バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

11月のコーディネート  素朴な草木紬と紙布帯で、晩秋を歩く

2024.11 24

縞が文様の中で、単純にして最も多彩な図案であることは間違いない。そして、この直線で構成される幾何学文様は、経糸と緯糸とが交差する織物に図案の基がある。つまり織の手法そのものが、縞という柄と大きく関わっていることになる。

縞は二種類以上の色糸を使って表現されるが、経糸の配列や緯糸の通し方でも姿は変わる。経縞と緯縞、そしてその両方を組み合わせたものが経緯縞、いわゆる格子模様になる。従来縞は、筋という名前で呼ばれていたが、室町期に明から伝わった織物・名物裂の中に数多くの経縞柄が見られ、それが間道(かんとう)と称されていた。その後桃山期になると、南蛮貿易によって南方の島々から数多くの綿織物がもたらされ、これを「島渡りの布」と呼んだ。やがてこれが「島物」となり、江戸期に入ってから、島に代わって縞という字が当てられるようになったのである。

 

この時代に南方からもたらされた縞物は、ほとんど木綿であったが、この頃から日本でも急速に綿花栽培が広まったことから、各地で綿織物を織られるようになる。糸染には藍を始めとした天然染料が用いられ、伊勢や阿波、上総や河内などが主な産地であった。そして江戸中期になると、綿織物を奨励する藩も増え、財政の一翼を担った。こうして縞木綿は、庶民には欠かせない日常着の中心となり、農村では明治から大正の頃になっても、普段着として使われていた。

綿織物が広く普及する一方で、高級な絹を使った縞の織物も生産されるようになる。その代表的な縞物が、黄八丈だった。八丈島に自生する苅安の液で糸染めし、それを椿と榊の灰汁で媒染すると、鮮やかな黄金色になる。この黄色と黒と茶を組み合わせて、縞や格子柄を織り出した。また、下野(栃木)の結城縞や信州の上田縞などの紬や、縞を用いた袴地・仙台平が製織され始めたのも、この時代であった。

11月も終わりに近づき、ようやく秋の気配が漂うようになり、街路樹の葉も色付き始めた。そこで今回のコーディネートでは、織物を礎とする縞格子を使った素朴な紬を使い、晩秋に相応しい街着を考えてみたい。キーワードとなる色は、やはり紅葉の色・赤になるだろうか。

 

(右:紺地 小格子・伊那草木手織紬 左:紅葉色地 変わり格子・米沢紙布帯)

バイク呉服屋が店を構える山梨県は、明治期以降は養蚕が盛んで、甲府市内にもあちこちに製糸工場があった。製糸生産量は全国でもトップクラスだったが、戦後になって果物の消費量が増えていくにつれて、桑畑は次々と桃やブドウ畑に変わっていった。養蚕から果樹へと大きく舵を切ったことで、葡萄や桃・スモモの作付面積や生産量は日本一となり、現在の果樹王国が出来上がったのである。

現在、国内で流通している絹製品のうち、国産繭から生産された生糸を使っているものは、僅か1%に過ぎず、原料のほとんどは海外からの輸入に頼っている。そんな中にあって、全国の繭生産の3割・生糸生産の6割を担っているのは、群馬県。さすがは、世界遺産・富岡製糸場のお膝元である。他の生産県は、栃木・福島・埼玉の3県くらいだが、その量はさほど多くない。だが戦前から昭和30年代まで、生糸生産のトップを走っていたのは、長野県であった。

 

長野県の転機は、1929(昭和4)年に起こった世界大恐慌である。この時生糸の価格が大暴落し、県内の多くの製糸場は倒産・廃業に追い込まれた。無論養蚕農家も、繭価格の暴落によって生活は困窮し、多くの農民は塗炭の苦しみを味わうことになる。そこで県は、何とかこの苦境を救おうと考え、満州への移民を積極的に進める。その結果3万3千人もの人々が、満蒙の地を新天地として、海を渡ったのである。けれども、ソ連による満州侵攻による混乱に巻き込まれ、帰国できたのは半数以下の1万6千人あまり。長野県は戦前の移民政策で、最も大きな犠牲を払った県であった。

戦後、長野県は主産業を精密機械業と定め、積極的に企業を誘致する。そして最も製糸業が盛んだった諏訪では、1959(昭和34)年に時計のトップメーカー・服部セイコーが工場を稼働させたのを始め、機器メーカーが次々に進出し、「東洋のスイス」と呼ばれるようになった。蚕糸業からの業態転換が、見事に実を結んだのである。

 

養蚕農家が多かった信州では、各々の家庭で出荷出来ない屑繭を手で紡ぎ、機にかけて反物を織るという、いわゆる「内織(うちおり)」が盛んに行われていた。しかしながら、商品として全国的に認知されるような織物は少なく、僅かに上田紬が見られる程度。江戸時代には7万反を越える製織数があり、結城や大島と並んで、日本の三大紬の一つと称されていた上田紬も、戦後は衰退して市場に出回る品物も限られていた。

だが1950年代から、伊那地方の駒ケ根や飯田、そして安曇野の穂高などで、少量ながら品質の良い特徴的な紬が織られるようになる。それが伊那紬や飯田紬、山繭紬である。これに従来の上田紬を加えて、信州紬として伝統的工芸品に指定されたのは、1975(昭和50)年のことだった。いずれの生産量も少なく、現在では希少品になっている信州の紬は各々に特徴を持つが、どれも素朴な手織りの風合いを持つ佳品である。今日はこの中から、伊那紬を使って、秋らしいコーディネートをしてみよう。

 

(紺地小格子模様 草木糸染 手織伊那紬・久保田織染工業 広田紬扱い)

上田紬は上田縞と呼ばれていたように、創成期の江戸文化・文政年間からその柄は、縞と格子であった。そして糸染は草木で手機による製織。これは、伊那谷筋で生産されている伊那紬と飯田紬にも共通している。なお山繭紬は、安曇野・穂高地方で僅かに生育されている天蚕繭から糸を紡ぎ、製織されている希少な紬である。

信州紬における伝統的工芸品の告示(要件)では、経糸には生糸や山繭糸、玉糸、真綿糸を、緯糸には玉糸か真綿の手紡糸を用いるよう定めている。伊那紬の場合は、生糸にせよ玉糸にせよ、撚り合わせる糸は全て国産糸を使い、時には天蚕糸も用いる。天蚕は希少なだけに糸価格も高く、一反50万円にもなる。それだけに天蚕糸100%の紬は生産され難く、伊那紬のように一部にだけ織入れて、天蚕独特の光沢を品物の表情に組み入れることが多い。

この紬は、経糸に生糸を使い、緯糸には手紡真綿糸を使っている。真綿から糸を紡ぐ時に、フライヤー式手紡機(回転率を上下することにより、撚りに強弱が付けられる紡績機)を使うことで、比較的撚りのかからない糸に仕上げている。糸の太さや撚りの強弱により、織り上げた時の風合いが異なるのは、手紡糸でしか演出できない織物の個性と言えるだろう。

そして信州紬の告示には、製織方法は手投げ杼を使うことが明記されている。なので当然ながら伊那紬は、すべての品物を高機を使って手で織りあげている。ご存じかと思うが、高機を使う製織は、まず踏木を踏んで緯糸を開いたら、片手で杼を投げて反対側へ通す。その時もう一方の手で杼を受け止め、再び踏木を踏んで緯糸を閉じ、同時に筬で打ち込む。この作業を繰り返すことで紬が織り上がるが、織り手の力の入れ方次第で、品物の風合いに違いが出てくる。そのため織職人には、熟練した技術が求められる。

糸質や織技法と並んで、草木による糸染が信州紬の大きな特徴。ご承知の通り、長野県は山に囲まれた土地柄であることから、染原料として使える草木が至る所に自生しており、その地の利を生かして、古くから草木染が盛んに行われてきた。原料となる植物は、胡桃、山桜、カラマツ、白樺、ヨモギ、リンゴなど。この紬も、リンゴとイチイを使って糸染したことが表記されている。

草木から抽出された染液は、素朴で深みのある色合いをもたらすが、液の濃淡や使う媒染剤によって、かなり色の表情が違ってくる。そのバリエーションは無限と言っても良く、染める人の判断がカギになる。ここでも人の手が、品物の出来やその織姿を左右している。

この紬の色を推測すると、縦の筋に見られる薄い黄色は、おそらくリンゴだろう。リンゴの樹皮を煮出して作った染液に鉄の媒染剤を使うと、こうした黄色や橙系の色が求められる。一方でイチイは、横筋の赤か。イチイは主に寒冷地の山奥に自生し、古くから染材料になっているが、抽出液に銅の媒染剤を使うと、赤茶色に発色する。そしてメインの色・青系の濃淡は、おそらく藍を使ったと思われる。

図案は、縦横に均等な白い筋があり、その間にリンゴ染糸の黄色とイチイ染糸の赤茶の細い筋が入っている。地は藍による紺色。太い筋と細い筋が重なり合うことで、全体が小さな格子の連続模様となる。藍と白の縞がメインだが、赤と黄色の細縞が入ることで、少しだけ温かみを感じる。これが、寒々しくなりがちな色の気配を和らげ、秋らしい雰囲気を醸し出すことに繋がっている。

信州紬の証紙と共に、伝統的工芸品であることの証・伝産マークが貼られている。今や伊那紬の機屋は、この紬を織った久保田織染工業だけになった。さてそれでは、真綿糸の柔らかな風合いと、草木染の素朴な色合いが織の表情に表れる紬を、秋らしい姿に演出するには、どのような帯を合わせたらよいのか。考えることにしよう。

 

(紅葉色 変わり格子模様 紙布八寸名古屋帯・米沢 スワセンイ)

紅葉を思わせる赤い地の名古屋帯。こちらも模様は格子だが、縦の縞が太く横の縞は細い上に、縞そのものが少しよろけていることから、伊那紬格子のような均一感は無い。最近では、そもそも赤系地色の帯は珍しいが、赤い帯は意外にどんな地色のキモノに合わせても、インパクトのある着姿が演出出来る。この帯の赤には、少しだけくすみがあり、それが深まる秋の紅葉の色をリアルに感じさせてくれる。

この帯では、経糸に絹糸を使い、緯糸では和紙を細かく裁断して撚り上げた紙糸が使われている。このように、絹と紙を併用して織り上げた生地のことを「紙布(しふ)」と呼ぶ。紙を糸の代用として使うことは、すでに江戸時代の初めから行われていた。使われたのは楮(こうぞ)や雁皮(がんぴ)などで、古くからその繊維は紙の原料になっていたものばかり。紙糸を使って織ったものは、軽くて肌触りが良く、風も良く通すことから、夏の式服や裃、袴などによく用いられていた。と言うことで、もちろんこの帯もかなり軽い。なお経緯共に紙糸を使った織生地は、別に「諸紙布(もろしふ)」と名前が付けられている。

お太鼓の形にすると、横縞に付いている黒が目立つ。四本の太い縦縞は、ピンクと紫の縞五本で構成されており、これもある種複合型の格子図案と見ることが出来よう。規則性はあるもの、紬の格子とはかなり趣が違う。それでは、この格子紬と格子帯を合わせるとどうなるのか、試してみよう。

 

格子重なりのコーディネートだが、図案の形式が違うことと、帯の方に色も模様もインパクトがあることから、違和感はほとんどない。やはり赤い帯の威力は強烈で、しっかりと着姿をまとめている。そして紅葉を思わせる赤が、旬の表現に一役買っているのは確かであろう。

前姿とお太鼓とでは、全く違う表情になる帯の格子。幾何学文の柄は、これだから面白い。単純な縞だからこそ生まれる豊富なデザイン。こうしたコーディネートを試すと、その多様性を強く感じる。

色づく銀杏をイメージして、小物を選んでみた。帯の赤色はかなり目立つが、はっきりとしたこの黄色の帯〆だと、しっかりと着姿が引き締まりそう。また、黄色を含んだ桶絞りの帯揚げも同時に使ってみた。(冠帯〆・今河織物 桶絞り帯揚げ・加藤萬)

もう一つ、小物合わせを考えてみた。こちらは、伊那紬の紺色にポイントを置き、青を基調にした帯〆と帯揚げを使っている。黄色の小物と比較すれば大人しいが、落ち着きのある着姿が演出出来よう。(綾竹組帯〆・龍工房 市松模様帯揚げ・加藤萬)

 

今日は晩秋の街着として、草木紬と紙布帯という素朴な品物を使ったコーディネートを試してみた。信州紬を織る機屋は、上田紬が小岩井紬工房やまつや染織など、飯田紬が下井紬と廣瀬草木染織工芸、そして伊那紬が久保田織染工業と、数は少なくなっている。もとより草木染糸を使って手機で織ることから、手が掛かり、市場に出る数には限りがある。大島や結城に手を通した人は多いが、信州紬となるとあまり馴染みはないかも知れない。

けれども、本文でもご紹介した通り、信州の紬は、人の手の温もりを強く感じさせる品物である。山の恵みを糸の色に生かし、それを純朴な織手が丁寧に筬を打ち込んで織り上げる。まさにそれは、信州の風土そのものが表れている。目にする機会は少ないと思うが、ぜひ知っておいて欲しい産地紬である。最後に、今日ご紹介した品物を、もう一度ご覧頂こう。

 

信州人の気質は、排他的でなかなか他所者には心を開かないと言いますが、この辺りは山に囲まれている甲州人の性格と相似るところがあります。けれども決定的に違うのは、ものすごく真面目で、理屈が先に走ること。当然のことながら、あまり冗談が通じません。ボケと突っ込みを日常的に繰り返す関西人が、一番苦手とするタイプが信州の人ではないかと思います。

けれども、議論することを厭わず、いい加減な物事の決め方は許しません。教育県として名高い長野の面目躍如と言ったところでしょうか。品物を量産して儲けを優先させようとは思わず、小さいながらも黙々と伝統の技法を守って、モノ作りを続ける。今も残る産地の織物には、地域それぞれが持つ気質が垣間見えるような気がします。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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