全国各地には、一体どれほどのダムが建設されているかご存じだろうか。日本ダム協会のダム便覧によれば、竣工済のダムだけで2698基。そして現在計画中と着工中のダムも、65を数える。ダムは大まかに、治水等多目的ダムと利水ダムに分けられるが、治水は言うまでもなく、川の水量を調節して氾濫を防ぐ役割であり、利水は、川の水量と高低差を利用する発電と、田畑に必要な水を供給する灌漑を主目的にしている。
山間に建設されることが多いダムだが、着工に当たって広大な用地を必要とすることから、その川の流域に住んでいる住民たちには、どうしても立ち退きを求めることになる。流域の生活を守るというダムの公共性は理解していても、父祖伝来の土地を手放すということには、なかなか納得し難い。これは、希望して出ていくのではなく、無理に追い立てられるに等しいからだ。
そのためダムの計画が持ち上がると、推進派と反対派に分かれて、地域を二分する対立が生まれたり、代替地や補償をどうするかといった問題に、なかなか結論が出ないことも多い。例えば、神奈川県愛川町の宮ケ瀬ダムは、住民300戸・1200人が移転するための交渉が難航し、計画から竣工までに20年以上を要している。また岐阜県揖斐川上流にあった徳山村は、ダム建設により村の可住地域全てが水没することになり、後に全村民が移転して廃村となった。
ダムによって消える集落は、すべてが水の中にそのまま置かれる。だからその姿は、水を湛えた日常の湖面からは全く見えない。けれども、日照りが続いて渇水した時や、灌漑のために水を放出した時には湖底が露出して、古の集落の姿が現れることがある。四国の水がめと言われる高知県の早明浦(さめうら)ダム湖では、水が枯れると旧大川村役場の建物が水底から現れる。またブログで以前紹介した北海道の糠平ダム湖では、冬になると、湖底に沈んでいた旧士幌線のタウシュベツ橋梁が姿を現す。
忘れ去られた過去を思い起こすように、姿を現す集落の建物や痕跡。その風景は、かつて暮らしていた人々に懐かしい記憶を蘇らせる。それはおそらく、遠い幻を見ているような、不思議な感覚なのだろう。毎年暮れに稿を起こす、知られざる北海道の旅の話。今回は、ダムの底に沈んだ山深い小さな集落を訪ねた記録を、記してみたい。例によってこのカテゴリーは、本業とは全く関係なく、キモノの話を求める読者の方にはいつも申し訳ないと思うが、これは私のライフワークでもあるので、何卒お許し頂きたい。
(温根別ダム湖に沈んだ、旧伊文集落跡)
(旧伊文地区生産組合・飼料倉庫)
北海道に設置されているダム数は185基で、全国の自治体の中で最も多い。広さを考えれば当然かも知れないが、日高や大雪、天塩など連なる山地と、そこに端を発する札内川や十勝川、天塩川などの長大な河川が数多くあり、ダム建設の要件である深い峡谷や硬い岩盤を持つ場所が選定しやすい。ダムの目的は様々だが、特に目立つのが農業用の利水ダムで、全体の4割を占める。広大な農耕地が多く、またかなり奥地まで開拓が進んでいたので、営農のための灌漑施設の整備は、どうしても必要であった。
今回の訪ね先・温根別ダムも、農業水利支援のための灌漑を目的として、1972(昭和47)年に着工し、1985(昭和60)年に竣工した。この場所は、道北の士別市西部・温根別町を流れる犬牛別川の上流域で、ここにはかつて「伊文(いぶん)」という集落が存在していた。そして、ダムに沈んだ山深いこの小さな集落は、毎年灌漑が終わって湖の水が抜かれる秋になると、決まって懐かしい姿を現す。
そこには、周囲を山に囲まれた峡谷沿いの狭い土地で、肩を寄せ合うようにして暮らしていた生活の名残がある。中でも印象的なのは、唯一残っている建物の飼料倉庫と、集落を貫いていた道、そしてそこに架けられていた小橋。この秋、そんな集落の記憶を辿りながら、湖底を歩いてきた。それではこれから、美しくも悲しき水底の村・伊文へと、皆様をご案内することにしよう。
(鉄道弘済会発行 1972年4月 道内時刻表路線図より)
まずは伊文集落の位置から、話を始めることにする。上の地図は、今から半世紀以上前の時刻表に記載されていた北海道鉄道路線図だが、旭川から稚内に伸びる宗谷本線の沿線に、士別市がある。旭川から55キロほど北にある町で、名寄盆地の南端に位置している。急行に乗れば、旭川から1時間足らずで着く。
当時の宗谷本線の時刻表。全長250キロにも及ぶ最北の長大路線には、この時代沢山の列車が走っていた。急行利尻は、札幌発稚内行の夜行列車。急行天北は、音威子府から分岐していた天北線を経由して稚内へ向かう列車。そして旭川11時発の321普通列車には、蒸気機関車のマークが付いている。昭和50年に全廃されるSLが、まだ北の大地で活躍していた。現在では利用客の減少から、存廃が取り沙汰されている宗谷線。そのことを聞くにつれ、昔を知る者は一抹の寂しさを覚える。
士別市は、東の岩尾内地区が北見山地に、西の温根別地区が天塩山地に隣接している。伊文地区は、この温根別地区の一番奥にあり、隣接する和寒町や剣淵町、幌加内町との境界に位置していた。昭和47年当時は、士別から温根別地区にバスの便(士別軌道バス)があり、その路線は伊文集落にまで伸びていた。最初の鉄道路線図の中にも伊文の名前が見えるように、時刻表には、温根別を経由する士別始発伊文行のバス便が、朝夕二往復あったことが掲載されている。
当時の伊文集落までのバスの経路は、士別市街から国道239号を通って温根別の市街へ至り、そこから道道251号に入ってまっすぐに南に走り、集落へと向かっていた。時刻表によれば、士別から温根別まで25分、そこから伊文まではさらに25分を要していた。士別ー伊文間の距離は20キロ余りなので、現在は車で30分も走れば着く距離だが、この当時1時間近くかかったことを考えると、この辺りの道路があまり整備されていなかったと想像がつく。なお現在でも、同じ士別軌道バスによって、士別-温根別間に定期バスが走っている。
伊文集落の地理的位置と、ダム建設が始まる半世紀前の交通事情を把握して頂いたところで、これから水底の集落跡へと、出発することにしよう。いつも前置きが長くなってしまって申し訳ないが、私が歩く場所は、一般の方が地名だけを聞いても全く不明なところばかりなので、事前にある程度その土地の情報を書いておかないと、内容はほとんど理解されないように思われる。ただこの旅話の稿は、普段の呉服関連の稿とは異なる読者が一定数おられるようで、その方々により楽しく読んで頂けるように、少しマニアックな話題も一緒に提供させて頂いている。
今回の出発点は、道道251号の和寒町側入り口・西和(せいわ)地区。青看板の標識には、温根別まで23㎞の文字が見える。この道は、昔バス路線が走った士別側ではなく、反対の和寒町側から伊文へと向かう道。犬牛別峠という小さな峠を越える道だが、途中からダートとなり、車がすれ違えないほど道幅が狭い。そして画像左側の黄色看板には、通行止め予告の表示が出ている。開始日は10月25日、この日は10月20日なので、ギリギリ間に合ったことになる。豪雪地帯でもあり、ひとたび雪が降れば簡単に通行は不能になる。だからいっそのこと、雪が降る前に道を塞いでしまえという訳だ。ただ士別側の道は開いているので、冬でも温根別ダムサイトまで車で通行出来る。
和寒(わっさむ)町側から温根別ダムへ向かうルート。和寒は士別より15Kほど南に位置しているが、まず道道48号で町の西はずれにある西和地区へ向かう。ここから犬牛別峠を経由する道道251号が分岐している。その道道起点が、上の画像の場所。
実はこの伊文集落を訪ねるのは、一昨年・昨年に続いて三回目になる。時期はいつも10月下旬で、アクセスする道道が通行止めになる直前。この季節には必ず湖の水が抜かれているので、集落跡を辿ることが可能になっている。最初の年は、途中までダム底の道を車で進んだものの、途中でぬかるみにはまってスタッグしかかり、這々の体で引き返した。結局は湖の周囲を走る道道の上から、集落を俯瞰した画像を写すだけに止まり、不完全燃焼の結果となった。
集落の遺構までは、入り口からかなり距離があり、歩くとなればそれなりの覚悟が必要である。夏までは水が満ちているダムの底なので、当然ぬかるみだらけで、普通の車では無理である。だが何としても行ってみたいと思い、昨年は万全の準備をして臨んだが、訪ねた日が土砂降りの雨だったので、やむなく断念した。
道道251号が通る、和寒町西和集落付近の地図(国土地理院2.5万分の一)
ということで、今年は三度目の挑戦になる。しかし誰もいない湖底の道を一人行くと言うのは、いくら辺地を歩き慣れている私でも不安である。どうなることやらと思っていたところ、思いがけず、同行を求める方が出発直前になって現れた。この方は、私の旅ブログの熱心な読者で、札幌在住の男性。旅の稿を書く度に感想を下さり、また道内に住む方ならではの情報をいつも提供して頂いている。そしてそもそもこの方は、私と同様に、地図を持って一人で歩く旅を実践されており、しかも若い頃はバイクで道内の辺地を駆けまわる旅人でもあったのだ。
この札幌のツーリスト・Mさんは、これまでに二度、この伊文集落を歩いていると言う。そしてぬかるんだ道も苦にしない、強力な車を用意して頂けるらしい。ぜひご一緒にというお話は、私にとって本当に有難く、一にも二にもなく、同行して頂くことにする。私もレンタカーを借りているので、当日の午前中に、出発点になる道道251号の入り口で待ち合わせる。もちろん初対面だが、これは本当に心強い援軍の登場である。それでは、Mさんと二人で歩いた伊文集落の姿を、これからご覧頂くことにしよう。
和寒から走ってきた道道48号を右折し、旧伊文集落が沈む温根別ダムへの道・道道251号に入る。このまま直進すると、そばで名高い幌加内町の中心市街に行き着く。道道48号は、古くから和寒と幌加内を結んでいた馬車道の跡で、西和地区には、官営のペオッペ駅逓所が設置されていた。駅逓所(えきていしょ)というのは、道を通る者に馬を貸したり、宿を提供する場所で、開拓時代の北海道には欠かせない施設であった。
道道251号も、最初の2キロくらいはきちんと舗装されており、車二台が並行して走れる道幅も確保されている。左側には、道の境界を示すレールも取り付けられているので、走行することに何の問題もない。けれども北海道の道道の場合、最初は良くても途中から極端に状態が悪くなって、林道化していることがよくある。
この道もやはりそんな道道の一つで、やがては上の画像の様にダート道となり、車の行き違いが難しいほど狭くなってしまった。この森の中の一本道は次第に高度を上げて、犬牛別峠へと向かっていく。周りの木々はすっかり色づき、晩秋の気配を漂わせている。なるほどこの道の状態では、冬季閉鎖になっても仕方あるまい。道の狭さは温根別のダムサイトまで、ずっと続く。
峠の分水嶺を越えて2キロほど下ると、僅かな区間だけ舗装された広い道になる。道の両側には開けた土地が広がり、以前ここに耕地があったことが判る。道の左手には細い犬牛別川が流れ、右側には剣淵町へと続く細道が見えている。おそらくこの辺りが旧伊文集落の南端で、唯一ダム湖に沈まなかった場所かと思われる。
上の舗装道の途切れたところに、旧集落への道の分岐がある。何の目印も無いので、注意していないと通り過ぎてしまう。さあここからが、いよいよ本番。私の車は道横の僅かなスペースのところに置いて、Mさんのダットサントラックに同乗させて頂く。本来ならここから歩かなければならなかったので、本当に有難い。
ここが水底への入り口。轍がついた細道が先に続いている。道の両側には、人の背丈ほどのびた葦原が広がっている。一昨年に来た時より、周囲が鬱蒼としているように思える。ここから一人で歩くのであれば、やはり不安が付きまとう。ご覧の通り見通しが利かず、いつヒグマと鉢合わせするかも判らない。もとより、こんなところで何かあっても、誰も助けてはくれない。
背の高い葦に覆われた道を数百メートル進むと、周囲は開けて、草原が広がって来る。進んでいる道は、旧伊文集落の中を通っていた道であり、この傍らに家が建っており、平地になっているところが耕作地だったと思われる。最初は狭かった道は少し広くなっており、通ることに支障は無いが、少しずつぬかるんできている。
Mさんによれば、上の画像の右側で朽ちた木が二本立っている辺りに、旧伊文小学校があったそうだ。伊文小の前身、犬牛別簡易教習所が開かれたのは、1911(明治44)年のこと。この2年前、岐阜からの団体11戸が初めてこの地に入植した。今から100年以上前に、こんな人跡未踏の地に鍬を入れた人々が存在したこと自体、驚きである。
伊文小学校は、戦後の1947(昭和22)年に中学校を併設。この場所(旧地番では、犬牛別8線西3番地)に校舎が建設されたのは、1951(昭和26)年であった。当時の僻地等級は2級なので、それほど辺地とは認められていない。ダム建設に伴い、1974(昭和49)年9月末をもって閉校になった。最後の在校生は、小学生8名・中学生5名の13名であった。現在士別市のHPの中に、「ふるさと士別・小学校の歩み」というページがあり、そこにありし日の伊文小学校の校舎写真が掲載されている。4本の煙突がある平屋建ての木造校舎で、横に体育館の姿も見えている。多い時には、60名以上の小中学生が通った学び舎であった。
学校跡を過ぎてまもなく、道は湿地に入り、車はハンドルを右へ左へと取られて蛇行する。Mさんのトラックはギア車なので、めまぐるしくシフトチェンジを繰り返しながら、慎重に進んでいく。私が一昨年スタッグしかかって難渋したのは、学校のすぐ先。そもそも、普通車で入れる場所ではなく、無謀な行いだった。もしあの時脱出できなかったら、どうしていただろう。無茶もほどほどにしないと、本当に痛い目に会う。
さて、集落跡を探る目的地の一つが、唯一の建設遺構ともいえる飼料倉庫。上の画像は、一昨年集落を見下ろす場所にあった伊文・大国神社跡から、ダム下を撮ったもの。ここに写っている窓の開いたコンクリート製の建物が、農業組合法人・伊文生産組合が管理していた飼料倉庫(サイロ)である。今回、何とかこの倉庫の全容を傍で眺めてみたいと考えていた。
四駆トラックの威力は凄く、悪路をものともせずに、飼料倉庫に近づいていく。途中で狭い川を渡り、水たまりの中に入ったりもするが、タイヤが嵌るようなことは無い。学校跡からは微かに見えていた建物が、徐々に近づいてくる。
そしてようやく、倉庫の脇まで辿り着く。画像の右端に小さく写っているのが、私をここまで連れて来てくれたMさんのトラック。車を止めた道と建物の間の草むらは湿地になっており、ズブズブと足を取られながら、倉庫に近づいていく。
間近で見ると、やはりかなり大きな構造物であることを実感する。正方形の窓が、縦横4つずつ開けられている。建物の下三分の一くらいが、灰色に変色しているので、この辺りまで水に浸かっていたと考えられる。
窓の横には、錆びた梯子のようなものが付いている。中は空洞になっていて、当然ながら底には水が溜まっている。この倉庫は、1964(昭和39)年頃に建てられたもので、すでに60年が経過している。水没したり浮き上がったりしながら、なおもそこに立ち続けているその姿は、伊文という集落がこの地にあったことを、記憶させるに十分な遺構となっている。
農業組合法人は、地域の農民が組合員となり、共同で作業することにより、利益を増進させることを目的としている。伊文の生産組合も、この主旨に沿って設立されたものであり、この飼料サイロも牧草を一括管理するために建てられたと推測される。
開いた窓をじっと見ていると、何だか要塞の様にも見えてくる。ダム底から青い空に向かって、屹立する伊文飼料倉庫。それは110年前の入植以来、懸命に耕作や牧畜に従事していた伊文の人々の姿を、彷彿とさせてくれる。そこには、近くで見なければ感じ得ない、集落の息遣いがまだ残っていた。
さて道はまだ先に続いているので、さらにダム湖の奥深くに入ってみることにする。画像では、先ほどまで眺めていた飼料倉庫の姿が遠くに見えている。道の両側は平地になっているので、この辺りにも居住者がいて、畑地があったと想像できる。
道は草地の中を進み、コンクリート製の小橋を渡る。この橋の下を流れていたのが犬牛別川である。この川に沿って集落があった伊文の名前は、アイヌ語のイヌウシュベツ、あるいはイヌヌンぺッ(魚取りが滞在する、あるいは、漁をする人の仮小屋がある場所という意味)に由来している。
この川の下流域にあった温根別地区には、伊文より一足早い1899(明治32)年に入植者が入った。温根別の土地は肥沃で農耕に適していたものの、開墾が進むにつれて、灌漑用水の不足に悩まされ、それは戦後までずっと続くことになる。1954(昭和29)年に士別市に合併されるまで、温根別は村として独立していたが、その当時から畑地灌漑を含む農業用水の確保が、喫緊の課題であった。
犬牛別川の上流域に利水ダムを建設したことで、灌漑の不安がなくなったことから、温根別地区では土地の基盤整備が進んで、安定的な農業経営の確立を図れるようになった。つまりこれは、上流域の伊文住民が自分の土地をなげうって、下流域にある温根別住民の生活を守ったことになる。ダムの建設には必ず、こうした地域住民の犠牲的な事象が付きまとっている。
湖上の道から湖底を俯瞰して見ると、こんな感じになっている。道はまだ奥深くへと続き、川の流れは枝分かれしながら、下流へ伸びている。この流れの最上部に、温根別ダムの提体がある。二年前の画像の中で、川に架かる橋を良く見ると、途中で切れているようにも見えるが、実際にはどうなっているのだろうか。
遠くからでは道が無くなっているように見えていた橋のたもとは、土嚢と土砂が盛られて、通行出来るようになっていた。まさか我々のような湖底探索者のための施しではないだろうが、おそらくダム管理のために必要な橋と認識されているのだろう。
橋の土台そのものが脆くなっているので、トラックは、そろりと慎重に渡っていく。
車から降りて、錆びついたガードレール越しに、川を眺めてみる。遠くに見える橋は、湖の上を走る道道251号に架けられたもの。
これが、上の画像に写っていた伊文大橋。旧集落名・伊文の名前がここにも残される。
午後になり、陽が陰って湖の底は暗くなってきた。伊文大橋が架かるあたりにだけ、光が射している。入り口からかなり進んできたが、おそらくこの辺りまで3K以上はあるだろう。歩けば、一時間くらいは十分掛かる。もう少し道が続いてるので、さらに先へ行く。
旧集落の中を蛇行して流れている犬牛別川には、何本も橋が架かっているが、山側に大きくカーブするこの地点で、橋の一部が崩落している。従って車が入れるのも、ここまでとなる。
最後の橋の周囲は、草地が大きく広がっていて、所々に水たまりが残されている。この辺りは、完全に水没する場所なのだろう。先ほどまで遠くに見えていた伊文大橋が、すぐ目の前に姿を見せる。水底から見上げると、かなり大きく見える。この橋の上からは、旧伊文集落の全容を確認することが出来る。
この橋のあたりには、集落跡の名残を思わせる古い瓶や器の欠片が見られる。開拓当初の入植者は19名で、解散時の在住者は31名。これは、60年を超える伊文の歴史の中で、来る者と去る者が時代の中で交錯した結果の数であった。集落では、ダム建設の話が持ち上がると、対策委員会を設けて、納得できる補償や転出代替地の問題に取り組んだ。そして水没することが決まると、速やかに集落解散と学校閉校の期成会が結成されたことから、転出を滞りなく終えることが出来たのである。
ということで、ここが今回の旧伊文集落探索の最終地点になった。小石が散らばり、まだ湿り気の残る土が堆積している。見渡すと、耕作地と思われる平地が、かなり奥まで続いている。これだけの土地を開くことに、どれだけの努力があったのだろうか。この風景の中に身を置いていると、そんな伊文の人々の「声なき声」が聞こえてくるような気がする。
温根別ダム湖・旧伊文集落の地形図(国土地理院発行 三和・幌加内・剣淵より)
ロックフィル式温根別ダム 堤高33.7m 堤長178m 総貯水量931万2千㎡
探索を終えて、Mさんは落ちた橋のたもとで、ゆっくりと煙草をくゆらしている。その姿が何とも絵になり、煙草が本当に美味しそうに見える。5年前に煙草を止めた私も、この時ばかりはたまらなく吸いたくなった。Mさんは、地図歩きの第一人者・堀淳一氏(物理学者 北海道大学名誉教授で、地図に関わるエッセイを数多く書き残した)が主幸していたコンターサークル・地図研究会に所属しており、地形図を片手に、十勝海岸の湖沼群・ホロカヤントーから、生花苗沼、湧洞沼、長節湖を歩き通したり、根室初田牛のガッカラ浜から落石岬までの海岸を二日かけて往復してみたりと、それこそ「筋がね入り」の北海道を歩く旅人である。
私のブログに辿り着いたのは、私の旅先が、完全に彼の趣向と合致していたことによるものだ。廃墟を探索する人たちは、結構多いようだが、その土地の歴史や生活背景を知らずして、そして歩かずして遺構の声を聞くことは出来ないと、私は思う。趣向を同じくし、また旅のスタイルに共感できるMさんのような方に同行して頂けたことで、今回の伊文集落跡の探索は、記憶に残るものとなった。この場を借りて、彼にお礼を述べたい。最後に、飼料倉庫を遠望する道から写した画像をお目にかけながら、長い話を終えることにしたい。
人々が残した生活遺構や、道路や鉄路などのインフラ遺構を辿る時には、どうして人々は消えてしまったのか、その「喪失の背景」を探る必要があります。例えばそれは、今回の伊文集落なら、ダムの必要性であり、前回の尺別炭鉱アパートならば、石炭にまつわる国のエネルギー政策の是非であり、以前歩いた日高横断道路であれば、インフラ整備に名を借りた税金の使い方のありようかと思います。
廃墟や廃校、廃線や廃道の裏には、社会の歪が隠されている。それを認識しないことには、こうした場所を探索をしたところで、何も心に響いてはきません。自然に還りつつある土地の中で、ほんの僅かだけ過去の残像を残す。それこそが「無常といふこと」ではないでしょうか。今回も長々しい旅の稿にお付き合い頂き、ありがとうございます。次稿からはまた、呉服屋の主人に戻って話を致します。
(旧伊文集落 温根別ダムへの行き方)
宗谷本線・士別駅から温根別南12線行バス(士別軌道バス) 一日5往復 40分 終点から約3.5㎞で、温根別ダム提体 徒歩1時間 さらに旧集落入り口までは、約4㎞ 徒歩1.5時間 そして入り口から飼料倉庫・橋までは、約3㎞ 徒歩1時間
車であれば、旧集落入り口まで 士別から約40分 和寒から約50分 旭川から約1時間40分
ダム底の集落に向かう道は、細くてぬかるんでいるので、普通車での通行は大変危険。また徒歩での探索も、一人は避けた方が良いでしょう。というより、一般の方はここに立ち入ることは考えずに、ダム上の道路から集落跡を眺めるだけにした方が良いです。ダム湖が枯れて伊文集落が現れるのは8月頃からですが、ダム上の道道251号は10月末には閉鎖になるので、注意してください。繰り返しになりますが、ダム湖底を歩くのであれば、細心の注意を払い、自己責任でお願いします。