2019年、金融庁の金融審議会・ワーキンググループは、平均的な年金所得で暮らす夫婦二人の世帯では、老後30年で2000万円が不足するとの試算を公表した。これが「老後2000万円問題」として広く認知され、「年金だけでは暮らせない」という危機感が社会に広がる大きな契機となった。
その結果として多くの人は、年金頼みにせず、いかに資産を増やしていくかということに、関心が向かう。預貯金を潤沢に持っている人ならともかく、ほとんどの人の資金には限りがある。自分がどのくらい生きるか判らないものの、ある程度余裕がないことには、安心して老後を過ごすことも出来なくなる。これは何も特別な人ではなく、ごく普通に一所懸命働いてきた人の「なれの果て」なのである。日本の年金制度が、いかに脆弱な設定の上に立っていたのかを、如実に示している。
とは言え、一般庶民は「老後資金が足りない」と嘆いてばかりはいられない。そこで何とか、今あるお金を増やして将来への備えにしようと考えるが、いくばくかの貯金はあったにせよ、銀行へ預けて置くだけでは全く駄目。現在の都市銀行の預金金利は、せいぜい0.1%程度。100万円定期預金をしても、1年で千円しか増えない。これでは資産形成の足しになるはずもない。
そこで脚光を浴びたのが、投資である。元本割れをするリスクはあるが、上手くいけば銀行金利の数倍、いや数百倍の利益を手にすることが出来、その資金が老後の安心パスポートになる。政府は20年間、年40万円までの少額投資の利益を非課税とする制度・積み立てNISAを作り、長期間にわたる資産形成を推奨する。つまり若者は年金をもらう前から、老後の資金を自分で積み上げ、安心を得よという訳である。
また、すでに現役を引退して年金で暮らしている世帯にとっても、持っている資金・預金を投資で増やすことに苦心する。働いて賃金を得ることが出来ないとすれば、投資をするほかはない。では安心、そして確実にお金を増やせる道具は何だろうか。株式か、外国の債権か、はたまた金か。だが、それをどのように運用すれば良いのか、多くの人は判らない。そこで相談するのが、銀行や証券会社であり、そこには資金に合わせてバランスよく株式や債券を購入し、資産運用するファンドマネージャーの存在がある。
かくして現代は、「お金が無くても幸せです」ではなく、「所詮世の中、銭や」という声が渦巻く。本当に世知辛い世の中になったものである。もちろん、夫婦二人で営む小さな呉服屋には、利殖に回すようなお金がある訳はない。だから投資に関わる話など何も出来るはずもない。だが、金(かね)ではなく、金(きん)のことならお伝え出来ることがある。それは、キモノや帯の意匠の中で表現される華やかな金の色のことだ。
以前この稿では、帯に織り込まれる金糸について取り上げたことがあったが、今日はキモノの加飾方法としてあしらわれる「金加工」について、話をしてみたいと思う。金が意匠の中でどのような役割を果たし、装いにどんな華やかさを演出してきたのか。そのあしらいの歴史を遡ると同時に、どのような技法が用いられているのか、実際の品物を通して見ていくことにしよう。
金箔を惜しげ無く使った、華やかな南蛮模様の京友禅・黒留袖(北秀商事)
福岡県の志賀島で発見された金印・漢委奴国王印は、当時中国を支配していた後漢・光武帝が倭(日本)の小国・奴国の朝賀使に授けたとされている。時代は紀元57年というから、1世紀半ば頃の話である。大陸ではかなり古くから、金と言う鉱物は権力の象徴として使われてきたが、日本に製品や加工法がもたらされたのは、5~6世紀頃。これを裏付けるように、この時代の権力者の墳墓・古墳からは、副葬品として金の装飾品が多数出土している。
早くから金は、冠や首飾り、腕輪の素材として身にまとうことは出来たものの、衣服に付けるということは、かなり難しいことだった。こうした中で、輝きを染織品の中で表現する方法として試みられたのは、金箔を糸に巻き付けて織り込む方法と、箔を生地に接着させる方法であった。前者は、撚金(よりきん)糸や平金糸として帯に織り込まれ、後者は摺箔(すりはく)として、キモノの文様装飾に使われることになる。今日お話するのは、キモノ意匠の中で輝く金箔についてであるが、まずは、箔がキモノの模様技法として登場する経緯から見ていくことにしたい。
多彩な技法で金箔を加工した重厚な友禅振袖。この品物は、ブログの中でも度々ご紹介しているが、私の家内が結婚式に着用したもの。扱いは北秀商事で、製作したのは大定工芸だったと思われる。青海波文と波文の中にあしらわれた金箔により、確実に品物のステージが上がっている。その色の気配は、やみくもにピカピカと光るような品の無いものではなく、あくまで柔らかく麗しく仕上げてある。
「箔を付ける」とは、より重みを付けるとか価値を高めるという意味で使う慣用句だが、まさにキモノの加工に箔を施すことは、その品物により一層の豪華さを持たせることになる。特に金箔は、誰もが金という色に贅沢なイメージがあることから、否応なくフォーマル感を高める役割を果たす。そうした意味で箔の加工装飾は、第一礼装として着用する黒留袖、色留袖、振袖のあしらいとして使われることが多い。
染織における金加工は、室町期前後の日宋、日明貿易によって伝播した。この時もたらされたのが、平金糸や撚金糸を織り込んで模様を表現した織物・金襴(きんらん)と、金箔や金泥(きんでい・金箔を粉状にすり潰したもの)を布に張り付けて模様を表現した印金(いんきん)である。後に金襴は帯や能装束の絢爛たる織に姿を変え、印金は摺箔(すりはく)として、繍と共に戦国期から江戸期まで、長きに亘って加工装飾の中心を担うことになっていく。
金箔とは、金を打ち延ばして薄い紙状にしたものだが、それは熱を持つと膨張する性質を生かして製造されたもの。金は、一匁(約3.75g)で畳一枚以上に広がると言われるが、箔加工の際には、最初3cm四方だった金箔を、鉄の棒で打つことで10cm程度にまで拡大する。箔の業者は、これを四角形に切り取り、千枚単位で納入する。
すでに箔そのものは、奈良期の仏像や絵画装飾に用いられていたが、金襴や印金が伝来した室町期から急速に需要が高くなり、生産量も飛躍的に増えた。箔の生産は、元々は大阪・堺の箔屋町が中心であったが、1597(文禄4)年に豊臣秀吉が伏見城を築城した際、京都へ技術が伝わり、さらにそれは築城に参加していた加賀藩の手で、金沢へともたらされた。こうして現在もなお、京都と金沢には僅かながらも、金箔加工の技術を受け継ぐ職人が存在している。
遠山で区切られた切り込みに、春秋の花々があしらわれている優美な振袖。加飾技法は摺箔と刺繍と桶出し絞り。桃山から江戸初期にかけては、摺箔と刺繍を併用した小袖の加工装飾が「繍箔(ぬいはく)」で、絞り染に摺箔と描絵、色挿しを施した品物を「辻が花染」と区別した。この振袖を制作したのは、今は無き菱一。
上の振袖のように、キモノ全体を模様で埋め尽くし、切込みのように染分ける意匠は、桃山晩期の慶長の末年から、江戸初期の元和・寛永年間ににかけて流行した慶長小袖の特徴を継承している。この様式は、白や黒、あるいは朱色などを用いた二色、あるいは三色の染分け地に、摺箔で地文様を施し、絞りと刺繍を併用して模様を表現している。
画像で振袖の加工姿をよく見ると、模様の輪郭線・境界線にそって桶絞りが施され、その中には細かい図案で四季の花々を描いている。表現に使っている技法は、刺繍と摺箔、そして糸目友禅である。染分けによって直線と曲線が交差し、複雑で抽象的な区画構成がなされているところなど、慶長小袖の特徴を十分に意識して品物が制作されていることを理解出来る。なお慶長小袖の特色を今に伝える品物として、染分綸子地桜花松鶴模様小袖(カネボウ所蔵)や染分綸子地草花文様小袖などが挙げられる。
室町期、明から伝わった印金の技法を転用して始まった摺箔。この技法の基本は、まず型紙を生地の上に置いて文様の部分に糊を塗り、それが乾かないうちに箔をのせ、綿で軽く押さえて付着させる。これを乾かした後で余分な箔を取り除くと、箔の文様となって地の上に表れる。
紗綾型紋綸子の地に映し出された金色の小花は、摺箔によるあしらい。この施しは、朱色の地ばかりでなく、三色に染分けた他の色・水色と芥子色のところにも見られる。このように、キモノ全体が模様で埋め尽くされるように加工装飾されているため、慶長小袖は別名、地無し小袖とも呼ばれていた。
当初摺箔は、薄い接着剤の上に薄く表現され、生地の中に溶け込むような表現がなされていた。これは装飾の中心が刺繍であり、箔はその下地を飾る補足的な加工と考えられていたと捉えられる。しかし慶長期になって、生地に地紋のある綸子を用いるようになると、箔は次第に厚みを増して、図案として強調される加飾に変わっていく。それは、人の目を引き付けさせる輝きを示すようになったということだ。硬質の光沢は金箔の厚さを伺わせているが、当然のことながら、箔を貼り付ける接着剤も厚くなっている。
慶長小袖では、摺箔と併用して加工する刺繍に金糸を使うようになり、その使用量は時代が進んでいくうちに増えていく。そして江戸4代将軍・徳川家綱の寛文年間(1661~73年)になると、金装飾の主役は完全に金の摺箔から金の刺繍へと転じることになる。
箔には、時間が経過すると剝げ落ちてしまうという、加工性質上における避けられない欠点があり、その耐久性の乏しさが装飾技法として衰退した一つの原因と考えられる。そしてこの後、友禅染を始めとする多様な加飾技法が生まれたこと、また幕府から度々出された奢侈禁止令によって金加工そのものが制限されたことなどが重なり、箔による装飾は能衣装など一部の舞台衣装以外では、ほとんど見られなくなってしまった。
金色の箔と白い胡粉を模様あしらいの中心に置いた色留袖。意匠は、遠山ぼかしに波頭という極めてシンプルなもの。
金箔による加飾は、明治の中頃まではすっかり忘れられた存在となり、その姿を品物の上で見かけることが無かった。そんな折、日露戦争(1904・明治37年)の影響で仕事が途絶えてしまった糊置職人が、京都の悉皆屋から「むかし印金というものがあったのだから、慶長摺箔のように金を布につけてはどうか」との勧めを受けた。糊置屋とは、手描きされた模様の上に糊を置く、いわゆる糸目糊置きを担う職人である。
悉皆屋にしてみれば、印金・摺箔も金を接着剤で付ける仕事で、糊を使うという点で共通している。そんな意味で、糊置屋に箔加工をと考えたに違いない。するとこれが端緒となって、それまで全く廃れていた摺箔に光が当たっていく。この当時の友禅では、キモノの上に箔を置く技法は全くみられなかったので、この糊置屋が装飾見本を持って、京都室町の問屋筋を訪ねると、珍しがられて多くの注文をうけるようになった。そして、問屋が処理に困っていた染ムラのある難物は、箔置きで不具合の箇所が隠せるようになり、しかも金で華やかさが増すと言う「一石二鳥の施し」が評判を呼ぶようになる。そしてこの後、金箔の加工装飾は改良が加えられ、その結果幾つもの技法が生まれて、箔の模様姿は多彩になっていくことになる。
今日はキモノの模様の中に、燦然と輝きを映す金箔の隠れた技法とその歴史的経緯をご紹介してきた。次回の後編では、現代にあしらわれている箔がどんな姿で表現されているか、具体的に品物の箔模様をご覧頂きながら、説明していきたいと考えている。
フォーマルな品物の価値を高め、その華やかさを強調するためには、欠かすことのできない箔の装飾加工。ほんの小さく光る金の輝きにも、長い歴史と、それを担う職人たちのたゆまぬ技術の継承があることを、皆様にはぜひ知って頂きたいと思う。
かようにバイク呉服屋には、際立った財産と言うものがなく、娘たちに遺す資産などほとんどありません。私の場合、積み立てNISAではなく、積み立てる金そのものが無い・積み立てNESA(ねぇさ、無いさ)状態なのです。
呉服屋になって以来、ずっと下降線を辿り続けているこの業界ですので、これまで潤沢にお金があったことなどなく、いつもギリギリで凌いでいるようなものです。そんな訳で申し訳ないと思いつつ、三人の娘たちが大学に進学する際には、揃って奨学金を背負わせてしまいました。みんな無事に返済が終わったので、ホッとしておりますが、これでは親の責任を十分に果たしたとは言えませんね。
けれどもそんな中で、家族5人がそれぞれ自分らしく今の時代を生きていることは、本当に有難く幸せなことです。これはお金のあるなしには、関係ありませんから。また私には、中高時代と大学時代それぞれに知り合った数人の友人がいて、約半世紀にわたり、忌憚のない付き合いがあります。特に貧しかったバックパッカー時代の親友とは、今なお数年に一度北海道の安宿で会い、互いの歩き旅の成果や昔話に花を咲かせています。頻繁に会うこと無く、互いの詳しい近況も知らない。でも会って話せばすぐ昔に戻れる友人の存在は、かけがえのないもので、決してお金では買えない人生の財産です。
そしてこれから最も大切になるのは、時間。まさに「時は、金なり」なのです。元気で過ごせる時間が、後どのくらい残されているのか、神のみぞ知るところ。ですので、日々の何気ない生活が送れることに感謝しつつ、時間を大切にする。もちろん呉服屋の仕事は、出来るだけ続けたいと思います。これからは、関りを頂いたお客様との縁が、何よりの糧になるはず。最後まで悔いなく、この仕事をまっとうしたいですね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。