バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

近世の外来模様・名物裂写しを探る(前編) その起源と多彩な織組織 

2023.02 13

バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣が生まれたのは、いつのことだっただろう。バイク呉服屋が中高生だった、昭和40年代終わりから50年代初頭にはすでに、2月14日は女子がチョコ持参で愛を告白する日として、盛り上がりをみせていたような気がする。その当時の男子は誰しも、気になる女の子が一人や二人はいたものだが、その子が誰かにチョコを送ったとの噂を聞こうものなら、その落胆ぶりは計り知れないものがあった。今と比べると、この時代の少年は、まだみんな純情だった気がする。

日本チョコレート・ココア協会のHPによれば、初めて、バレンタインデーにちなんでチョコレートを販売したのは、1958(昭和33)年のこと。今も続く老舗メーカーの一つ・メリーチョコレートが、伊勢丹新宿店において、バレンタインデーのイベントセールを実施したのが最初と言われている。しかし、この時開催された三日間のセールでは、一枚30円の板チョコが5枚売れただけ。今から60年以上も前の話だが、この時にはバレンタインデーが、今日のような「年中行事化」した大イベントになるとは、思いもよらなかっただろう。

 

日本にチョコレートがやってきたのは、18世紀末。鎖国下の江戸時代、唯一の交易国として長崎に商館を置いていたオランダ人からもたらされた。そして、誰も見たことのないこの甘いモノは、「しょくらあと」と呼ばれていた。その後、本格的に品物が入ってきたのは、やはり明治維新後のことで、欧米の国情を学ぶ目的で派遣された岩倉使節団も、フランスのチョコレート工場を見学したと記録が残っている。

実際に商品として生産が始まったのは、大正に入ってから。現在大手菓子メーカーと位置付けられる森永や明治も、この頃からカカオ豆を原料としたチョコレート製造を開始する。しかし当時、このハイカラな菓子の値段は高く、庶民の口に届くことはあまりなかった。そして戦争が始まるとカカオの輸入が止まり、生産が難しくなる。生産量が飛躍的に増え、誰もが馴染みのある菓子となったのは、カカオ輸入自由化が始まった1960(昭和35)年以降のこと。バレンタインデー用にと「ハート形チョコレート」が登場したのも、丁度この頃であった。

 

食品ばかりでなく、生活に欠かすことの出来ない多くの品物は、多少時代の違いはあるものの、ほとんどが、海外からもたらされたものであろう。特に戦前と戦後で、ドラスティックに政治体制も生活様式も、そして人々の意識も変化した日本では、それが顕著であり、中でも欧米から受けた影響は計り知れない。

このように、外国との関り方一つで国情が激しく変化することは、当然の成り行きであるが、それは文様の世界、デザインのあり様も同じである。文様の黎明期は、隋や唐、あるいは朝鮮半島からやってきた東洋と西洋を混合させた、いわば外来複合的な天平文様が主体だったものが、遣唐使廃止を契機に、わが国オリジナルの和文様・有職文様へと変化を遂げる。しかし、鎌倉期の中国・宋、あるいは室町期の明との貿易により、再び輸入された外来品から、文様は大きく影響を受けることになる。

そこで今日から二回に分けて、中近世に入ってきた外来品の文様・名物裂写し(めいぶつぎれうつし)に注目して、話をしてみたい。そもそも名物裂とは何か、そして今でも多用されている文様は何か、順を追って話を掘り下げることにしよう。

 

名物裂をモチーフにした文様として、最もよく知られている荒磯(あらいそ)文。

日本独自の和文様として有職文の発展を遂げたのは、海外、特に中国大陸との交渉が途絶えた、僅かな間隙においてであった。そして以後は、日本を統治する為政者が、外国との関係をどのように捉えるかにより、文様も変化していく。平安以後の中近世は、鎌倉の平氏と源氏、北条氏による武家政権、そして室町時代における足利氏の武家と公家の融合的な政権へと続いていくが、それぞれ政権の性格は異なり、それに伴って対外的なスタンスを大きく変えている。

それは結果として、交易形式や貿易量の違いとなって表れてくる。特に室町期に入って、幕府と明の間で始まった公式な取引・日明勘合貿易は、天平期の唐との交流以上に、活発に取引が行われ、日本には幾多の輸入品がもたらされた。その中心は、明が鋳造した銅銭・永楽銭であり、織物や書物、生糸なども重要な受け入れ品であった。

 

この中で、文様に大きく影響を与えたのが、絹織物を中心とした明の染織品である。その織の種類は、金襴(きんらん)・銀蘭(ぎんらん)・緞子(どんす)・間道(かんどう)・モール・印金(いんきん)・金紗(きんしゃ)・更紗(さらさ)・ビロード等々で、総数は400点にも上る。この織物が、当時流行の途上にあった能楽の装束や茶の湯の道具、さらには書画の表装などに用いられていく。これが「名物裂(めいぶつぎれ)」と呼ぶものであり、そこに織り出されている文様は、のちに「名物裂の写し」として、染織品の中にあしらわれていくことになる。

名物裂は、日本へ渡来してきた年代によって、幾つもに区分けされている。それは、古渡り(こわたり)とか、中渡り、後渡り、新渡りなど8種類にも分類され、最も古い裂は、室町3代将軍の足利義満の時代の舶載品・極古渡りであり、最も新しい裂は、江戸中期の渡来品・今渡りである。これは中国の宋・元・明・清の四代にわたる品々であり、また16~18世紀に伝来した南方諸国の品々でもある。つまり年代も幅広い上に、その生産地域も広範囲に及んでいるのだ。

天平期に伝わった正倉院文様も、様々な国のエッセンスを含んでいたが、名物裂に見られる織技法や個性あふれる図案は、それ以上に多様な文化や感性が垣間見える。そこで今日はまず、この名物裂にあしらわれる織そのものに注目して、話を進めてみたい。

 

明代初期の織物・緞子(どんす)にあしらわれた蔓唐草。文様の名前は、定家緞子。

そもそも、この近世・明代の輸入品を始めとする外来織物を「名物裂」と称した起源は、はっきりとしていない。ただ命名に尽力したと考えられているのが、近江・小室藩主で茶人として名高い小堀遠州(正一)と、出雲・松江城主の松平不味公(ふまいこう)である。この二人によって、茶の道の先人たちが使った仕覆(しふく・茶器などの道具入れ)や、茶室の床の間に掛けられた軸・茶掛(ちゃかけ)の表装に、どのような裂が使われてきたのか、研究整理がなされた。その際に、この織物に名物裂という名前を付けたとされているので、この裂は、茶道の発達と大きな関りがあるとも言えよう。

遠州と不味公は、先述したように名物裂を年代で分類すると同時に、織の種類別仕分けも行っている。江戸の寛政年間(1790年代)に松平不味公が著した、古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)は、名物裂を知る上で欠かせない書物だが、この中の「名物切之部」には、金襴52・緞子30・間道14・その他錦や紗金12など合計108点の織物を名物裂として取り上げている。おそらくではあるが、ここに記載のあるものが、後に名物裂として認識される基本となっていると考えられる。

そして名物裂の名称も考えられ、それが即ち、写しとして使っている文様の名前になっている。それは、現代のキモノや帯にあしらわれている図案でも、変わることは無い。裂の名前は、茶碗や茶入れなど、道具を保持する人の名前(角倉金襴・筒井緞子など)や、有名な袈裟や戸帳(とちょう・御簾に似た帳)を所蔵する寺院名(興福寺銀襴・鶴岡間道)、裂を愛用していた個人名(細川緞子・舟越間道)、さらには裂の模様そのもの(花兎金襴、笹蔓緞子など)を採用したものなど、多岐にわたっている。それでは、織の中から代表的なものを幾つか選んで、その内容を見てみよう。

 

金襴は、金糸を織り込んで模様を表現する技法。牡丹唐草文は、金襴の定番。

金襴の織組織を具体的に示すと、綾組織(三枚綾・襴地)に金糸を織り込んだものとなるが、単純に、金糸を織り込んだ織物の総称ということで良いだろう。この名前は、禅僧の袈裟を金襴衣と呼んだことが端緒で、この衣を宋から輸入した時に、そこに金箔糸が織り込まれていたので、それを金襴と名付けたのである。

金襴は名物裂として。中国の宋から明代、日本では室町から桃山期にかけて、数多く運ばれてきた。武家や茶人が仕覆として愛用したり、寺院の表装や帳にもその姿が数多く見られる。あしらわれた代表的な文様には、上の画像にある牡丹唐草文や特徴的な兎図案の角倉文、あるいは鳥の頭のような花をあしらった鶏頭(けいとう)文などがある。

緞子は、繻子織によって模様を表す織物。笹蔓文様は、名物裂写しの代表格。

難しい話をしても仕方ないが、繻子(しゅす)織とは、経糸と緯糸が交わる場所を一定の間隔で配置するため、糸の浮きが多くなる織組織である。この組織は、経あるいは緯糸のどちらかのみで作ったようになり、糸の曲がりが少ない。特徴は、生地が滑らかな織表面と強い光沢を持つこと。織った地は厚くなるが、しなやかさは抜群。昔は丸帯に、いまは袋帯や一部の名古屋帯にもその姿が見られる。

緞子にあしらわれる文様として、細かい笹蔓と松笠を組合わせた笹蔓文と、鯉と思われる魚が波の上を飛び跳ねる荒磯文が双璧。特に笹蔓文は、染め織りに関わらず、様々なキモノや帯のモチーフとして使われているので、この文様に覚えのある方も多いはず。

 

間道とは、縞や格子柄の織物のこと。この日野間道は本来、横縞である。

縞や格子の織物を間道(かんどう)と呼び、古くは広東、あるいは漢東や邯鄲と、別名での記載もある。この縞モノに関しては、日本で最も古い文様と認識されており、魏志倭人伝に登場する斑布(まだらぬの・綿布のこと)は、縞織物の一種と考えられている。時代を下って、飛鳥期に伝えられた絣の錦・太子間道や、後の天平期に伝来した長斑(ちょうはん)錦や暈繝(うんげん)錦も、縞モノであった。

名物裂における縞モノ・間道が、どのような契機で入ってきたのか判然としないが、その多くが桃山期の南蛮貿易によるものと考えられている。但し、東南アジア系の縞モノは綿織物であり、間道のほとんどが絹織物であることを考えれば、これは明代に、中国華南や華中地域で製織されたと見ることが出来る。なお縞の種類は、太縞、細縞、格子縞、碁盤縞、矢鱈縞と多種多様であり、その多くに青木だの伊藤だの宮内だのと、人の名前が被せてある。

 

天平文様に続く、第二の外来文様とも呼ぶべき名物裂写し。今日はその起源と、出自となっている織物の特徴を探ってみた。正倉院的な、東洋と西洋が融合された少しバタ臭い「複合的な文様」とはまた違い、どことなく和のエッセンスを取り込んだ、すっきりとしたデザインのようにも思える。それはどこかに、「有職文」という固有の独自文様を経た「時代の経験」が、息づいているからかも知れない。

次回は、現代のキモノや帯に、どのように名物裂の文様を写し出しているか、具体的に品物のあしらいをご覧頂きながら、各々の図案の内容を詳しく見て行くことにしたい。

 

バレンタインデー発祥の地・ローマでは、この日は、すでにカップルとなっている夫婦や恋人同士で、お互いの気持ちを確かめ合い、それを祝う日と認識されているようです。なので、この日は一年で一番、レストランの予約が取り難い日でもあるとか。

3世紀のローマにおいて、崇敬されていたキリスト教の司祭・ヴァレンティヌス(ヴァレンタイン)。彼が、当時のローマ皇帝・クラウディウス2世の意に背いて処刑されたのが、紀元269年2月14日。殺された理由は、戦意が下がるとして兵士の結婚を禁じたことに背き、結婚式を執り行ったことでした。愛が何よりも尊いことをヴァレンティヌスは人々に訴え、それは死をも覚悟した強い意志によって、貫かれました。互いの愛を確かめる日・バレンタインデーは、こんな背景から生またのです。

 

ですので何故この日が、女子がチョコレートを持参で愛を告白する日になったのか、まるで意味が判りません。悲しいかな日本人には、きちんと歴史的な意味も考えずに、外国の記念日を的外れなイベントにしてしまう傾向が強いように思います。

このように愚痴を言うのも、バイク呉服屋が、これまで一度も「本気のチョコレート」を渡されたことが無いからです。奥さんからも貰った記憶がありませんので、どうにもなりません。しからば、「愛を確認する日」にしたいと思いますが、この愛もとっくの昔に時効を迎えており、国連におけるロシアのように、拒否権を行使されそうです。 今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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