バイク呉服屋の忙しい日々

職人の仕事場から

キモノ誂えの道具は何か  和裁士、その仕事場の風景

2023.08 03

「確か、一年目は月に1万円、二年目が2万円で、三年目が3万円。きちんとした給料が頂けるようになったのは、4年目以降でした」。バイク呉服屋で、もう30年以上も仕事を担っている和裁士の保坂さんは、自分の修業時代を振り返ってこう語る。彼女が和裁士を志して、県内で一番大きな和裁所に入ったのは、昭和55(1980)年。今から、43年も前のことである。

この頃、呉服の市場規模は1兆8千億円にも上り、まさにピークを迎えていた時期。旺盛な需要は当然ながら、大勢の職人の手を必要としていた。当時この和裁所には、30人近い内弟子が職人になるべく、日夜研鑽に励んでおり、保坂さんによれば、毎日15枚程度のキモノを縫い上げていたと言う。和裁所一か所でこの枚数とは、今ではとても考えられないが、ここでは県内の呉服店依頼だけではなく、都内の店や大手NCからの仕事も請け負っていた。

部屋には蚕棚のような二段ベッドがズラリと並んでいたが、それでも足りず、仕事場にも布団を敷いていた。弟子のほとんどすべてが、住み込み。衣食住の面倒は全て親方持ちで、時には息抜きに、旅行などへも連れて行ってくれた。給料は一人前になるまでは、小遣い程度。ただ、実力が付いて、一人で誂えが出来るようになったと認められば、きちんと給料が出してもらえた。それが大体、修業に就いて4年目くらい。その後は、和裁所にそのまま残って仕事を続ける者と、独立する者とに分かれる。保坂さんは、6年後に和裁士として一人立ちし、うちの仕事を請け負うようになったのだった。

 

保坂さんが職人として独立してから、呉服の需要は下がり続け、今は最盛期の九分の一・2千億円程度にまで滑り落ちた。そして仕立そのものも、安価な海外縫製やミシン仕立にシフトする呉服店やデパートが増加し、和裁士の仕事は急速に減っていった。「一緒に修業して手に職を得た仲間たちも、今はその技術をほとんど生かせず、仕事の場を失っているみたいです」と、彼女は話す。この道に入る時、まさかこんな時代が来るとは、思わなかっただろう。

もちろんうちの店も、先代の時代のように、右から左へと品物は動かない。けれども、保坂さんをはじめとする三人の和裁士の仕事は、今もほとんど途切れることは無い。その大きな理由は、多くの悉皆依頼を、様々なお客様から頂いているから。裄や袖丈の簡単な寸法直しから、身丈や身巾、抱巾直しのような少し厄介な直し、さらに胴裏や八掛の取り換え、そしてトキ・洗張りを施して本格的に誂え直すものまで、仕事の内容は様々だ。こうした「直し」と、たまにポツポツと売れていく品物の「誂え」が、うちの和裁士の仕事の両輪になっている。そしてこれは、バイク呉服屋が仕事を続ける上の、大きな支えでもある。彼女達がいなければ、一日たりとも、店は開けられない。

 

先日、ある仕事を依頼するために、久しぶりに保坂さんの仕事場へ入った。様々な道具を目にしたその時、このブログの中で「和裁士の道具」について、まだ取り上げていないことに気が付いた。これまで、和裁士が手掛ける仕事の内容は、幾つもご紹介してきたが、道具のことには触れていない。ブログ公開から10年も経って、誂えの基本となる和裁士の道具について書くのは、いささか遅きに失した感があるが、今日はこのことをテーマに稿を進めることにしよう。

 

修業時代のノートを持ち、仕事場に設えた裁ち板の前に座る、和裁士の保坂さん。

保坂さんの仕事場は、自宅二階の四畳半。グレーのカーペット敷の上に長い裁ち板を置き、その周りに和裁道具が並んでいる。「片付けてないですよ」と言うものの、自分が仕事をしやすいように、きちんと整理されている。ブログで、和裁道具のことを紹介したいと言うと、次々に台の上に並べて、説明してくれる。中には、何に使うのか判らない道具もあり、長年この仕事に携わってきた者として、無知なことが恥ずかしくなる。

彼女には一人息子がいるが、小さい時には、子どもが仕事場に入らないように、気を使っていたと話す。それはもちろん、針や鋏類があるので危ないこともあるが、「母親が仕事をしている場所」として周知させる意味もあったようだ。そんな息子さんも、今はもう立派に成長して、社会人として働いている。それではこれから、それぞれの道具について、話を進めることにしよう。

 

裁ち台と二尺ものさし、鉄製の重し。画像の奥には、短い一尺ものさしも見える。

和裁仕事には欠くことの出来ない作業台が、この裁ち板台。台の上では、尺さしで寸法を測りながら、反物にヘラで印をつけ、裁断をする。長さは、縦が1尺3寸ほど(約50cm)で、横が5尺5寸(2m10cmくらい)。女性のキモノ身丈は、長くても4尺5寸を越えることはほぼ無いので、反物を広げて寸法を当たるには、この板幅があれば十分。

この裁ち板、少し持ってみたところ相当に重い。厚さはおよそ1寸(3.75cm)ほどで、木の材質は判らないが、栃の木か欅、あるいは桂の木あたりだろうか。保坂さんによると、この裁ち台は、独立する時に、修業先の和裁所から贈られたもの。長くて、しかも重いので、とても家の階段からは持ち上げられず、下から二階の窓まで吊り上げて、何とか仕事場へ運び入れた。台は下に支え木を置き、床から4寸(約15cm)ほど上がっている。台にこれくらいの高さが無いと、無理のない姿勢で仕事に掛れない。

鉄製の重し。これで約1.5㎏ある。和裁には不釣り合いな形状なので、何に使う道具か私には理解できなかった。これは、針を打つ時に生地が動かないように置く「重し」であり、生地を整える時にも使う道具だそうだ。これも裁ち板同様に、和裁所から貰い受けたもので、どうやら鉄工所で製作されたらしい。職人として独立するにあたり、和裁所は弟子に様々な道具を提供する。これも、古き良き徒弟制度の習わしなのだろう。

寸法を測るものさし・尺さしは、当然和裁仕事には欠かせないが、呉服屋である私が2尺さししか使わないのに対して、和裁士は短い1尺さしも併用する。細部の寸法を測る時には、やはり短い尺の方が使い勝手が良い。

 

画像の真ん中にある、針山を頭に付けた木の棒が「くけ台」で、和裁士必須の道具。

ここには、予め「掛針(かけはり)」と呼ぶクリップ状の金具を取り付けて置き、この金具に生地を挟んで引っ張り、縫い進めて行く。特に単衣の時に多用する、生地を三つ折りにして縫い止める「くけ縫い」を施す時や、しつけを付ける時、さらに生地に折りの癖をつける時には、このくけ台がどうしても必要になる。

くけ台は、床に置く台の上に座布団を敷き、そこに座って台を固定する。画像からも、保坂さんが座っている布団の下に、くけ台の板があることが想像できる。そして、てるてる坊主のような形状をしている棒の先端が、針山になっている。

このくけ台の先は、最初から丸い形状になっているが、使い手は、糠を木綿布で丸く包んで、針刺し・針山としている。保坂さんが使う針山は大きく、かなりの数の針を刺すことが出来そうだが、そのためか分からないが、彼女はこれを、「坊主」と呼んでいた。なおくけ台は。折りたたみ式になっていて、コンパクトに片付けることも出来る。

画像のようにくけ台を使って、針を進めていく。針山が台上にあるので、スムーズに針を取り置き出来て便利。

単品でも売られている「かけはり」。保坂さんが使っている、布団下で固定するくけ台は昔ながらのものだが、机にネジで取り付ける「机上くけ台」もある。当然かけはりも、この台に引っ掛けて使う。

 

和裁の基本中の基本道具・針と指貫。針は、長い方がまち針、短い方が縫い針。

針と一口に言っても、様々な太さと長さのものがある。保坂さんが使っているものは、縫い針が「四の三」で、まち針が「四の四」と呼ぶもの。この数字は最初が太さを、後が長さを表している。和裁に使用する針は、大概四の二か四の三。縫い合わす布を止めたり、縫い止める印に使うまち針は、目印としやすいように、頭に丸い飾りが付いたものを使うことが多いが、保坂さんは針の長さで、縫い針とまち針を使い分けている。

指貫(ゆびぬき)はご存じの通り、針の当たりや滑りを抑えるための道具で、中指に付けて使う。この指貫は、文字通り指を傷めないための保護具だが、画像にあるように、なめし皮を使ったものと金属製のものとがある。

針と並ぶ和裁の基本道具・縫い糸。色とりどりの絹の手縫い糸と浴衣用の木綿糸。

一般的に縫い糸は、誂える品物の地色に合わせた色を使う。保坂さんは、ある程度色は揃えておくものの、到底それだけでは間に合わず、仕事の都度、糸を調達することが多いようだ。無論正絹の品物には絹糸を使うが、浴衣を始めとする綿モノには綿糸を使う。また、しつけ用に使う細い絹糸(通称ゾべ糸)も、別に用意されている。

もう一つ基本の和裁道具・鋏。長い方が裁ち鋏、短い方が糸切鋏。

この裁ち鋏と糸切鋏は、丁寧に研ぎながら、和裁士として独立してから30年、ずっと使い続けている道具。裁ち鋏は長さ7寸(約27cm)、糸切鋏は約半分の3寸5分(13cmあまり)。どちらも手に馴染んだ鋏なので、これかも大切に使い続けたいと話す。やはり愛着と言うのは、長く使うことで生まれるものなのだ。

 

袖丸みを付ける時に使う、金属型。丸みの寸法に合うように、各々作られている。

これは何に使うか、お客様にはわからないかも知れないが、呉服屋ならば、すぐにピンとくる道具。この四方を丸く切り取った金属の型は、袖の丸みを作る時に「型紙」として用いる。よく見ると、型の四隅の切り方は、それぞれ異なる。一番少ない丸みは5分で、これは通常のキモノ袖に使う。そして1寸、2寸と徐々に丸み幅が広くなり、一番広い3寸や3寸5分は、振袖や子どもの祝着の袖あしらいに使うもの。

もう一つ、何に使うか分からない道具。これを、「袖まんじゅう」と言う。

このヘチマ型の枕も、私が知らなかった道具の一つ。これを袖付や肩付のところに入れて、丸みに沿うようにアイロンがけをすると、袖に余計な折り目が付かず、きれいな仕上がりになる。中に入っているのは、細かい木の粉・おが粉で、スチームアイロンの湿気に強いことから使われている。この曲線をきれいに仕上げる道具は、和裁だけでなく洋裁にも使われている。

 

そして最後に紹介する道具は、保坂さんが修業時代に書き記した一冊のノート。

「これは、自分しか理解できない書置きです」というノートだが、今も困った時や忘れていることを再確認したい時には、取り出して読むそうだ。ページは外れて、すっかり赤茶色に変色したノートだが、その一枚一枚には、職人への道を辿る足跡がしっかりと付けられている。字面からは、職人を目指す思いが、滲み出ているようだ。

例えば、大学時代に使ったノートを今も読み返すことがあるだろうか。おそらくほとんどの人が、ノートの存在すらとっくの昔に無いだろう。しかし職人は、今も40年前の学びの記録を大切に保管し、かつ使い続けている。ここに、職人の真摯な「学びの姿勢」を見ることが出来る。そして、何と職業意識の強いことかと思う。私は、この古びたノートを見て、自分が恥ずかしくなった。

 

この裁ち台の上で、一体何枚のキモノを誂え、そして手直しがされていったことだろうか。台の木目だけが、和裁士の不断の努力を見ていたのだろう。これからも、バイク呉服屋の仕事が続く限り、道具は使い続けられる。その道具たちに、改めてよろしくと挨拶しながら、保坂さんの仕事場を後にした。

今日ご紹介した和裁士の道具は主なもので、まだ他にも幾つかある。また機会を見つけて、和裁士だけでなく、他の加工職人の道具も、ピックアップしてお話してみたい。皆様が今日のこの稿で、誂え仕事の現場の空気を、少しでも感じて頂けたら嬉しい。

 

どんな仕事でも、陰からその仕事を支える「縁の下の力持ち」の存在があります。この人たちは、決して表から実際の姿は見えず、仕事のほんの僅かな部分だけに、そのかすかな影を伺うことが出来ます。和裁士は、品物に施された一目一目の小さな縫い目に、その姿が凝縮されていると言えましょう。

厳しい修業を経た後、様々な経験を積み重ねることで、腕を上げていく職人たち。そこには必ず、「腕一本で身を立てる」という強い意志があります。現代の人から見れば、融通の利かない不器用な生き方と思えるでしょうが、一つの道を貫く清々しさ、潔さを持つ人は、もうこの先、ほとんど生まれてこないような気がします。

こんな職人さん方と、共に仕事が出来ることを感謝しつつ、私はもう少し、呉服屋を続けてみようと思います。今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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