バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

時の流れ、人を止めず  陸の孤島・雄冬の40年

2024.02 13

先月末総務省から、住民基本台帳に基づく昨年度の人口移動報告が公表された。それによると、東京圏(東京・神奈川・千葉・埼玉)では、転入者が転出者を12万6千人ほど上回る「転入超過」になっており、中でも東京は、前年度の80%増・6万8千人余りの超過。これを見る限り、人口一極集中の傾向が収まる気配は、全く無い。

大都市に人が集まる要因は、様々に考えられるが、その一つに挙げられるのが「ストロー効果」と呼ばれる現象。これは、新幹線のような高速鉄道や高規格道路が通ることによって、地方の経済活動が衰退し、人が都会へ流出してしまうことを指す。

 

では何故、こうしたことが起きるかと言えば、高速交通網が整備されることで、地方の人々が時間の制約から解放されることが大きい。買い物にせよ娯楽にせよ、地元に縛られることが無くなると同時に、より多くの、そしてより賃金の高い仕事を求めて、都市に出ていくことがたやすくなる。そしてもちろん、進学を希望する若者にとっても、近くなったことで、限られた地元の学校より、選択肢の多い大都市へと向かっていく。

交通網の起点・首都圏がストローの飲み口で、整備された先の地方都市がコップ。新幹線や高速道路は、まさに人とモノを吸い取るストローの細い通り道になっている。地方自治体では、今も整備新幹線や新たな高速道路建設に躍起になっているところが多い。そしてどこの首長も、「交通網が整備されれば、経済効果が見込まれる」とお題目のように唱えるが、それはむしろ逆効果で、過疎化に拍車がかかるリスクもある。交通の発達における地方の経済効果は、もはや幻想に過ぎないのではないだろうか。

 

一本の道、一本のトンネル、一本の橋。都市間の高規格な交通網の整備ではなくとも、それまでには無かった施設が出来上がれば、その土地は確実に変わっていく。人とモノが入りやすく、また出やすくなったことで、どのように姿を変えてしまうのか。このことをどこよりも実証できる集落が、北海道にある。そこは40年前まで、陸続きなのに道が無い「陸の孤島」。一日一往復の定期船、それも漁船と見間違うような、小さな小さな生活船が、吹きすさぶ風と荒波に翻弄されながら、懸命に走っていた。かつてニシン漁で湧いた小さな村の人々にとっては、この船はまさに命綱であった。

この陸の孤島へ行く船に初めて乗ったのは、1981(昭和56)年2月のこと。以来43年、ここのことは、遠くにいながらも、いつも気になっていた。このところ毎年、必ず北海道を歩いているというのに、日程が合わずに訪ねていくことが出来なかったが、昨秋ようやくその機会に恵まれた。この集落の名前は、雄冬(おふゆ)である。

そこで今日は、いつもは12月に書く「むかしたび」の話をさせて頂こうと思う。陸路が整備された雄冬、果たして歳月は、どのように村を変えたのだろうか。昔の画像と今の画像を照らし合わせて紹介しながら、その姿を比べて見て頂くことにする。なお、いつもこのカテゴリーを書く時にはお断りしているが、今回の内容は、本業の呉服に関わることではないので、関心が無い方は、どうぞ遠慮なく読み飛ばして頂きたい。

 

整備され、見違えるように広くなっている現在の雄冬港。(2023年秋撮影)

雄冬港に停泊中の新おふゆ丸。一日一往復、増毛ー雄冬を結ぶ。(1981年冬撮影)

陸の孤島・雄冬については、2014年5月に「陸の孤島と定期船と」と題して、一度ブログの稿で書いている。早いもので、あれから10年が経つ。バックパッカーだった私は、80年代の初頭に二度、この雄冬集落を船で訪ねているが、稿はその時のことを回想したもの。小さな定期船の様子や、厳しい環境の中で暮らす雄冬の人たちの姿を、画像をまじえながら紹介している。

今回、雄冬を訪ねたのは、1982年の2月以来で、実に41年ぶりのこと。無論、道が繋がってからは初めてである。本当に久しぶりの雄冬であったが、不思議に着いた時には懐かしさを覚えることはなく、何か見知らぬ場所へ来たような感じだった。手段が船と車、そして季節が冬と秋という違いはあるにせよ、40年間ずっと、雄冬に対して持ち続けていた「特別な場所」というイメージからは、ほど遠い姿になっていた。しかし、人間だって40年会わなかったら、その人とはわからないかも知れない。人も変わり、土地も変わる。それが、時の流れというものだろう。

私は港の端に車を止め、集落の中を歩くことにした。そう40年前も、船を降りた後、港の前から狭い坂を上り、小さな村の中をぐるりと巡った。ゆっくり歩いてみれば、何が変わってしまったのかが判るだろう。そして、昔の痕跡も見つけたい。変わらないことだって、あるはずだ。

 

ではその前に、雄冬がどんなところなのか、地図を示しながら簡単にお話する。今は常識として、陸続きなのに道が無い集落などは考えられまい。10年前の稿で詳しく説明しているが、もう一度定期船のことを含めて、おさらいをしておきたい。

まず時刻表の地図で、大まかな雄冬の位置を示してみる。左下に札幌の名前が見えるが、石狩湾に沿って真上にあるのが、当時の留萌本線の終着駅・増毛。その増毛からバスで別刈へ、そして航路で雄冬まで便が出ている。なおこの図は、今から53年前の1971(昭和46)年のものなので、今は廃線になった路線が多く記載されている。札沼線の石狩当別ー石狩沼田、砂川支線の砂川ー上砂川、歌志内線の砂川ー歌志内、そして留萌本線の留萌ー増毛間はすでになく、同じ留萌線の石狩沼田ー留萌間も、昨年4月に廃止された。

道が無く、船が行き来していた増毛ー雄冬の地図。現在は、国道231号が開通して、陸路で行けるようになっている。この国道は札幌と留萌を繋ぐ重要な道であるが、この沿線にあたる石狩から増毛にかけては、連なる暑寒別山地が断崖絶壁を伴って海へと落ちているために、その道路建設は難渋を極め、沿岸集落への道が長く閉ざされていた。

特に、上の地図で赤い線で表示されている区間、雄冬を挟んだ、浜益村(現在石狩市浜益区)千代志別から増毛町大別刈にかけての26㎞は、資材の搬入を船に頼らなければならないことなどで工事が遅れ、いつまで経っても開通しない「開かずの国道」と呼ばれていた。231号の建設は1958(昭和33)年に始まり、全面開通したのが1981(昭和56)年の11月。この道には、実に23年の歳月と323億円の巨費が投入されたのである。しかし、開通してから僅か40日後に、雄冬岬直下のトンネルが崩落し、あっという間に「陸の孤島」へ舞い戻ってしまった。そしてこの修復工事には2年半を要し、再び開通したのは1984(昭和59)年の5月であった。

 

道内時刻表(鉄道弘済会版)に掲載された、1971(昭和46)年2月の雄冬航路。この船が唯一、外の地域とを結ぶ交通手段で、人もモノもこれで運ぶしかなかった。昭和40年代にはまだ、増毛ー雄冬間に車が通れる道は無く、小さな集落にこまめに寄港しながら、雄冬へ運航されていたことが判る。そして石狩側にあたる浜益へも、船は運航されていたので、雄冬はこの当時、北へも南へも道が通じていない陸の孤島だったことが理解出来る。

私が雄冬を訪ねた1981、2年という年は、雄冬住民にとって、長年の悲願だった道がようやく通った年でもあり、まさにこの地域のターニングポイントと呼べる時期と重なっている。その後、思わぬトンネルの崩壊があって、孤島からの解放はそれから2年ほど遅れたが、道路の整備により、住民の意識が確実に変わり始めた頃でもあった。

 

増毛ー雄冬間の定期航路は、1933(昭和8)年に始まり、戦後の1957(昭和32)年から、雄冬海運が運航を担った。私が乗船したこの「新おふゆ丸」は二代目の就航船で、運航を終える1992(平成4)年4月まで使われていたが、最後の方は船の耐用年数をとっくに過ぎていたらしい。総トン数78.33tで、定員45名の小さな船は、冬になると度々欠航したが、1980(昭和55)年に先行開通した道路区間も、冬季になると閉鎖されることが多く、すぐに船を止める訳にはいかなかった。

甲板の地下にあった、新おふゆ丸の船室。乗客は靴を脱いで、10畳ほどのカーペット敷に上がる。真ん中に石炭ストーブが置いてあり、ほの暗く洞窟の中に入っているようだった。この画像の雰囲気からも、旅客船ではなく漁船の方が似つかわしいのが判るだろう。冬の日本海の荒波をまともに受けて進むので、船はひどく動揺する。もし運航中に甲板の上に出ていたら、簡単に海に放り出されてしまうので、港に着くまでは、一歩もこの部屋からは出られなかった。

苦労して船で辿り着いた雄冬は、本当に特別な場所だったが、今、どう変わったのか。

 

港から、湾の入り口を眺める。北の増毛方向から、おふゆ丸が入ってきたはず。

港に到着する直前、船から陸を写す。山が海に向かって滑り落ちているのが判る。この画像からは、道の姿は見えない。

 

昔、船が到着したと思われる場所を見つけた。今、港に停泊している船は多くなく、それも小舟ばかり。数人の釣り人が竿を垂らしている姿があるものの、漁師らしき人は見かけない。

船が到着すると、港は活気に溢れていた。多くの人が集まり、手分けをして運ばれてきた物資を下す。そして、犬ぞりに人も荷物も乗せて、坂の上の集落へと運ぶ。平地がほとんど無い雄冬では、建物のほぼ全てが傾斜地にあった。

 

漁港の前には、国道231号が通っている。集落の中には、信号機も一か所付く。

増毛まで22K、留萌まで39K。車で一時間も走れば、留萌に着く。昔は、増毛まで船で1時間半、さらに鉄道に1時間乗らなければ、留萌まで行くことが出来なかった。

増毛から雄冬へ来るバスは、一日三往復と多くない。増毛の町はずれ、大別苅までは25分。同じ沿岸バスが運行する、札幌から雄冬を通って留萌へ直通する特急ましけ号は、週に4日の運行。札幌からの所要時間は、1時間52分。

40年前に歩いた、雄冬のメインストリート。ここが現在国道になっていると思うが、ご覧のように車の姿がどこにもない。記憶は定かでないが、あの当時、雄冬には車が存在していなかったかも知れない。考えてみれば、雄冬の電話が自動回線となったのが、訪ねた時の僅か3年前・1978年のこと。長く電気が無かった占冠のニニウ集落、買い物に片道40キロも歩かねばならなかった日高の奥高見集落と並んで、雄冬の暮らしは、北海道内でも指折りの厳しさであった。

 

雄冬の集落は、国道から一歩入った細い坂道の路地奥に、多く建てられている。風を凌ぐような囲いのある家もあるが、廃屋となって久しい家もあちこちにある。こうした、木の板を打ち付けた壁の家姿には、覚えがある。

海側から見ると、家に覆いかぶさるような、荒々しい山容がよくわかる。画像の正面の山肌には、岩が冷えて柱状に割れ目を形成する「柱状節理(ちゅうじょうせつり)」が見られる。

どの家の屋根も、雪が自然に落ちるようにと傾斜を付けている。しかし周りは雪に覆われ、一階が埋まっている家も多い。画像を見ていると、雪に囲まれた狭い坂道を、苦労して歩いた記憶が甦って来る。雄冬を訪ねたのは、いずれも2月の厳冬期。この、風に飛ばされた雪が家に吹き付ける姿は、かなり鮮明な印象として残っている。

 

雄冬では、集落より上の方に学校や診療所などの公共施設が建っていた記憶があったのだが、郵便局がそのまま残っていたのには、驚いた。40年前に訪ねた時、雄冬の人口は約80戸・200人余り、それが10年前になると、37戸・70人となり、現在は17戸・34人にまで減っている。人口規模だけを考えると、この局の存続は難しいように思われるが、もし無くなってしまうと、増毛の中心部まで行かなくてはならない。現在住んでいる方は、ほとんどが年配者なので、金融機関はどうしても残す必要があるのだろう。さて、この郵便局から道沿いに歩いた先に、診療所があったはずだが、果たしてどうなっているか。

学校へ向かう路地に入る角に、こぎれいで少し大きい建物が。窓ガラスに何やら張り紙がしてあるので、覗いてみると、それは診療日の日程表。診療所も、残っていたのだ。

入り口には「増毛町立雄冬へき地診療所」と、墨書きされた木の看板。月に二回、2時間だけの巡回診療だが、たとえ道が通っても、医療機関が遠い住民にとっては、頼りになる診療所となっているのだろう。ここから一番近い病院は、増毛中心部にある町立診療所だが、さらに入院施設のある大きな病院となると、留萌まで行く必要がある。

40年前の画像と比べてみると、やはり玄関の木枠は同じで、全く変わっていない。外壁は塗り直してきれいになっているが、同じ建物をそのまま使っている。これは、1962(昭和37)年に建てられたもので、すでに60年以上が経過している。船しか交通手段が無い頃も、月に2回の出張診療だったが、道が出来たことで急患には対応できるようになったはず。この診療所が残された理由は、郵便局と同様、高齢化が進んだ集落の住民に対する配慮からかと思われる。

 

集落の一番上にある学校へと向かう細い坂道に沿って、家が立ち並んでいる。木の囲いを付けた家も幾つかあるが、ほとんど人の気配を感じない。その多くは、持ち主が去ってからかなり長い時間が経過しているよう。

道の途中で後ろを振り返ると、かなりの急坂と判る。住宅のほとんどがこうした傾斜地に立ち、幅の狭い道路に沿って、寄り添うように並んでいる。物音ひとつしないが、時折犬の吠える声が聞こえる。

坂を上りきったところで、白い建物が見えてきた。入り口には石で作った校門ある。これが、2002(平成14)年3月まで存続していた、増毛町立雄冬小中学校。40年前は、赤い屋根の古びた木造校舎だったが、いつ建て直されたのだろうか。

閉校して20年以上経っているが、ほとんど傷みは見られず、まだ使えそうな校舎。学校を閉じてから、町は自然体験館として使っていたが、今はグランドが地区の避難場所に指定され、防災拠点になっている。

まだ校舎の正面には、校章が付いたまま。1892(明治25)年、旧岩尾村立雄冬尋常小学校として創立。閉校まで110年の長きににわたり、子どもたちの学び舎として、また地域の拠り所として重要な役割を果たしてきた。早くからニシンの漁場として栄えた雄冬だが、明治末年の記録・殖民広報によれば、当時すでに60戸ほど家が建てられていたようだ。

40年前、同じ場所に立っていたのは、赤い屋根が印象的な古い木造の校舎。横に並んで見えるのが体育館。雄冬を舞台にした高倉健主演の映画・駅の中にも、この校舎が登場する。窓の半分が雪に埋もれ、冬の厳しさを物語っている。

校庭の脇に残る坂が、山に向かって続いている。体育のスキー授業の時に、ゲレンデとして使っていた場所だ。

画像は、学校を訪ねた時に、偶然行われていたスキー大会の様子。少ない人数だが、子どもたちはみんな、生き生きと楽しそうに滑っていた。集落に子どもがいること、そして学校が存在することが、どれだけ住民に活気を与えることになっていたのか。こうして廃校の跡を訪ねる度に、そのことをつくづくと感じる。

さてこれで、昔歩いたところはほぼ巡り終わり、後は、学校のすぐ下にある雄冬神社だけ。最後に、高台に新設された展望台まで歩いて、集落の全景を俯瞰してみよう。

 

1891(明治24)年に建立された雄冬神社。ここには、増毛町の無形文化財・雄冬神楽舞が奉納・伝承されている。これは、明治初期に雄冬へ移り住んだ青年が、白い髭の老人から教示された座敷神楽を原型とした舞楽。以来神楽は、豊漁や家内安全を願って、毎年正月に社で演じられてきたのだが、多くの住民が集落を離れたことで、この伝統芸能も、存続の危機を迎えている。

港と海を見下ろす高台にあるので、神社からの眺めは美しい。この上に、新たに展望台が整備されたようなので、せっかくだから昇ってみよう。断崖絶壁が続く雄冬の海岸線を、観光スポットにする目途で作った施設だ。

ススキに揺れて、雄冬港が見える。港の少し先には岩礁が見えるが、これがトド島。昔、この島付近の漁業権を巡って、増毛側と浜益側の漁民同士で紛争が起こった。ニシン漁が、盛んなりし明治の頃の話だ。この時の影響ではないだろうが、今も雄冬集落のはずれが、石狩市(旧浜益村)と増毛町の境界に設定されている。

秋も深くなり、山肌の紅葉が美しい。眼下の穏やかな海が、死ぬほど波に翻弄されたあの冬の海と同じとは、とても思えない。それにしても、雄冬の集落がこんなにも小さかったとは。上から眺めなければ、実感できなかった。

 

一本の道が生まれたことで、どのように雄冬は変わったのか。その答えを見つけるために、二時間ほどかけて、くまなく集落を歩いてみた。やはり水が上から下へと流れ下るように、多くの住民、そしてその子どもたちは、道を通って他所へ流れていった。今より、豊かな生活を求め、そして便利で効率的な生活を求め、雄冬に別れを告げたのだ。経済原則には逆らえず、時の流れは雄冬の人々を、ここに止めはしなかったのである。

交通手段が船しかなく、極めて移動の自由が制限されていた40年前の雄冬。住民たちの悲願は、一日も早く道が通ることだった。けれども旅人の目からは、当時の雄冬の人々の日常は、不自由な中にあっても、生き生きとしていたように思えた。港に集まり、船から荷を上げる人々の忙しそうな顔。校庭の即席ゲレンデで、思い切りスキーを楽しむ子どもたちの笑顔。そして船の中で、慣れぬ旅人の世話をしてくれたおふゆ丸の船員や地元の乗客たち。彼らにとっての日常は、旅人にとって経験しがたい非日常だった。だからこそ、ここが特別な場所に思えたのだ。

今は、どこにでもある小さな漁村の一つに過ぎない雄冬。けれども歴史に埋もれた記憶は、まだ私の中にある。陸の孤島だったことを知る人は、あとどれくらい時が経てば、いなくなるのだろうか。

 

今回は、国道231号を石狩(浜益)側から雄冬へと走り、帰りは増毛側へ抜けた。そこで最後に、途中で立ち寄った岩尾集落の画像と、増毛駅の今と昔の画像をご覧頂きながら、この長い旅話の終わりとしたい。

海岸に突き出た岩をくりぬいて、道を付ける。浜益から増毛まで40Kにも及ぶ海岸線には、数えきれないほどトンネルと覆道がある。オロロンラインと名前が付くこの道は、絶景の連続だが、裏を返せばそれが、難しかった工事の証でもある。

岩尾港を見下ろす高台には、旧岩尾小学校の木造校舎が残っている。手前のレンガ作りの柱が、校門の名残。1987(昭和62)年に閉校し、雄冬小学校に統合されているが、この校舎は本当に古く、よくぞそのままの姿をとどめ続けたと誉めたいほど。

岩尾の集落も雄冬とよく似ていて、住宅は道より山側の狭いところに建てられている。あまり知られていないが、ここには温泉があり、こじんまりした宿も一軒ある。

 

最後は、増毛駅の姿。今は、観光施設として復元されているが、昔とは違う。

現役当時の増毛駅(1981年2月) この駅で降りて、雄冬への旅が始まる。

ホームと駅名標、そしてレールが残る構内。これも鉄道遺産ということか。

ほぼ同じ場所から写した、現役の増毛駅。出発を見送るのは、駅長らしき人。いかにも、北海道の「さいはてのローカル線」らしい駅の姿。記憶の中の懐かしい瞬間。

 

40数年ぶりに訪ねた雄冬。予想は出来たことですが、人々の多くはこの地を去り、村は静寂の中にありました。そして僅かに残っている住民も、ほとんどが年配の方で、何年か経つと、無住地になってしまう可能性があります。ただこうしたことは、雄冬に限ったことではなく、日本の至る所で見られ、近い将来、自治体として立ち行かなくなるところが出ると、危惧されています。

確かにネットやスマホの普及で、情報の格差は無くなったでしょう。けれども、現実に生活を送ろうとすれば、大都市と地方の格差は歴然。交通手段も、金融機関も、医療機関も、商店も学校も無くなってしまえば、住み続けたくても住めはしません。またそこに、少子化による人口の自然減が加われば、坂道を転がるように過疎は進みます。

この国が戦後、物質的、そして経済的な豊かさだけを追求してきたこと、それが正解だったのか否か。その答えは、すでに出ているようにも思えます。何だか説教臭く、つまらないまとめになってしまいましたが、次の旅の稿では、純粋に楽しめる話を書きたいと思っています。ここまで、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。  次回からは、また呉服屋の話に戻ります。

 

(雄冬への行き方)

札幌からバス 特急ましけ号・留萌行(日・月・水・金の週4日運行) 所要約2時間

増毛からバス 大別苅乗り換え・雄冬行(一日三往復) 所要40分

旭川空港から車を使うと、留萌経由で1時間50分 浜益経由で2時間40分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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