バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

型絵染と紅型 その魅力を探ってみる(後編) 「用の美」への意識

2023.05 10

ここ数年、「金継ぎ(きんつぎ)」が静かなブームになっている。これは、破損した陶磁器を漆で接着し、そこに金や銀の粉を使って装飾を施し、修復させる技法。割れた箇所を継ぎ、欠けた部分を埋め、ヒビが入った所は補強する。古くは縄文土器の修復に、近くは桃山時代に茶器の修繕に用いた伝統的な技だが、使い捨ての時代と言われる今になって、こうして脚光を浴びることは、とても意外な気がする。

コロナ禍の巣ごもり需要もあり、家庭で手軽に出来る陶器の修繕キットは、かなり売り上げを伸ばしたらしい。また本格的に技術を学ぶ教室はどこも盛況で、金継ぎに関する認知度は、以前とは比べ物にならないくらい上がっている。このことから、深い愛着を持ちながら器を使っている人が、相当数世間に存在していることが判る。つまりそれは、「モノを慈しむ気持ち」が、未だに日本人の心の中に残っている証左と言えよう。

では、「直してまで使いたいモノ」とは、どのような質の品物か。例えば、それが器だとすれば、陶芸作家の手による芸術性が高い作品や、作り手のセンスが感じられる個性的なモノならば、使い手はやはり修復を考えるだろう。けれども、品物に対する愛着は、質の高さとは無関係なことも多い。それは使い続けてきた時間や、求めた時の経緯など、使っている人各々の「心持」によって生まれるものだから。なので、極めて安価なモノでありながら、金継ぎをしてまでも、直したくなるモノが出てくるのだ。

 

近代日本を代表する思想家・柳宗悦(やなぎむねよし)は、無名な職人の手で作る日常品に対して「美」を見いだす運動・民藝運動を提唱する。この新しい美の概念の普及は、後に日本民藝館という美術館を創設し拠点とすることで、運動を広げていった。

柳は、イギリスの思想芸術家・ウイリアムモリスの提唱した「アーツ・アンド・クラフツ運動」に影響を受けている。これは、産業革命以後のイギリスで、大量生産による安価な粗悪品が大量に出回っていたことを危惧し、中世の職人的な工芸の復活を提唱すると共に、芸術と生活の融合を目指した運動だった。柳の見出した美とは、民衆的な工芸、すなわち民藝における創造的な仕事。それはともすれば価値が低いとみなされ、一部では「下手物(げてもの)」と呼ばれていたような、風変わりで大衆的な器物を掘り出し、そこに焦点を当てることだった。

型絵染の先駆者・芹沢銈介は、柳が見出した美意識に深く共鳴し、共に民藝の道を進むことになる。主眼は「生活の中における美の追求」であることから、芹沢の仕事は多岐にわたり、その作品はキモノばかりではなく、身近な日常にあるモノとして出会える。今日はこれから、そんな芹沢の仕事を、「用の美」という観点からご紹介してみたい。

 

うちで所蔵している芹沢の作品「いろは文様・訪問着」。先代の私の父は、この品物を1977年(昭和52)年頃に求めたようなので、すでに半世紀近く店で持ち続けていることになる。当然のことながら、すでに商売のタネになるようなシロモノではなく、お蔵の奥に入って長く眠っている。

芹沢が、初めて沖縄の工芸品に出会ったのは、1928(昭和3)年のこと。この年、東京・上野で開催された国産振興博覧会において、沖縄の工芸品が特設展示された。芹沢は、そこで出会った紅型に強く惹きつけられたことが、後の仕事に大きな影響を与えることになる。「格好よく使いやすくなければ、モノは売れない。モノが売れなければ国は立ち行かない」との考えに立って設立されたのが、東京工業高等学校(現在の東京工業大学)の図案科である。1916(大正5)年にこの学校を卒業し、故郷静岡の工業試験場に就職した芹沢は、漆器や染織品、木工品の図案指導を行い、自らも懸賞ポスターに応募し、その図案は数々の賞を得ていた。そんな時に出会ったのが、柳宗悦であり、沖縄の民藝品であった。

芹沢銈介が没したのは、1984(昭和59)年の4月5日。享年88歳であった。上の画像は、亡くなって二か月後に静岡の芹沢銈介美術館で開かれた、追悼展のパンフレットと入場券。パンフレットには暖簾の代表的な文様・一本松文を使い、入場券にはいろは文様が描かれている。キモノや帯は言うに及ばず、本や冊子の装幀、団扇やカレンダー、店名入りマッチ箱などの身の回り品、さらに絵本に陶器にインテリアまで、描いた題材は多種多様で、とても紹介しきれたものではない。

染色作家でありながら、画家でもあり、デザイナーやイラストレーターのような側面も持つ「多面的な芸術家」。芹沢の作品からは、様々な領域を網羅した、そんな奥深い美的センスが感じられる。今回は、皆様にその端緒だけでもご覧頂きたいと思う。

 

(甕垂文 芭蕉布キモノ・1961年)

甕に釉薬が垂れた姿・甕垂模様を抽象的にデザイン化し、琉球芭蕉布の上に描く。

(苗代川文 水色地紬キモノ・1955年)

16世紀末、薩摩藩主・島津義弘が朝鮮に兵を進めた際、半島から連れ帰った名工たちの手によって開かれた薩摩・苗代川焼。芹沢は、この窯の風景をモチーフにしてキモノに描いた。

(柳文 金茶地紬帯・1931年)

この柳模様の紬帯は、芹沢の描いた型絵帯としては最も古く、1931(昭和6)年の作品。この年は、柳宗悦が「雑誌・工藝」を創刊した年だが、芹沢はその表紙の装幀を任され、当時の発行部数500全てを、型絵布を使って仕上げた。これが後に、数多くの装幀を仕事として請け負う契機になっている。

 

(雑誌・工藝の表紙 第17号と第67号)

先述した芹沢の手による「工藝」の表紙装幀。工藝は、1951(昭和26)年まで発行され、その数は120冊に及ぶが、芹沢が描くタッチは、最後まで変わることがなかった。使った挿し色は、弁柄色、鼠色、黄土色、そして藍色。和染めの基本となるこれらの色を、忠実なまでに用いた。

(山崎豊子著 「ぼんち」 ハードカバー本函・1960年)

(石野径一郎著 「守礼の国」 ハードカバー・1968年)

(海音寺潮五郎著 「西郷隆盛」 ハードカバー本函・1976年)

「工藝」表紙の仕事を終えた後、芹沢は多数の本の装幀を受けた。その多くは、しっかりと製本されているハード本のカバーや函のデザイン。本を丁寧に保管するための函(外箱)を、さりげなく美しく引きたてる。どれも、一目で「芹沢の作品」と判る。

社会派の小説家として知られた山崎豊子は、初期の頃は大阪・船場商人(あきんど)の生き様を題材にすることが多かった。「ぼんち」はその代表作の一つ。この函デザインのモチーフは、狂言の丸(紋尽くし)文様。石野径一郎は沖縄出身の作家で、沖縄戦を描いた「ひめゆりの塔」の作者として知られている。「守礼の国」のカバーデザインは、守礼門のシーサー。海音寺潮五郎は歴史小説をメインとし、NHKの大河ドラマでは、幾つかの作品の原作者となっている。西郷隆盛は、鹿児島出身の海音寺が、最もこだわりを持って執筆した人物。芹沢が函デザインに選んだのは、波文。

 

(宮城 鳴子温泉 鳴子ホテル マッチ箱)

(東京 台東区下谷 池の茶屋料理店 マッチ箱)

(東京・杉並区荻窪 いづみ工芸店 マッチ箱)

喫煙者の肩身の狭い今、タバコを自由に喫える店というのは、ほぼ絶滅しているだろう。しかし昭和の時代には、いつ何処の場所でも、多くの人が煙をくゆらしていた。そして多くの店では、宣伝も兼ねてオリジナルのマッチ箱を製作し、訪れる客に手渡した。百円ライターが生まれる以前、喫煙者にとってマッチ箱は必携品であったからだ。本のカバーもそうだが、このマッチ箱のデザインこそ、日常の中の美・用の美の最たるものだったように思える。

鳴子ホテルは明治六年創業の老舗。現在も伝統ある湯治文化を継承しつつ、立派な建物で営業されている。マッチのデザインは、鳴子名物のこけし。電話番号がひと桁の3番で、時代を感じさせる。ギリシャ風呂と記してあるが、それはギリシャ風建築の風呂ということなのだろうか。次の下谷・池の茶屋という料理店は、探したが見つからない。マッチに池之端の文字が見えるので、おそらく上野の不忍池のそばに店があったのだろう。最後のいづみ工芸店だが、現在もこのマッチ箱が製作された当時と同じ、荻窪のすずらん通りで営業を続けている。この店の先代店主・山口泉さんは、棟方志功を始めとして多くの工芸作家と交流があり、芹沢もその一人であった。そんな縁から、マッチデザインを依頼したと思われる。店は今、息子の浩志さんが受け継いでいる。

 

(東京 日本橋 ざくろ 和食料理店 行灯)

(同じく ざくろ 和食料理店 メニュー品書き)

日本橋の「ざくろ」は、しゃぶしゃぶ鍋の草分け的な存在の老舗料理店で、昭和30年代に創業された。日本橋店は先頃閉めてしまったが、現在銀座、室町コレド、赤坂TBSに三店舗を構えている。数年前、バイク呉服屋も銀座店で食事をしたことがあったが、民芸調の店の入り口には、芹沢が設計した行灯が置かれ、芹沢が染めた暖簾が掛けられていた。また店内には、棟方志功や浜田庄司の作品も見られる。

芹沢の仕事は、染モノの域をとっくに越えて、インテリアやエクステリアにおいても、個性あふれる優れたデザインを沢山残している。屏風や行灯などの小さなものから、美術館(倉敷・大原美術館)内部の設計に至るまで、その数に枚挙の暇がない。これほど美の領域で幅広く作品を残したのは、芹沢銈介を置いて他には見つからず、まさに芸術の巨人と呼ぶに相応しい人物であったように思う。

 

最後に、うちの店内に飾ってある芹沢の型絵染額をご覧頂こう。連山の間に、鳥と蝶と魚と梅花を描いている。地色は藍色で、生地は紬。山の連なりと四季折々の花鳥との組み合わせは、ポピュラーな芹沢図案と言えようか。

今日は「用の美」をテーマに、様々な芹沢銈介の作品をご覧頂いたが、少しでも皆様に型絵染の魅力と、芹沢という人物の壮大さを感じ取って頂けたら嬉しい。紹介したい作品は山ほどあり、簡単に終われるものではない。いつか機会を設けて、続きの話をしたいと考えている。最後に、芹沢が生涯の師と仰いだ柳宗悦の言葉で、稿を終えよう。

 

芹沢は立場をくずさない質で、いつも沈黙しているが、考えがぐらつかない。いつも謙虚で控えめなところが、私たちの尊敬を集める。あれだけ仕事をしていて、世間から認められないのは、自分を広告しないから。世渡りが下手なのは、仕事への気持ちが一筋な証拠でもある。報いが今は乏しくとも、いつか仕事は勝負を定めるだろう。(民藝76号 1937・昭和12年6月)

師は芹沢のことを、光が当たる前に正しく評価し、未来の姿を正しく予測していた。

 

陶磁器の金継ぎと同じように、使い続けている中で、「どうしても、直したい」キモノや帯があります。世代を繋いで使う振袖や留袖は、汚れを落とし、寸法を直しながら、晴れの日の出番を待ちます。そして、着尽くされたカジュアルモノは、着ていた母や祖母の姿を思い起こしながら、手を入れて、再び品物に命を吹き込みます。

直しを依頼される方々の品物を愛する気持ちは、請け負う側の呉服屋の心にも、何とか使えるようにしなければという気持ちを喚起させます。モノを大切にし、慈しむ気持ちを持つ方がおられる限り、和の装いは簡単に廃れない。そう思います。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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