ここのところ、値上げのニュースを聞かない日は無い。日用品や食品など日常に密着している生活品が、次々と値上げになる。食用油などは、春先からすでに三度も価格が変わっている。ロシアのウクライナ侵攻により、小麦など食料原料の輸出が滞り、天然ガスや石油の供給が次々に停止される事態となった。そして同時に、市場は円安に振れていて、輸入品の高騰が避けられない。これだけ悪い条件が揃っていれば、否応なく物価は上がる。
しかし先頃、日本銀行の総裁からは、「日本の家計の値上げ許容度は、高まっている」などと、耳を疑うような発言があった。誰が好き好んで、値上げを容認するのか。それでなくとも、ここ数年働く者の賃金はほとんど上がっていないので、この物価高はまさに家計を直撃する。国民は決して値上げを許しているのではなく、仕方なく受け入れているのだ。それは子どもでも判ることだが、黒田さんは、金融の総元締めに当たるお偉い方。きっと、我々庶民とは違う視点で経済を見渡しておられ、それ故にあの発言になったのだろうが、いくら深い思惑があったにせよ、国民感情を逆撫でしたことだけは、間違いなかろう。
さて値上げは、うちのような小さな呉服屋の商いにも、ひたひたと迫っている。このところ多いのは、品物はもとより、商いの道具として欠かせないモノの値段が上がること。例えば、キモノを入れるタトウ紙。多くの呉服屋では、店の名前を入れたオリジナル品を使っているのだが、発注先の呉服関連用品店からは値上げを告げられる。包む表の紙だけでなく、タトウを閉じるのに使う「こより紐」も特殊な紙で出来ているため、紙原料の値上がりが、即座に価格の上昇に直結してしまう。
そして作り手不足、高齢化が価格を押し上げることもある。呉服屋の値札・プライスタグと言えば、昔から呉服札と決まっている。別名越後札とも呼ばれる和紙製の札は、冬の農閑期に稼ぐ仕事として越後の農家女性の間に定着し、長いこと作り続けられてきた。しかし、値札一枚一枚に手で撚りをかけて作る手間仕事。時間が掛かる割には、極めて単価が安いが、これまで経験豊富な年配の方々によって支えられてきた。しかし、ついには後継者の不足から、こうした札作りも限界に達したのである。
先日札が無くなったので、発注したところ、価格はこれまでの倍近くに上がり、納期も長くなっていた。新しい品物を仕入れた時や、折れ曲がった時に付け替えるくらいで、呉服札はそれほど頻繁に必要ではない。店名が入ったオリジナル札だが、おそらく今度作った千枚で、注文は最後になるはず。それはこの先、あと数千点も品物を仕入れるほど、私が長く仕事をすることは無いからだ。
もちろんこうした備品ばかりではなく、扱う品物自体も仕入れの段階で、それぞれ値段を上げている。特に裏地類、胴裏や八掛、帯芯、新モスなどは、おしなべて一段と高くなっている。中でも綿花価格の高騰、綿糸生産量の不足は否めず、全ての繊維産業に影を落とす。それは呉服屋とて、例外ではない。
夏の装いには、欠かせない浴衣。ここ二年はコロナ禍の影響をマトモに受けて、着用の機会がほとんど失われていた。デパートも専門店も極端に販売数を落とし、それに伴ってメーカーも染める数を減らす。型紙を起こして新柄を作ることなど、あまり行われてこなかった。そこに今回の原料高が加わったことで、品物の価格が上昇し、なお扱いが難しくなってしまった。
しかしだからと言って、店先に浴衣が並んでなければ、夏の商いとして全く恰好が付かない。例年より数はかなり少ないが、一応新しい品物を仕入れた。そこで今年も、いつもと同じように、6月のコーディネートとして浴衣を取りあげてみたい。まず今日は、綿紬やコーマ地など竺仙の品物を、次回は新粋染の絹紅梅を選び、皆様に見て頂こう。
(グレー綿紬・万寿菊模様 誂え済み)
竺仙では、毎年4月上旬から全国各地のデパートで販売を始める。梅雨に入り、夏本番が近づいた今月も、日本橋や名古屋の高島屋、京都の大丸などで竺仙展を展開し、数多くの品物を出品している。竺仙の浴衣にはプレタもあるが、主力は誂えが必要な反物。百貨店での展示会中は、社員を常駐させて、販売を手伝っている。コーマ、綿絽、綿紬、そして綿紅梅に絹紅梅と生地だけでも様々あり、さらに染め方も、一般的な注染(ちゅうせん)から始まり、引き染、しごき染、そして精緻な長板中型と各々違う方法が使われている。来客者に対して、こうした品物のことを説明できなければ買い上げには繋がらず、デパートの売場社員の力だけでは、やはり心もとない。だからどうしても、売り場には知識に長けた竺仙の社員が必要になるのだ。
他方、竺仙の品物を扱う専門店では、社員が常駐する訳も無いので、当然自分の力で商品説明する他はない。生地も染め方も多様な浴衣は、学ぶということにおいては、またとない品物である。浴衣を十分に理解することが出来れば、呉服屋の売り場に立てるのではないかと私は思う。裏を返せば、それほど浴衣は多種多様で、覚えるのが難しいとも言えよう。
そしてお客様にとって、浴衣は和装の入口に立つアイテム。本格的に反物から浴衣をマイサイズに誂えたことで、キモノに親しみを覚え、和装に関心を持つようになった。そう話してくれる方も、多い。カジュアルでも、いきなり大島や結城に手を通そうとする人はあまり見かけない。まずは浴衣や小千谷縮など、気軽に着用できる夏モノで和装の良さに気付き、その後「そろそろ冬モノも」と考える。今回も、キモノの第一歩を踏み出したくなるような、そんな浴衣姿をコーディネートしてみよう。
竺仙の江戸好み浴衣として、定番中の定番・万寿菊。一見唐傘の羅列のように見える大輪の菊は、装うと小粋で垢抜けた姿を演出出来る。これまでも、綿紬や綿絽、コーマと生地を変えながら染められてきたが、やはり色の入らないシンプルな白抜きが、一番すっきりする。
綿紬の場合、織り込まれたネップ糸が作る白い筋が、浴衣に自然な表情を作る。これまでの綿紬・万寿菊は、藍地で染められていたが、グレーは初めて。藍地より落ち着きがあり、渋い装いとなるが、それがまた良い。すこし帯を工夫して、夏キモノっぽく仕上げてみよう。
(合わせた帯 墨色地霞模様 手引き真綿夏紗紬八寸帯・山城機業店)
この綿紬・万寿菊は、すでに売れてしまったので、コーディネートは誂え終わった姿でご覧頂く。柔らかいグレーの浴衣に対し、同系で少し深い墨色の帯で大人の装いにする。密集している菊を抑えるために、帯模様は出来るだけシンプルに。
手引きの真綿糸を使い、手織りされている夏紬の名古屋帯。小さく隙間の空いた紗織で、軽やかなことこの上ない。大正年間に創業した通好みの機屋・山城機業店の手による、さりげない帯姿が光る夏の佳品。
絽の帯揚げは、ごく薄いクリーム地に飛絞り模様。帯〆は、帯配色の芥子色に近い黄土。小物の色を強調せずにおとなしくまとめて、落ち着いた着姿にしてみた。 (帯揚げ 加藤萬・帯〆 龍工房)
この三点は、「店主が選ぶ、今年の新作」として竺仙のHPに掲載されているもの。バイク呉服屋の棚にも、これと同様の品物があったので、今回コーディネートで取り上げてみた。なお、画像左の萩柄と右の紫陽花柄は、型紙は同じだが、生地の質と配色が違っている。竺仙では、着用する年代や場所を想定しつつ、一枚の型紙を様々に駆使して、毎年新たな品物を染め出している。では、一点ずつ見て行こう。
(藍地綿絽・菱に萩模様)
目の覚めるような藍の地に、白抜きされた萩模様。全体が菱で区切られ、中に萩が収まっている。図案が斜めに大きく切り取られているので、誂えて見ると、かなり大胆な姿になる。但し色が入らないので涼感は抜群。込み入った模様のしつこさも感じない。
(合わせた帯 レモン色濃淡 麻半巾帯・竺仙)
最初の万寿菊もそうだが、連続した総柄的な図案の浴衣には、単純な帯の方が合わせやすい。ここは少し巾の広い、レモン色でグラデーションを付けた麻半巾を使う。藍色と黄色の相性は良く、見る者には鮮やかで爽やかな印象を与える。
(白地コーマ・市松取りに秋草模様)
白と紺の市松に地を染め分け、中には白抜きと紺抜きの秋草を配している。秋草は菊、萩、桔梗、女郎花、撫子などで、いわゆる七草図案。仕立をする際には、全体がきっちり市松図案になるよう、注意しなければならない。モチーフにも図案の型取りにも、江戸っぽさを感じさせる。
(合わせた帯 桜色 桜花散らし模様 博多半巾帯・森博多織)
竺仙HPに掲載されている、この浴衣の帯合わせには、オレンジ色の首里道屯を使っている。立体感のある花織帯で、着姿にアクセントを付けるのも良いと思うが、ここでは桜の花びらを織り出した、優しいピンクの半巾帯を使ってみた。浴衣に色の気配が無く、秋草は寂しげな風情なので、若い方にも向くようにと、明るい帯で可愛く元気にしてみた。なお、帯の桜図案が夏らしくはないのだが、日本の代表花とすれば、浴衣に合わせても構わないだろう。
(白地コーマ・紫陽花模様)
藍だけで色を挿した紫陽花が、涼しさをもたらす。白地の場合は、模様の色使いが浴衣の印象を左右するが、このように藍ひと色だけを使うと、ほとんどが爽やかになる。本来の紫陽花を考えれば、ピンクや紫を挿したいところだが、あえて藍を使って、すっきりとした着姿を目指したもの。
(合わせた帯 真紅色 麻半巾帯・竺仙)
ビビッドな真紅一色の麻半巾帯で、インパクトのある姿にしてみた。紺系の帯ならば、なお涼やかさは増すかもしれないが、思い切った赤でおとなしめの浴衣を目立たせる。シンプルな浴衣をどのように着こなすかは、帯で決まる。装う方の個性を表現しやすいのが、こんな浴衣である。
模様に色の気配のない、シンプルな浴衣。何色を合わせるかは、装う方の感性次第。この三点の浴衣各々の帯合わせを掲載している竺仙HPも、ぜひご覧頂きたい。
この二点は、図案の面白さ・斬新さから、思わず仕入れてしまった浴衣。使われているモチーフや図案の切り取り方など、これまでの竺仙の浴衣では、あまり見られなかったもの。オーソドックスな江戸浴衣も良いが、こうした変わり種も店には必要。作り手の竺仙にしてみれば、まずはバイク呉服屋に興味を惹かせることが大切。目新しさはやはり、仕入れに繋がるからだ。
(クリームコーマ地・小唐草散らしと樹木模様)
北海道の道で見かける防風林のような木々の並びと、撫子に似た小さな唐草を散らした、メルヘンチックな可愛さ溢れる図案。反物の巾を、花と木で7:3に分けているので、仕立をする際には一般的に、幅の狭い木の柄を衿に、広い唐草散らしを衽に使う。おそらく、今年新しく型紙を起こした浴衣だろうが、よくぞ思い切ってこんな模様を染めたと褒めたくなる。
(合わせた帯 琉球ミンサー 木綿半巾帯・織手 大城トヨ)
可愛い浴衣姿にしたいので、帯には、模様の唐草に挿している鮮やかな紅色を使う。先ほどの白コーマ・紫陽花に合わた無地の真紅よりも、一回り明度の高い赤。ミンサー絣がポイントとなり、メルヘン的な図案を上手く引き出すのではないだろうか。
(グレー綿紬・桜花薬玉模様)
よく子どものキモノや帯の意匠として使う、薬玉(くすだま)文。浴衣のモチーフとするのは、大変珍しい。元々が可愛い図案なので、こうして柄付けされても違和感は持たない。薬玉に使う花は様々だが、これは桜。先ほども桜模様の半巾帯を使ったが、この浴衣の桜も、あまり季節が意識されていない。誰からも好まれる桜は、花文として、このように季節を問わずに用いられる。
(合わせた帯 山吹色 並び矢模様 博多半巾帯・森博多織)
薬玉の挿し色、黄色とペパーミントグリーンを、帯の色にも使う。黄色系の帯を使えば、浴衣が何の地色でもあまり外れは無い。それだけ黄色に、装いを引き締める力があるという証拠だろう。また、絣のような矢模様のミント色は、半巾帯ではあまり見かけないモダンな色合い。
最後にご紹介するのは、男性・女性・年齢を問わず、どなたが着用しても良いと思われる浴衣。小紋的な幾何学割付け文様は、江戸トラッドとも言うべき特有の姿を醸し出す。ジェンダー平等が課題とされる今の社会だが、こんな伝統文様には、性別を越えて装うことが出来る、特別な美しさがあるように思う。
(白地コーマ・菱割武田菱文様)
反物全体を菱で割り付け、そこに武田家の紋所・武田菱を連続させた、菱尽しの図案。朱色を僅かにくすませた茜色を使い、落ち着きのある赤を表現。この赤と白のコントラストが、少し堅苦しい感じのカクカクした菱文を、和らげている。
(白地コーマ・三枡井桁重ね文様)
歌舞伎・市川家の定紋としてよく知られた三枡文様は、三つの枡を重ねて入れ込ませた図案。通常ならば四角形だが、この浴衣では枡を回転させて菱形にしており、しかもその上には、行儀よく井桁文が乗っている。伝統的な江戸の文様・三枡と井桁をコラボさせているのだが、ちょっと不思議な幾何学文になっていて、江戸モダンの雰囲気がある。色は白地に藍の染抜きで、すっきりとさせている。
(合わせた帯 鉄紺色 首里ミンサー綿半巾帯・祝嶺恭子 同色綿角帯・春山尚子)
帯は、前稿の首里織でご紹介した、ざっくりとした表情が特徴的な浮織・首里ミンサーを使ってみた。織模様こそ少し違うものの、半巾・角帯どちらも色の基調が鉄紺色で、よく似た気配。男性・女性それぞれが、どちらの浴衣を着用しても良いように、同じ雰囲気の半巾帯・角帯を用意してみた。並べて比べて見ると、ミンサーの深みのある青を使えば、男性も女性もキリリとした浴衣姿に映りそう。
ということで今日は、8点の浴衣コーディネートを試して、皆様にご覧頂いた。見慣れた伝統柄あり、目新しいモダンな意匠ありと、各々に特徴はあるものの、それをどのように着こなすかは、装う人に任されている。別にルールがある訳でなく、自分が好きなように自由に浴衣と帯を組み合わせ、気軽に出かけて頂ければ、それで十分である。
ここ二年、浴衣の出番はほとんど巡って来なかったが、今年は多くの方に、手を通して頂きたいと切に願っている。次回は、先月のブログで取り上げた「見本帳から選んだ新粋染の絹紅梅」を使い、夏キモノ的な浴衣姿を考えてみたい。
竺仙の品物は、予め上代価格(小売価格)が設定されています。このように、作り手であるメーカーできっちりと値段を決めているのは、呉服屋が扱う品物では珍しいこと。ですので、竺仙の浴衣や帯は、高島屋や三越で買っても、バイク呉服屋で求めても、日本橋小舟町に店を構える竺仙に直接出向いて買っても、価格は全て同じになります。
けれども、ここのところ毎年いくばくか値上げされているので、うちの在庫にある浴衣は、同じ綿紬、同じコーマ生地でも、各々で価格が違っています。仕入れた年の違いは、そのまま値段に反映されていますので、結果として、前から残っている品物ほど値段は安くなるのです。
ただ安いからと言っても、その品物の質が変わるようなことはなく、むしろその型紙が破損して、もう染めることが出来ない貴重なものもあります。残っている品物の中から、面白みのある良品が見つかる。この辺りが、呉服屋商いの面白いところでしょう。多様な生地、意匠の中から、ぜひ着てみたいと思われる一点を探してみて下さい。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。