけの模様形式は、その歴史的な経緯を考えれば、必ず紋を付けて装うべき品物とも、一概には言えないのでは無いだろうか。そして全て紋を外さないまでも、一つ紋くらいであれば、その堅苦しさは消えて、同じフォーマルでも、もう少し気軽な場面でも使うことが出来るような気がする。

単なる模様あしらいの形式だった江戸褄が、そのまま品物の名前となり、それが紋と結びつくことにより、最も格の高い第一礼装の品物となった。もともと留袖とは、振りの無い袖を意味し、江戸の女性は未婚・既婚に関わらず、19歳になると脇を塞いで、短くした袖丈いっぱいに袖付を施した小袖を使用した。留袖と言う名称も、特定の品物を意味するものではなく、あくまでもキモノ(袖)の形状を指すもの。それが明治以降、第一礼装品の名称に転じたことで、使い道が限定されるようになってしまった。

 

落ち着いた秋草模様の色留袖。叙勲用に誂えた品物。帯は、龍村の正倉院花喰鳥文。

色留袖の使用範囲を広げるにあたり、その裾模様形式や留袖が持つ本来の意味について、歴史的な経緯を遡って振り返ってみた。結論を述べるとすれば、紋あしらいを絞ることで、訪問着と同様の使い方が出来るのではないか、ということになる。もちろん、使う場面はあくまでフォーマルだが、これまでのように、叙勲授賞式や親族の婚礼の席、またはそれに準ずる畏まった式典の装いに限らず、もう少し格を下げた場で使っても構わないと思う。

その時にポイントとなるのは、合わせる帯で、金銀箔使いの重厚な古典模様では、やはり重苦しくなってしまう。無論名古屋帯を使うことは出来ないが、少し軽やかな唐織帯や図案化したモダンな意匠の帯を使い、あえて装いの格を下げてやると、使いやすくなるだろう。

 

今日の稿は、あくまで私の個人的な考え方=私見である。なので、色留袖の紋を故意に消したり減らしたりして、格を下げて使うことなど許されないと、お叱りを受けるかもしれない。無論、あくまで格式の高い「特別な品物」として、安易には使えないと考えるのが当然であることは、十分承知している。本来は、こちらの方が至極真っ当な考え方であり、呉服屋の主であれば、守らなければいけない基本的なルールであろう。

けれども、やはりキモノは着てこそ価値が生まれる品物で、箪笥の中に置いてあるだけでは、勿体ない。捉われていた装いの慣例を、ほんの少し見直してやれば、装いの場面は広がると、私は思う。今日の稿では、品物の意味するところなど、歴史的な背景も持ち出して、自分の意見を正当化してみたが、もしかしたら無理があったかもしれない。こんな変わり者の呉服屋の戯言を、皆様はどのように思われるだろうか。

 

名誉ある勲章を謹んで貰い受ける人が多い中、推挙されても、辞退したり、拒絶したりする人がいます。戦前では、伊藤博文から推挙された爵位と勲章の授与を断った福沢諭吉、位階勲等を絶対に受けるなと遺書にしたためた平民宰相の原敬、そして「余は、石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言書に書き、墓石に自分の号ばかりか、生前の位階や勲位を一切記させなかった文豪・森鴎外。

戦後復活した叙勲でも、「男の一生の仕事を、勲何等とか政府から決められてたまるか」と言って授賞を拒んだ日清紡社長の宮島清志郎と桜田武や、就任する時、己のことを「粗にして野だが卑ではない」と語って、勲章を断り無給で国鉄総裁を務めた石田禮助、さらに「人の値打ちを国にランク付けされたくない」と断った日本興業銀行の頭取・中山素平。

 

勲章など人生の最終目的にはなり得ないし、価値など無い。叙勲を拒絶したこれらの人々には、自分の生きざまに対して、何人も踏み込ませないような気骨が感じられます。そこに「国からのお墨付き」など、どうでも良かったのでしょう。人から評価されることが目的ではなく、自分がやるべきと考えるから、やる。やはり、仕事はこうでなきゃダメですね。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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