たまに頂く読者からのメールで、「よく話のネタが尽きませんね」と感心されることがあるが、実はブログのテーマは、二か月先くらいまでほぼ決まっている。今は月に4回の更新で、そのうち一度は必ず、季節に相応しい品物を選んでコーディネートを試す稿。後は月ごとに内容は違うが、出来る限り請け負った仕事を紹介しつつ、呉服屋の日常にどのような時間が流れているのか、それを見て頂きたいと考えてきた。こんなブログコンセプトは、この十年の間全く揺ぎはない。
結局ブログのネタ元の多くが、お客様のリアルな依頼の中に存在している訳で、仕事を請け負う日常が続いてきたからこそ、「ネタが切れる」事態にはならず、原稿を書き続けることが出来たのだ。だから、これまで私に仕事を振ってくれたお客様方には、感謝の他無く、ここまでブログが継続出来た意味において、大きな役割を果たして頂いた。
けれども最近、筆の進みが極端に遅くなった。最初の頃は二日以内に仕上がった原稿が、四日経ってもまだ書き終わらない。家内は書く回数を減らせばと言ってくれるが、一週間に一度くらいは更新しないと、このブログの存在感が示せなくなりそうな気がする。開設当時は月に13回も稿を起こしていたのが、今となっては到底信じられない。おそらくそれは、余程私の中に「書きたいことが溢れていた」からだと思う。
さて当たり前だが、今月は28日までしかない。他の月と比べて2月が短いのは、現行の太陽暦の基礎となるユリウス暦(紀元前45年、共和制ローマの執政官ユリウス・カエサルが実施した暦)に、その理由がある。この時代の暦の始まりは3月からで、一年365日を各月に30日・31日ずつ振り分けると、最後の月はどうしても足りなくなってしまう。そこで仕方なく、年の終わりの2月が、日数調整に当てられていたという訳なのだ。
いつもより3日足りない2月は、ブログ原稿を書く力が衰えたバイク呉服屋を直撃し、かなり時間に追われている。ユリウス暦では、2月28日は年の終わり・大晦日に当たる。果たして除夜の鐘が鳴る前に、今月最後のコーディネートの稿を書き上げられるだろうか。今回選んだのは、春の街歩きで装って頂きたい、明るく可愛いキモノと帯。 さてどのような姿を作るのか、これからご覧頂くことにしよう。
(生成色 ちりめん椿模様・型絵染帯 宍色 摺り込み絣・長井紬)
このところ店に来られるお客様が、飾ってある品物を眺めながら、「今の季節が、一番松木さんの店らしい姿」と仰って下さる。確かに店の中は、バイク呉服屋好みの淡いパステル色のキモノや帯に彩られ、明るい雰囲気に包まれている。地色は桜やサーモンなどのピンク系を始めとして、若草色や鶸色の緑、水色や浅葱色の青、紅藤やライラックの浅い紫、そして菜の花やミモザの黄色と、春らしい姿を演出出来る色を選んでいるので、一目で旬を感じて頂けるのだろう。
また図案のモチーフも、梅や椿、桜など春を演出する植物が目立つ。裏を返せば、装う時期が限定される品物になるのだが、旬の装いは、最も贅沢な着姿である。このような品物を提案することこそ、専門店ならではの仕事と思うが、一方お客様にとっては、「季節が限られる品物を手にすること」は、どうしてもためらいが先に立つ。もちろん、季節に応じた着姿を演出したい気持ちはあるのだが、出番が限られる品物を購入することは、贅沢で勿体ないとも思われるのだ。旬の装いの実践にはいつも、こうした着用する人の葛藤が垣間見られる。
けれどもやはり、柔らかなパステル色を好み、優しく可愛い着姿を好む私としては、一目で春の訪れを感じさせるような、キモノと帯をコーディネートして、ぜひ春姿を演出してみたい。という訳で今日は、そんな「バイク呉服屋好み」を目いっぱい表現するために、椿染帯と淡い春色の紬を選んでみた。ではまず帯から、ご紹介して行こう。
(ちりめん生成色地 椿模様 型絵染帯・最上)
春を代表する花となると、やはり梅と桜が双璧であろう。文様としても多様に意匠化され、様々な自然風物とも組み合わせて描かれてきた。中国より伝わった梅は、古来から人々に親しまれ、万葉集の中には梅を題材とした歌が数多く見受けられる。そして平安貴族に愛でられた桜は、今日まで日本人の心の花として、存在している。だがこの二つの花に負けぬほど、深い歴史と宗教的背景を持つ春の花がある。それが椿である。
古都・奈良に春を告げる行事として知られている、東大寺二月堂のお水取り。正式には「修二会(しゅにえ)」と呼ぶ法会で、毎年3月1日~14日にかけて執り行われる。別名「十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)」と呼ばれているこの法会は、二月堂のご本尊・十一面観世音菩薩の前で、我々が日常犯している様々な過ちを懺悔することを目的とする。この観音さまの傍ら・須美壇(本尊を安置する場所)に飾られているのが、和紙で作った椿の花であり、一緒に供える南天飾りと共に彩を添えている。
752(天平勝宝4)年、二月堂を創建した僧・実忠(じっちゅう)によって始められた修二会は、これまで一度として途絶えたことがなく、今年で実に1272回目を迎える。この法会は仏教の懺悔作法だけでなく、修験道や密教、古神道など様々な宗教の要素が複合的に取り入れられているのだが、椿の花が菩薩の傍らに設えられる理由は、この複合性と大きく関りがある。
修験道(しゅげんどう)とは、山へ籠って修行して悟りを開く「山岳信仰」に、仏教や密教、道教など様々な宗教が習合して出来た信仰の形態で、平安期頃に確立されたと言われている。古来より椿は、この修験道において、神を祀る場所を浄化し、穢れや魔から身を守る役割を果たす植物として認識されてきた。こうした背景から、強い生命力を持つと考えられたこの花が、神事には欠かせない「神木」となり、修二会に供える花(供華)として、今日まで用い続けられているのである。
そんな訳で椿の花は、信仰と強く結びついており、梅や桜とはまた違う深い意味で、「春に相応しい花」と言えよう。花そのものは、江戸時代に鑑賞栽培が盛んになり、「百椿図(ひゃくちんず)」が描かれるなどブームを迎えるが、文様としてはこの時代に確立し、以後多様な花姿を表現するようになった。また、小難しいつまらぬ話になってしまったが、本題に戻して、この椿帯のあしらいについて、話を進めることにする。
かなりシボの大きいぽってりとした「鬼シボ縮緬」の生地を使い、型絵染を使って椿の花だけを描いている。型絵染とは、模様を描いた型紙を用いる染色方法で、この型紙の絵図案を自由に創作出来ることから、「型絵」の名前が付いた。その技法としては、模様を切り抜いた型紙を通して糊を布に置き、その糊が乾いたところで、糊の無い部分に色を染める方法や、糊を使わず、型紙に切り抜かれた模様のところに、直接染料を刷りこんで模様付ける方法など、様々なものがある。
型絵染は他の型染と同様に、一定単位の文様を繰り返して染めることが出来るが、この帯の図案も、横に五つ並んだ椿の花が、五段で一つ単位になっているのが判る。型染めなので、このパターンを繰り返し染めて模様にしている。
花と花の間隔は段ごとに少し異なるものの、花の大きさはほぼ同じ。花弁や葉の形状は若干違うが、規則性はある。花だけを羅列した図案だが、カッチリとしながら柔軟性があり、デザインとして可愛い椿の姿になっている。縦の花並びも少しよろけていて、所々不規則に地が空いている。こうしたところに、作り手のセンスが表れている。
花の色は、紅色と朱色、そして縁を濃く暈した桜色。同色の花が重ならないよう、バランス良く三つの色の椿を配置したことで、すっきりと明るくなった。同じ模様を繰り返す型絵染帯は、どうしても単調になりがちだが、こうした工夫で表情豊かな帯姿となっている。葉の色は鶸色が基本だが、葉先の所々が深緑に暈され、色のアクセントが付いている。全体的には淡い色が主体で優しい雰囲気を持つが、効果的に濃い目の紅色や朱色を使うことで、可愛い中にもメリハリの付いた帯として仕上がっている。
椿の旬は、12月から3月にかけて。冬の花でありながらも、春を待ち望む花という印象が極めて強い。二月末の今は、まさに「冬の終わり・春の入口」に当たり、椿を装うには、またとない時期である。それでは、どのようなキモノを合わせれば椿の存在感が高まり、「春を先取りする着姿」を演出出来るのか、考えてみよう。
(宍色地 摺込み絣 置賜長井紬・渡源織物)
春の色を考えると、やはり暖色系の淡い色に目が向く。代表花である梅や桜、そして椿は紅や淡いピンクをイメージするので、必然的に赤系統が春の主流の色となる。けれども、ふわりとした雰囲気にしたいがために、地色は淡くなる傾向が強く、結果として赤ピンク系ばかりでなく、クリームや橙色など柔らかい気配の色が多く使われている。
今回選んだ長井紬の地色も、「宍色(ししいろ)」と名前が付いている薄い橙色。宍色とは肌色のことを指し、サーモンピンクを淡くしてベージュに近づけたような、そんな色の気配を持つ。桜や紅色とはまた違う、温もりを感じさせてくれる色である。
長井紬は、経糸に生糸を使い、緯糸に紬糸か玉糸を使った平織物。織生地の表面がツルっと滑るような風合いが特徴で、軽くて着心地の良い紬。地色は紺や鼠、茶など渋い色が多いが、最近ではこの品物のように、明るくポップな感覚の色も増えてきた。
絣模様の配置は、ご覧のように反物を7:3に分けて、一方に目立つ絣を付けて、片方がほぼ無地になっている。紬では、こうした模様付けをたまに見かけるが、この手の品物は、仕立をする時の模様の位置取り(模様積り)によって、出来上がったキモノ姿が変わるので、購入されたお客さまにはその旨を伝え、どのような柄行きにするのか相談する必要がある。
絣模様は極めて単純で、短い縦の三本縞が等間隔で配置され、時よりその間にごく小さい横縞が入る。絣は単色で、どちらかと言えば、地色の宍色が着姿の前に出てくる。密に模様が付く型絵染の帯に対しては、地の空いたすっきりとしたキモノの方が、やはり上手く収まる。そんな意味で、この紬を選んでみた。
なおこの絣は、糸を長く張って、絣とする部分にヘラで色を摺り込む・摺込み絣という方法で作られているが、この方法は、地色より濃い色の絣を作る時に用いられる。淡い色に絣が入っている品物は、ほぼ摺込み絣と考えて良いだろう。なお長井紬では他に、筆で図案を糸に写し取り、糸束と一緒に張って印を付けたところを木綿糸に巻いて括る・手括りや、板に糸を巻いて、そこに型紙を当てて染料を塗り込む・型紙捺染という方法があるが、いずれも伝統工芸品として認定される「告示」にそった技法である。
余談になるが、2020(令和2)年から、置賜紬の組合証紙が上の証紙に変更された。これは米沢・長井・白鷹の三地域の織物に付ける証紙だが、変更されたことにより、古いモノと新しいモノが簡単に判るようになった。つまり、以前の証紙が貼ってある品物は、今から3年以上前に作られたことになるのだ。
また証紙の表示方法も少し変わり、以前のものより判りやすい形式になった。少し画像が見え難いと思うが、産地表示は長井に丸印、そして製織方法は手機、絣は摺込みに印が付いている。そして伝統工芸品の証・伝産マークが貼ってあるので、この長井紬は、きちんと組合の検査を通った正規の置賜紬と証明されている。最近では、ネットなどで出所の判らない品物を数多く見かけるが、こうして、証紙で正規の流通品とそうでない中古品を見分けることが出来れば、品物の価値基準を考える上で、かなり参考になると考えられる。これも産地の「自己防衛」の手段と思われるが、これだけ流通経路が多岐にわたってくると、こうした試みは各産地で必要になってくるだろう。それでは、この紬と帯のコーディネート画像をご覧頂こう。
柔らかな長井紬の宍地色は、帯の椿の花色の一つとリンクしている。キモノの絣模様には、あまり主張が無いが、それだけに椿の花が着姿の中で強調されて、より春を感じさせてくれる。帯地のふわりとした縮緬の風合、そして紬地のさらりとした手触り。こうした生地の感覚も、春の装いには相応しい。間違いなく、明るく、可愛く、そして上品な早春の姿になっていると思うのだが、どうだろうか。
帯の前姿をみると、椿の並びの不規則さがよく判る。同時に、花の色を上手く散らしているので、平板な模様姿にはならず、花の可愛さが増している。余計なものを添えず、シンプルに椿の花だけをモチーフにしたことで、より個性的な春の姿になった。カジュアルで装う帯は、いかにデザインと配色が大切であるかが、思い知らされる。
画像では隠れているが、帯揚げは、椿模様を絞りであしらった凝った品物。地色は薄ピンクで、赤紫で椿を表現している。帯〆も極めて珍しいドット模様。薄いピンク地に、赤紫のドット。これは、「内記台」というからくりのような精緻な構造の組台を使った平紐で、江戸時代に考案された組紐。どちらも使うことが楽しくなりそうな、春向きの小物。(内記組帯〆・中村正 模様絞帯揚げ・加藤萬)
さて今日は、春を先取りする街着として、椿の型絵染帯と淡色の長井紬を選び、コーディネートしてみたが、皆様に春を感じ取って頂けただろうか。季節が限定される品物をどのように考えるか、人それぞれに違いはあるだろう。もちろん、「着用の期間」を考えれば、勿体なく思えることも十分に理解出来る。だが、キモノや帯で表現される色や文様は、予めそれを装うことに相応しい時期を、ある程度想定しているように思える。
春には春らしい優しさを、秋には秋らしい落ち着きを、単衣には軽やかな色合いを、そして薄物には、人の目を奪う涼やかさを。各々の季節には、各々に向く色と図案・意匠がある。それを着姿として表現出来るのは、和装しかない。だから旬の装いに躊躇することは、和装の楽しさに半分手を付けていないような気がして、何とも勿体ない。四季が写し取られたキモノと帯の文様には、四季のある国に生まれた作り手の感性が、凝縮されているのだから。
ぜひ皆様には、ほんの僅かでも良いので、季節を装いの中に取り入れて頂きたい。最後に、今日ご紹介した品物を、もう一度どうぞ。
何とか2月の月内に稿を書き上げて、ブログを更新することが出来ました。書くネタにはあまり困らないのですが、資料を読み取る力や、文章をまとめる力は、確実に落ちていると実感しています。少し形式を変えて、簡素な話にすれば楽になるのでしょうが、それは判っていても難しいですね。何事も、一度決めたことは変えない、変えられないという、私の偏屈な性格が邪魔をしています。
ただブログを始めて、今年の5月で10年が経ちます。曲がり角を迎えていることは確かで、今後どのような内容にしていくのか、再考する必要があるかも知れません。また最近の稿は文章が固く、自由闊達さが無くなっているようにも思えます。もう少し、自分が書きたいように書いてみるべきでしょうかね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。