今の若い人たちは、LINEなどSNSにおける文章には、句読点を付けないことが多いようだ。そして、もし年長者から句読点の付いた文が送信されてくると、窘められているような感じがして、威圧的な印象を受けると言う。もちろん、送った側にはそんな意図はなく、若者にそんな風に思われているとは、露ほども思わないのだが、世代により「文章を区切る」という意識にこれほど差があるとは、驚くばかりである。
では、句読点を付けない理由は何か。それは、SNSでの発信を文章としてではなく、会話の延長と捉えているからかと思う。そして旧ツイッターのXなどでは、一回の投稿での文字数が140と制限されているため、自ずと文章は簡潔にならざるを得ない。文章をより理解しやすく、まとめるために不可欠だった符号は、いま曲がり角を迎えている。
区切りなく続く文章が容認されるというのは、現代の「間の無い社会」を象徴しているように思える。朝起きてから夜寝るまで、人はスマホと言う道具を通して、情報の渦に巻き込まれる。のべつ幕無し、息つく暇も無い生活。そして限られた時間をより有効に使うために、何より効率を最優先にして、無駄を省く。ボーとしている暇はなく、ゆとりある時間を求めることはない。もちろん、こんな句読点の無い生活は疲れるが、やめたくてもやめられない。何故なら、社会のシステムがそれを許さないからである。
そんな世の中なので、和装を嗜むことなど、あまりに浮世離れしたことと思われているだろう。装うまでに時間が掛かり、厄介な決まり事も多い「日本固有のファッション」は、現実としてタイパ社会からかなり乖離している。だがそれだからこそ、日常の生活から離れて、特別な時間を演出出来る道具となる。つまりこれは、句読点と同じ役割を持つのだ。
その上和装には、春夏秋冬各々の季節で、相応しい着姿を演出できる力が備わっている。季節ごとに違う素材や色、文様は、日本の自然や歴史、育まれた文化を象徴するもの。暦の上の二十四節気や七十二候は、人々に節目を知らせるために存在しており、これこそが季節の句読点に当たる。夏から秋へ向かう9月、今年も模様替えの時期を迎えた。今日の稿はここ数年の恒例に従い、その様子をご覧頂くことにする。
珍しくフォーマルモノ(付下げと袋帯二点)を飾った、秋最初のウインド。
今年もお盆前までは、記録づくめの酷暑だった。35℃以上の猛暑日が数週間にわたって続く。これだけ暑いと、さすがにキモノを着用することが憚られる。通気性の良い麻や紅梅でも、強烈な日差しや熱風の中では、かなりつらい。いくら涼し気に見えても、着ている本人は大変。「暑さなど感じない」と表情を和らげることなど、極めて困難。
十年前と比べると、猛暑日は二倍になり、それに比例するように、熱中症で救急搬送される人の数も二倍になった。先日、長年夏のキモノを装っている常連さんが店に来て話すには、冷房でキンキンに冷えた部屋で着付けをし、移動は車。そして空調の効いた部屋からは、一歩も出ない。そんな条件なら、夏の和装は可能かもしれないが、それ以外は無理とのこと。つまり、街歩きは出来ないことになる。
昨今の気候を考えれば、絽や紗、麻など盛夏素材を着用するのは、6~9月。単衣は、5月と10月。そして袷に変わるのは、11月になってから。つまり薄物に手を通す季節が、以前より二か月増えることになる。一年のうち、袷が半分で裏地無しが半分。温帯から亜熱帯へ変化するこの国では、こうして装いの形式が変わるのも当然であろう。
と言うことで、まだ袷を装うには二か月も早いが、ウインドを秋冬バージョンに替えてみる。季節を先取りして、店の雰囲気をガラリと変えることは、専門店として暖簾を掛けている以上、どうしても必要なこと。そうでなければ、「和の装いには旬がある」などとは言えなくなってしまう。それでは、どのようにシーズンチェンジしたのか、店内へとご案内しよう。
正面のウインド三点。左から、御所解模様・江戸友禅付下げ(大松)、金地唐花模様・袋帯(川島織物)、焼箔地観世水四季花模様・袋帯(紫紘)。小物は、臙脂色畝打組帯〆・二色暈し帯揚げ(いずれも渡敬)
店の顔となる正面ウインドには、小紋や紬、あるいは名古屋帯のようなカジュアルモノを飾ることがほとんどだが、今回は気分を変えて、フォーマルの付下げとそれに準じた袋帯を用意してみた。今年は春先から、婚礼関連の仕事を依頼されることが多く、久しぶりに和装フォーマルの復活を意識させて頂いた。そんなこともあって最近は、以前よりフォーマル品に目を向ける機会が多くなっている。
付下げは、淡いグレー地に家屋や折り戸と四季花を散らした、御所解模様。制作したのは、現代に手描きの江戸友禅を伝え続けている大松。古典意匠の代表とも言うべき御所解模様を、丁寧な糸目糊置きと色挿し、そして精緻な手刺繍であしらっている。模様に嵩のない付下げだが、それだけに控え目で上品。このように、仕事に裏付けられている友禅の逸品は、装う人に飽きを来させない。合わせたフォーマル帯は、川島と紫紘。川島の唐花は大人しく、紫紘の観世水はインパクトがある。フォーマルも帯次第で、雰囲気が変わる。
夏バージョン最後のウインド。左から、水色濃淡格子・米沢夏紬(新田)、黄地唐花模様・八寸夏帯(捨松)、水色唐草模様・麻型絵染九寸帯(栗山工房)。小物は、水色レース帯〆(龍工房)・金魚模様絽絞り帯揚げ(加藤萬)
先月のコーディネートで取り上げた米沢紬と麻型絵帯を、そのままウインドに飾っていた。真ん中の捨松八寸帯は、小千谷縮や絹紅梅と合わせても良い。いつもの年なら、最後まで浴衣を飾っておくが、今年は暑すぎて、早々に夏の売り場の主役から降りた。
中央の飾り台は、縹色・米沢藍染紬(野々花染工房)と白地・白鷹花織帯(佐藤新一)
米沢の草木紬と白鷹の手織紬帯を使って、置賜紬コーデを試してみた。伝統的工芸品として指定されている置賜紬は、この米沢紬と白鷹お召に長井紬を加えた三地域の品物で構成されている。現在白鷹の織屋は、佐藤さんともう一軒小松さんの工房だけになった。この花織の帯は、雪の結晶のように見える模様姿から、雪花織と呼ばれているが、北国の織物らしい凛とした雰囲気が伺える。シンプルな野々花工房の無地紬は、帯次第で表情が変わるので、実に使い勝手が良い品物。材料には紅花をメインに、茜やサフラン、桜、胡桃などを使うが、どれも草木染らしい優しい色合いが出ている。
模様替えの前は、濃紺色の夏お召と丹波布の組み合わせを飾っていた。絹素材のキモノに、綿素材の帯を使うことは珍しいが、夏のカジュアルでは、絹と麻、あるいは麻と木綿など、素材を違えて組み合わせを考えることがよくある。薄物の特徴の一つが、こうした素材バリエーションの広がりである。
店内五本の撞木には、産地の異なる沖縄の織物帯を飾る。左から、花倉織・首里織・南風原花織・久米島絣帯・読谷花織。
一口に沖縄の織と言っても、地域により製織方法や糸染の植物原料が異なるので、品物各々に個性的な織姿が表れる。こうした琉球の帯は、織のキモノならば、袷にも単衣にも上手く合わせることが出来る。沖縄の織物は、最も流通量が多い琉球絣を始め、各産地の生産数と需要のバランスが上手く取れている。斜陽と言われて久しい染織業界だが、人気が高く一番安定しているのが、沖縄の品物かも知れない。ただ悩ましいのは、生産数が少なく流通量が限られており、価格がそれに比例して高止まりしていること。
同じ位置には、小千谷縮と麻の型絵染帯が並んでいた。小千谷縮は、着心地の良さと手入れが自分で出来る扱いやすさ、それに価格が廉価なことも相まって、毎年夏キモノの主力商品になっている。ほとんどが無地や縞・格子模様で、合わせる帯も麻帯の他に、絹の紗名古屋帯や博多献上、時には木綿素材の帯も使う。画像の左側には、台に並べた浴衣が見える。酷暑が続いたこともあり、今年浴衣の荷動きは鈍かった。
壁際の吊りケースの中は、黒系とクリーム系地色の小紋を三点ずつ並べてみた。画像で一番奥に見える黒と山吹色の総柄は、宮参りの八千代掛けや祝着用として使う。この千切屋治兵衛の小紋は、子どもキモノの定番として、昭和の時代から扱い続けている。反物から子どもモノを誂えるお客様は少なくなったが、仕立を請け負える職人がいる限り、この品物は棚に置きたい。何故なら、このような子どもの誂えこそが、キモノに精通した専門店らしい仕事だからである。
最後までケースの中に入っていたのは、夏の間に活躍した麻や絹・木綿の八寸帯。近江の麻素材、米沢の絹素材、沖縄八重山の綿素材。涼やかさを演出するカジュアル帯は、夏の売り場には欠かすことの出来ない品物。仕入れた年にすぐ捌けなくても、いつか知らぬ間に売れていく商品だ。負け惜しみでは無いが、売れ残ってもさほど心配がない。
最後に、店内唯一の衣桁に飾った品物。白地道長取・総絞り訪問着(藤娘きぬたや)、水色菱彩文・袋帯(龍村美術織物)
総疋田絞りの地に、道長取りや三階菱で割り付け、その中に青海波や花菱を模様付けした、清楚で豪華な絞りの訪問着。模様各々に異なる絞り技法を施し、疋田は一目ずつ人の手で丁寧に括られている。時間や手間を惜しむことなく、一枚のキモノに職人の技が注がれる。
仕入れをしてから随分と長いこと、店の棚で求める方を待っているが、なかなか巡り合わない。この品物を例えるなら、とても器量と性格は良いのに、何故か縁遠いお嬢さんと言ったところか。合わせた帯は、龍村には珍しい明るい水色の菱連ね文だが、これも店に来てからかなり時間が経っている。売れない理由は、やはり個性的な地の水色のせいか。だが、こうして絞りの訪問着と並べてみると、上品さと豪華さが並び立っているかのように思える。
前に衣桁に掛っていたのは、淡いピンクの地に小さな秋草をあしらった絽の訪問着と、流れにそって唐草を織り出した紗袋帯。キモノも帯も優しい地色で、模様も控えめ。この組み合わせなら、上品さも涼やかさも着姿の印象として残るはず。ただ、夏のフォーマルは限られた方しか装う場面が無いので、毎年そう簡単には売れて行かない。
さて、こうして今年も夏から秋への、店の衣替えを終えた。実際に秋の装いに変わるのは、まだかなり先のことと思うが、せめて来店される方や、ブログ画像をご覧頂いた方には、少しでも季節のうつろいを感じて頂きたい。古来より日本人が持ち続けてきた、季節の移り変わりを敏感に感じ取る繊細さ。それこそが、季節に相応しい素材、色、文様を装うバックボーンとなり、日本の装いとして形成されてきたと思う。
だから、季節ごとの句読点は、どうしてもきちんと付けなくてはならない。大げさかも知れないが、それは、日本人として重要な独自性・アイデンティティに関わることではないだろうか。最後に、店内の姿をもう一度ご覧頂いて、稿を終えよう。
ハラスメントとは、相手に不快感をもたらす行為を言うのですが、文章に句点のマルが付いていることに精神的な苦痛に感じる「マルハラ」が、若者の一部で取りざたされているようです。文面を区切ることが、威圧的であり、それが恐怖心を呼び起こす。年長世代の我々には、理解が難しいことですが、そう感じる人が多いというのだから、それが若い世代特有の感性なのかも知れません。これは良い悪いではなく、様々な社会背景が遠因となって表れる「一つの事象」なのだと思います。
背景にあるのは、繋がり続けることを前提とする、現代の生活。スマホという道具から、延々と流れてくる膨大な情報。これに慣らされてくると、休むことを忘れてしまいます。そして、休むことを罪悪と思うようになるのかも知れません。さらに、休みたくても休めたいところに自分を追い込むことになり、果ては疲れて動けなくなってしまいます。
「より早く、より効率的に」をスローガンに掲げて、生きようとすればするほど忙しくなり、ますます句点・間を取らなくなる。これでは、日本人らしい細やかな感性を磨くことなど、到底難しくなるでしょう。たとえ経済的に豊かになっても、心豊かにはなれない。だから今、日本人の幸福感は薄らいでいるのだと思います。
情報から離れて何も考えない時間や、無駄と思えることを大切にする。生活に句点が無ければ、人の心は荒んでいく。私には、そう思えてならないのです。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。