常々思っていることだが、呉服屋というのは様々な意味で、出来るだけ間口を狭めて商いをすることが、一番良い気がする。人を雇い入れることなく、主人だけ、あるいは妻と二人だけで、ひっそりと静かに店を構える。扱う品物もアイテムを絞り、自分の好きなモノを少しだけ仕入れて、店に置く。そしてお客様は、店のあり方を理解して下さる方に限られ、その方々だけがポツポツと仕事を依頼してくる。今のバイク呉服屋を顧みれば、何となくそれっぽくなっているように見えるが、実際には、まだまだ現実的な雑念が消えておらず、理想にはほど遠い。
時間に追われることなく、のんびりとお客様を待ちながら、ゆったり商いをする。何も売れなくても、誰も来なくても一向に構わない。何なら営業する曜日も決めずに、自分が好きな時だけに店を開けても良い。こんな自由で気ままな呉服屋生活を送ることが出来れば、このあと30年くらい仕事を続けられそうな気がするが、それは無理な話だ。お客様の便宜や利を度外視した勝手な商いなど、真っ当な仕事ではないだろう。
消費者の生活様式の変化や通過儀礼の簡易化に伴い、この40年の間で呉服需要は大きく減退し、それに伴ってどこの店も、商いの質量ともに大きく後退した。こうした時代の流れを受けて呉服屋は、需要の見込める商材として唯一残った振袖に特化する店と、キモノファンを対象とする専門性の高い店とに袂を分かつことになった。
振袖を売ろうとすれば、どうしても対象者を広い範囲の中で求めることになり、商いの形態は大きくなる。けれども、キモノを趣味とする限られた方が商いの対象者ならば、間口は狭められる。そして店側では、何に重きを置いてモノを売るかによって、形態を自在に変えられる。大きい商いは望まない代わりに、自分の好きな品物を好きなように扱える。そんな個性の発露が容易くなるのだ。小さな経営形態の店だから出来ることで、それこそが個人専門店の強みである。
だがそんな、ひとクセある個性的な店になるためには、扱う品物にもクセがなくてはならぬ。では、そんな店に必要な特徴的なアイテムは何かと言えば、それは木綿の品物かと思う。木綿はカジュアルモノに特化した素材であり、装う季節も夏が中心。なので目を止める方は、夏の和装を苦にしない、いわば筋金入りのキモノファンということになる。そこで今月は、バイク呉服屋の夏の店先を彩る様々な木綿の品物を紹介し、各々に相応しいコーディネートを考えてみたい。
月三回の稿が全てコーディネートとなるのは、初めての試み。今日は前編として、久留米絣と綿薩摩を取り上げる。そして中編では、絞り木綿着尺や中形小紋、紅梅などをご紹介し、最後の後編では、一般的な浴衣をコーマや綿絽、綿紬など素材別に何点か見て頂く予定。来月からはお祭りや花火大会など、キモノ姿で出かけるイベントが本格的に始まる。今月の稿が、少しでも装いの参考になればと思う。では、始めよう。
(蜻蛉模様・紺地久留米絣と縞柄・秦荘綿麻帯のコーディネート)
別名・山袴(やまばかま)とか軽衫(かるさん)と呼ばれた「もんぺ」は、農家の生活には欠かせない労働着=野良着として広く使われていた。そしてこれが動きやすい作業着だったことから、太平洋戦争中の1942(昭和17)年には、婦人の標準服として半ば着用を強制されることにもなる。
モンペは端的に言えば、袴のような形態をしたズボン。腰回りはゆったりしていて、裾はきゅっとすぼまる。このズボンの中に、上に着用したキモノを入れて使うので、自然と身動きが軽くなる。そんなモンペに使われた素材は耐久性に富む木綿で、中でも代名詞になるほど使われていたのが、久留米絣である。
久留米の木綿は、何度となく洗っても傷むことはなく、むしろ洗うほどに、そして着るほどに生地が柔らかくなり、着心地が良くなる。その上通気性が良く、乾きやすい材質の特徴も相まって、日常着として長く使うには、真向きの木綿であった。江戸・天明年間に生まれた久留米絣は、大正期に220万反という驚異的な製織数を誇ったが、戦後生活様式の変化に伴って生産は減少していく。現在は久留米市を中心として20軒ほどの織屋が残り、伝統の技を守りながら、絣を織り続けている。今日はまず、そんな郷愁を覚える久留米絣の綿縮から、品物をご紹介してみよう。
藍色地 雨だれ絣模様・紺色地 蜻蛉模様 二点共に坂田織物製織
江戸寛政年間より、本藍染糸を使い、手織り手括りで行われてきた久留米絣だが、現代ではそれを踏襲して生産されているのはごく僅か。多くが機械括り、機械織、そして化学染料を使用したもの。だが製織で使用しているのは、手機同様に杼で緯糸を通すシャットル織機であり、経糸を合わせて美しく模様を織り上げるためには、人が織機の間を行き来して、糸や絣模様合わせの調節をする必要がある。なので機械生産と言えども、そこには熟練した織職人の技が必要であり、やはり手を掛けた絣の綿織物と言えよう。
大きな蜻蛉の周りには、何匹もの小さな蜻蛉が舞い飛んでいる。蜻蛉柄各々の「かすれ具合」に違いがあり、絣模様の面白さが図案の中にもはっきり表れている。蜻蛉は前にしか進めず、後には下がらない虫。そんな縁起の良さから、古来武士が身に付ける武具の模様となり、今でも綿絣や浴衣の柄、そして角帯の模様などにもあしらわれている。
もう一方の絣は、縦並びの点線となって模様があしらわれており、遠くからみると雨だれのようにも見える。こちらは蜻蛉絣に比べれば、かなりシンプルで単純だが、よくよく見ると一つ一つの筋の長さと模様の掠れが違っている。模様の基となる絣括りも機械で行われているが、糸が染らないところをずらしたり合わせたりしながら、様々な絣模様が表現されている。そのことに変わりはない。
キモノが大きな蜻蛉絣なので、帯はシンプルな縞だけの図案で、すっきりと合わせてみた。このコーデに限らず、キモノと帯双方の模様が混み合って重なると、どうしても着姿がまとまり難くなる。この帯は、白い地に墨色と水色、ピンクの三色ストライプがランダムに付いていて、爽やかな印象を受ける。キモノの紺色とも相性がよく、白く抜けたトンボも生き生きとした姿になっている。(帯 綿麻混紡八寸 近江・川口織物)
赤に近い臙脂色の帯〆を使い、前姿にアクセントを付けてみた。合わせた絽の帯揚げはサーモンピンクの暈しで、中には蜻蛉が描かれている。(帯〆・帯揚げ共に渡敬)
雨だれ模様には、同様の縦絣が付いた近江麻の名古屋帯を合わせた。帯地色は芥子色で、博多帯の五献上縞のように、規則的に模様が区切られている。その中にある二種類の絣縞が、お太鼓の帯姿を印象付けそう。少し粋なコーディネートになるだろうか。(帯 麻八寸 近江・川口織物)
(紫地・綿薩摩縞着尺 グレー地・綿薩摩微塵格子着尺 都城 東郷織物)
大島紬の技術をそのまま生かし、精巧に織り上げられる木綿織物・薩摩絣。元々は琉球で織られていたものを、1608(慶長14)年に薩摩藩が琉球を侵略した後に税として貢納させ、以後は薩摩絣の名前で市場に出回った。紺地に白抜き絣を紺薩摩、逆に白地に紺抜き絣を白薩摩と称し、染料は全て琉球の天然藍を使用した。
18世紀に入ってからは、鹿児島でも製織するようになり、明治維新後は失業した武士の救済事業として織工場も建設されるようになる。けれども大正年間に入ると、先述した久留米絣に押されて需要が伸び悩み、全く廃れてしまった。だが終戦後、東郷治秋と永江明夫が宮崎県・都城市に創設した織工場・東郷織物によって、薩摩絣は復活する。
絹糸に比べて綿糸は、滑り難く切れやすい。大島の紬製織より難しいこの綿絣は、絹と見間違うような光沢を持ち、細番手の糸を使うことによって、柔らかくしなやかな風合いを持つ。もちろん現在製織できるのは東郷織物だけで、本格的な経緯絣ともなると、年間に20反ほどしか生産されてはいない。そのため、絹製の大島紬より遥かに高価な稀少品となっているが、キモノ愛好家の間では「マニア垂涎の品物」と認識される。
そんな貴重な薩摩絣だが、東郷織物では、気軽に楽しむことが出来る縞や格子の木綿も製織している。この品物は絣糸作りや絣合わせが不要であり、その上機械製織なので価格もそれほど高くはない。けれどもその着心地は、絣モノと全く遜色はない。これからご紹介するのは、そんなリーズナブルな薩摩の木綿である。
遠目からはほとんど無地に見えるが、紫のほうはかなり細い縞柄で、グレーの方は「みじん格子」と反物に貼ってある通り、小さな格子模様が連続してあしらわれている。東郷織物では、手織の絣モノを薩摩絣、この二点の品物のような機械織の縞や格子柄を、綿さつま・さつま絣とすみ分けている。
紫の細縞・綿さつま
グレーのみじん格子・さつま絣
最近では、縞や格子モノも製織数が少なくなっているらしく、扱う問屋でもなかなか数が揃わない。この二点も、仕入れ先の廣田紬から品薄になっていると聞いて、春先に慌てて仕入れたものだが、両方ともひと月ほどで売れてしまい、棚には残っていない。キモノフリークにとって人気の商品なので、見つけたらまた仕入れる必要がある。
ほぼ無地なので、合わせる帯によって自由に雰囲気を変えることが出来る。使った大きな格子模様の帯は、これも稀少品の丹波布。こうすると、渋い薩摩木綿もモダンな着姿に変わってくる。
明治末まで佐治(さじ)木綿と呼んで、兵庫・丹波地方で盛んに織られていた素朴な綿織物は、戦後の1953(昭和28)年に民藝運動の父・柳宗悦によって再発見され、かつて用いられていた図案帳・縞帳を使って復興する。現在も、丹波布技術保存会を中心として、植物染料を用いた木綿の織物が、帯をメインに僅かに生産されている。
この帯に使っている染料は、栗と藍。他には胡桃やヤマモモ、コブナ草などが使われるが、糸染めの基本となる色は茶や藍で、たまに黄や緑に発色させることもある。木綿の織物だが、緯糸の中に屑繭から引きずり出された「つまみ糸」が織り込まれている。同じ木綿でも、薩摩木綿とは対照的にざっくりとして粗い風合い。けれども帯としてはとても軽く、気軽に締められる感じになっている。
みじん格子の方は、様々な糸を斑状に織り込み、組み紐に見立てた模様の紗八寸帯を合わせてみた。こちらは丹波布を使ったカジュアルな姿とは違って、シックな大人の夏姿になっている。シンプルで大人しいけれども、どこか垢抜けた感じが着姿に残る。
久留米絣のコーデネートと比べれば、やはり「キモノ上級者」を感じさせる綿さつまの装い。滑るような優しい風合いは、着た人だけが感じる独特なもの。それがまた、マニア心をくすぐるようにも思える。(帯 丹波布八寸・広田紬 紗八寸・滋賀喜織物)
今日は木綿コーディネートの初回として、久留米絣と綿薩摩を取り上げてみた。木綿は夏のカジュアルモノの主力であり、キモノに初めて手を通す方から、様々な品物を着尽くし、着姿が板に付くベテランの方まで、各々が自分らしい装いを楽しむことが出来る良い素材。手に届きやすい価格のものも多いので、この夏はぜひ好みの一枚を探して誂えて頂きたい。
また合わせる帯も、時には名古屋帯や半幅帯と帯の形態を変え、そして木綿や麻、絹と材質の異なるものを織り交ぜながら、様々な姿を試してほしい。次回の木綿は、絞りと中形の品物を中心に話を進める予定なので、また続きをお読み頂ければと思う。
丹波布の再興に一役買った、民藝運動の主唱者・柳宗悦。彼は、日常の生活に密着した「普段使いの品物」にこそ美があると気付き、これを「用の美」と呼びました。そしてその品物・民藝品は、無名作家の手で作られ、風土や自然の恵みの中から生まれたものでなければならない、と定義したのです。
確かな職人の手で心を込めて丁寧に作られたものは、使うほどに使い心地が良くなり、使う者には次第に愛着が生まれます。愛着が生まれると、なお品物を大切にしようとする心が生まれ、それは長く、時には世代を越えて使い続けられます。こうしたモノに対する心持にこそ、日本人の心の美・美徳が表れていると、宗悦は言いたかったのかも知れません。
「効率」という名の下に、使い捨てやその場限りの扱いを容認している現代。工業製品ばかりが残り、民藝品はすでに風前の灯となっています。人の手の尊さをないがしろにする国では、この先文化がどれほど守られるのか。懐疑的にならざるを得ません。
残り少なくなりつつある呉服屋生活ですが、店を開ける限り、人の温もりを感じられる品物を、一点でも多く扱いたいと思っています。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。