3月になると、少しバイク通勤が楽になる。良くしたもので、朝の気温が氷点下から解放されると、乗っている時の体感温度が変わる。もう40年以上もバイクに乗り続けているので、こうした微妙な季節のうつろいを、肌で感じることが出来る。
けれどもバイク乗りにとって、憂鬱な日もある。それは天候不順な雨や雪の日、そして風が強い日。特に雨の日は、乗車する前に濡れないための装備が必要になるので、その準備が面倒。まだ軽装の夏場は簡単で良いが、冬場ともなると、ジャケットの上にダウンを着て、さらにその上から防水を施した合羽を付けなければならない。もちろんズボンの上からも、防水パンツを履く。
こうなると全身が二重三重の布で覆われた状態になり、まさに着ぶくれの極致。しかも顔はヘルメットで隠れているので、この格好でバイクにまたがると、異様な姿になる。奥さんは、普段でさえ怪しい風貌なのに、合羽を着るとさらに近寄り難くなると言う。だが何と言われようと、バイク通勤をする限り、合羽のお世話にならない訳には行かないのだ。
ところで、雨天時に着用する外套のことを、何故「合羽」と称するのかご存じだろうか。何となく、水の中に棲む妖怪・河童と関係がありそうだが、そうではない。これはポルトガル語の「capa(カーパ)」が語源になっている。カーパとは、布製のマント・外套という意味を持つことから、それに合羽という字が当てられ、そのまま日本語として使われるようになった。
合羽は最初、ポルトガル人の外套に似せて、衣服の上を釣鐘状に広く覆うような形状で作られたマント形だったが、後に羽織を模して袖が設えられた。そして素材には、防水加工を施した紙油製や木綿製のものが使われ、それが雨具用や旅行用として普及した。また後には、毛織物の羅紗(らしゃ)やビロードを使った高級合羽も登場し、防寒用として重宝されるようになった。
江戸時代当時の合羽には、丈の短い「半合羽」と全身を覆う「長合羽」があったが、庶民の雨具は木綿や紙で出来た半合羽であった。そして長い丈の合羽を使うことが出来るのは、将軍に謁見できる上級武士や医者、僧侶、そして富裕町人のみで、しかも女性は使えない。江戸中期まで、婦女の雨除けは、外側に浴衣を着用することで凌いでおり、合羽の使用者は幕末になって、ようやくちらほらと見られるようになったのである。
さて今日は前回の稿に引き続き、接ぎを駆使してリニューアルした品物をご紹介する。今回は、外套(いわば現代の合羽)として使用されてきたコートを、新たに羽織として直す事例。同じようにキモノの上に着用する品物を、どのような方法で誂え直したのか、前稿と同様にお話することにしよう。
道行コートから羽織に誂え直した、芥子色地・菱繋ぎ模様の紬小紋
旧来、羽織の原型となったものは、道服と胴服。どちらも「どうふく」と読むが、道服は僧侶が着用した直綴(じきとつ)が変形したもので、羽織より長く、腰から下に襞のある上着。室町時代初期より、公家や高位の役人が使用した。一方胴服の方は、長さは腰の辺りまでと短い。これは、道服が変化したものと考えられ、この時代の武将が、戦場での防寒のために用いた「陣中羽織」がそれに当たった。
初期の羽織は形が一定では無かったものの、江戸期になると、武士が将軍から賜る拝領品となる。そして、紋を付けた羽織を袴と共に用いる場合は礼服となり、その習慣は庶民にも伝わった。そして元禄時代あたりから、日常着としても羽織を使うようになる。羽織は上着なので、衣服の主役として使う小袖よりも自由度が高く、誂える丈や形、そして生地の素材や色、模様など、用途によって様々なものがあり、時代ごとに流行が変遷した。
羽織は元来、男子のみが使用したが、江戸中期に深川の芸者が着用したのを契機に、庶民の婦女も使うようになる。しかし、幕府が1748(延亨5)年に「女羽織禁止」のお触れを出したことで着用は控えられ、1770年頃の安永年間までには、芸者の羽織姿も全く見られなくなった。次に女子の羽織が復活するのは、100年後の幕末になってからで、一般化するのは明治時代まで待たなければならなかった。
羽織もコートも、キモノの上から着用する品物だが、羽織には「上着」としての長い歴史があり、コートはあくまで、防寒や防水のための「合羽」であった。つまり羽織は、洋服で言うところの「ジャケット」に当たり、コートは家の外で使う「外套」である。
このことが、羽織は建物に入っても着用したままで良いが(茶席は除く)、コートは脱がなければならないと言う、装いのルールとして確立している大きな要因になっている。今回、お客さまから受けた道行コートから羽織への誂え直しは、同じ上から羽織って使う品物であっても、その用途を変え、かつ格を上げて使用することが目的であった。それでは、具体的な誂えについて話を進めて行こう。
羽織の誂え直す前、角衿の道行コートだった時の画像。
この品物は平織の紬小紋なので、この道行コートも当然、カジュアルキモノ用として使用していた。材質は、大島紬に似て滑るような質感。紬地を使い、二種類の菱模様を全体に染付けてある。生地の風合いからすると、防水を掛ければ雨コートにもなりそう。
もちろんこのままコートとして使うのもありだが、依頼された方は、着用の機会を増やしたいと考えて、羽織への誂え直しを依頼された。色は芥子色で、図案は幾何学的な菱文の総柄。この方のカジュアル着には、藍や茶系の紬が多いことから、この道行コートの色と模様が羽織となって生かされれば、その方が使い道が広がる。そう考えたのだ。
しかし、道行コートを羽織に誂え直すというのは、簡単ではない。というより、かなり難しく面倒なことであり、直すためには、あることをまずお客様に容認して頂く必要がある。この方は都内に在住しておられるが、これまで何軒かの呉服屋に、道行から羽織への直しを依頼したところ、いずれも断られたと言う。一般的な呉服屋の経験則からすれば、羽織から道行にはなるが、逆は無理と言うのが常識的な線である。それでは、直す時のハードルとなっていることは何か。そしてお客様に容認して頂くこととは何か。
誂えに入る前、解いて元の縫いスジを消す。道行コートにほとんど汚れが無かったので、洗張りをする必要は無かった。コート裏も筋を消し、誂え直す羽織裏として再利用する。品物を再生する場合、その状態によって仕事を簡略化し、使えるものは使って、出来るだけ費用を抑える工夫をしなければならない。お客様の負担が少なければ、それはまた、次の依頼へと繋がってくる。
コートと羽織の最も大きな形状の違いは、衿の形。そして前身頃と後身頃の間に襠(マチ)と呼ぶ布が入るか否か。襠は道行には無く、羽織には付いている。なので、道行コートから羽織へと誂え直すためには、衿と襠をどのように形作るかが最も大きなポイントとなる。この衿を誂え直す過程で、先述した「お客様に容認して頂くこと」が生じる。それは、どのようなことなのか。言葉で説明するのはかなり厄介で、読者の方にはなかなか理解し難いと思うが、お話してみよう。
角型に空いた道行コート衿の周囲には、5~6分幅の小衿が付いている。そしてその下の竪衿の幅は、標準で4寸~4寸2分程度。
一方で羽織の衿幅は、1寸5分ほどと狭い。しかし羽織の衿丈は、道行の衿丈よりも長くなることから、どうしても衿に使う生地が足りなくなる。そして、羽織特有の襠に使う生地もどこからか探さなければならない。だが、普通に考えれば衿布は見つからない。このことが、道行から羽織には直せない大きな原因となっている。けれども、道行コートの布の構造(縫込み)を考えると、不可能が可能になってくるのだ
共布で包みボタンを作り、取り付けた道行コートの竪衿。画像では道行の衿部分を写しているが、この幅は約4寸である。けれどもこの衿の中には、元の生地を切り落とすことなく、輪のように重ねて入っている。竪衿は、上前と下前の各々にあるので、そこに幅の広い二枚の布が存在することになる。
この道行竪衿に縫い込んである生地を使えば、羽織衿を形作ることが出来るのだ。けれども、道行衿は羽織衿より短いので、縫込み生地に横幅はあっても縦幅は無い。そこで羽織衿の長さにするためは、どうしても途中で接ぎを入れる必要が出てくる。接がない限り、衿丈は出てこない。そして接ぎが出るのは、三か所。一か所は衿の真裏で見えないが、二か所は衿のほぼ真ん中で、乳下り近辺に出てしまう。これは、着姿からは隠れない位置である。
お客様に承知して頂くのは、この「接ぎを施したところが見えてしまうことへの懸念」なのである。もちろん、出来る限り目立たないように接ぎは入れる。けれども、やはりどうしても気にはなる。誂えを請け負う店側も手を入れる職人も、「接ぎ」をすることには抵抗があるのだ。しかしお客様に、この接ぎを受け入れて頂く以外に、羽織を誂える道が無い。
接ぎを施した羽織の衿部分。仕事に掛かる前、お客様に納得して頂いた衿の接ぎ。最終形がどのようになるのか、事前に説明してご理解を頂かない限り、誂えには入れない。
さて道行竪衿に縫い込まれている布は、どのようにして羽織衿となるのか。先ほど道行衿は上前と下前に1枚ずつ付いていると述べたが、まずこの2枚を各々縦に分割する。そうすると4枚の布になるが、これを羽織の衿幅・1寸5分にたたんで衿を作る。衿の長さは、誂える羽織丈の長さによって決まって来るが、いずれにせよ4枚に割った布のうち3枚を使い、これを繋ぎ合わせて使うより他にない。この時、衿の後ろと左右の衿に接ぎを作ることになるのだ。
そして残りの1枚の布は、襠の生地になる。前身頃と後身頃の間に入れる襠の形状は、上が5分で下が1寸5分の細長い台形になっているが、幅も長さも、残布1枚で十分に事足りる。場合によっては、道行衿上部の小衿になっていた布を使うこともあるが、長さが足りないことが多い。また襠の裏には生地が必要になるが、羽裏に残りが出るようであればそれを使い、無ければ何か他の生地を代用する。
コート裏は、そのまま羽裏として使った。画像では隠れているが、襠は共布を使う。
実際に仕上がった羽織を見ると、問題になる衿の接ぎは、よほど近づいて見なければ判らない。なので、装った時に「接いであること」をそれほど意識しなくても、大丈夫かと思う。この品物が濃い色目の総柄小紋であったことも、接ぎ位置を目立たせない要因になっているのではないか。
この画像では、衿のどの位置に接ぎが入っているのか、全く判らない。
これまで常識として、着姿において、見えるところに接ぎが出ることは、避けなければならないと考えられていた。だからこそ、道行コートから羽織への誂え直しは、ほとんど実行されていなかったのだ。けれども今回のように、接ぎを受け入れて誂え直しをしてみると、案外上手くいくということが判った。もちろんこの手の直しは、接ぎをお客様が容認されなければ手を付けることは無いが、決して出来ないリニューアルではない。最初から諦めてしまえば何も生まれないが、トライすることで道は開かれる。最後に誂え終わった羽織の画像を、もう一度ご覧頂こう。
前回の付下げから道中着への直し、そして今回の道行コートから羽織への直し。おそらく多くの人が、「何もここまでして直さなくても良いのに」と思うかもしれません。けれども、品物に特別な思いがあるからこそ直すのであって、その思いは依頼する人にしか判りません。キモノにせよ帯にせよ羽織にせよ、和の装いで使う品物には、使う人の心が宿るような気がします。
品物を受け継ごうとする人に、どのように寄り添っていくのか。品物に対する思い入れを、お客様と共有することが、誂えを施す側の呉服屋にはどうしても必要になります。そうでなければ、良い知恵など浮かびませんから。
なお全く話は変わりますが、襦袢はポルトガル語の「gibao(ジバォン)」が語源になっており、それは「首から腰まで覆う胴衣」という意味を持つそうです。確かに襦袢を着ると、首から腰まで隠れますね。ポルトガル語、恐るべしです。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。