バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

振袖は、どのように生まれたのか(文様編) 現代に通じる吉祥文様

2022.03 07

経済は右肩上がりに推移し、世の中は平穏、多くの国民は繁栄を享受して、思うままに消費に走る。今から50年ほど前に迎えた高度経済成長期は、同じような空気が充満していた江戸の一時期に擬えて、「昭和元禄」と呼ばれていた。

昭和も元禄も、時代の頂点であり、その後は下り坂一方であることは同じ。平成は、バブル崩壊後に長きにわたって経済は低迷し、「失われた20年、あるいは30年」とも言われる。そして人口減少と高齢化は深刻な社会問題となる。そこに襲い掛かったのが天災。平成7年の阪神大震災や23年の東日本大震災を始め、台風被害も頻発。平成の記憶は、度重なる災害の記憶と重なる。

 

NHKのBS番組「英雄たちの選択」で司会を務めている歴史学者・磯田道史さんによれば、元禄の次の元号・宝永は、平成と時代が酷似していると言う。1707(宝永4)年には、南海トラフが動いて大地震が発生し、その49日後には富士山が大噴火を起こす。静岡側の山腹に新しい噴火口が出来て、宝永山が生まれたが、これが富士山の噴火としては最も新しく、以来沈静化したままである。

そして平成と同じく、この宝永期も人口が伸び悩んでいる。17世紀に行われた新田開発が頭打ちとなり、食料増産のペースも落ちる。宝永地震で発生した津波の被害により、干拓による土地開発の動きが止まったことも影響したと、磯田氏は分析している。

 

昭和元禄から平成宝永へ。江戸期は、宝永を受け継いだ正徳の時代に、儒学者・新井白石の文治政治により、方向転換が図られる。そして現代の令和だが、思いもかけぬ疫病に見舞われ、先の見通しは何も持てないままだ。その上に、時代遅れな侵略戦争を仕掛ける国が現れ、時代は混沌としている。狂った為政者は、あろうことか原発にまでミサイルを撃ち込んでしまう。もしものことがあれば、地球は終わってしまうが、そんなこともお構いなし。これは人類存亡の危機と言っても、けっして大げさではないだろう。

今の世の中の空気を考えれば、こんな趣味的な内容のブログは、場にそぐわないかも知れない。けれどもこんな時だからこそ、なお読まれた方が少しでも穏やかな気分になれるよう、出来るだけ楽しめる内容の稿にしたいと思う。今日は、1月に書いた振袖誕生の経緯に関わる話の続き。あしらわれた文様や図案を振り返り、それが現代の意匠とどのように繋がっているか、考えてみたい。

 

現代の振袖(昭和年代)京友禅・枝垂桜模様。 加飾技法は、疋田絞りや金駒刺繍。

江戸を代表する脚本家・近松門左衛門が手掛けた時代物浄瑠璃に、「日本振袖始(にほんふりそではじめ)がある。これは古事記や日本書紀に記された出雲のヤマタノオロチ伝説を題材にしたものだが、そこに次のような記述が見える。

「日本は日の神の御国にて、陽気盛んにして暖成事、天地の内に並ぶ方なき国土なり。(中略)故に日本に生るる者は、十六の夏迄は両袖の下に、闕腋(わきのぞき)の脇開けにして熱を漏し、涼しみを受ざれば、国と人と相応せず。今より日本の貴賤男女、我詞を式となし、闕腋を著せさせば、見よ見よ無病延命疑ひ有べからず。末代我国闕腋は此御神の教えなり。」

ここには、振袖の始めとなったのは、衣服の脇を開けたからであり、それは九州や東国を討伐した英雄・ヤマトタケル(日本武尊)が己の妃が高熱を発し、その熱を冷ますためであったと記されている。これは1718(享保3)年の作であるが、この何とも興ざめな「暑さ対策のために、脇開けをした説」が本当かどうかは別にしても、江戸中期までは、袖丈の長さ云々ではなく、脇が開いているか否かが、振袖とする基準になっていたことが理解できる。

 

桃山期頃から、腋を開けた袖下の長い形式は見られ、これが若年女性や元服前の少年の衣装に用いられていたが、江戸中期の元禄期以後に、ようやくこの慣習が市中の衣装として普及するようになる。それまでは限られた上層階級に見られる形式だったが、経済力を付けた商人、いわゆる豪商と呼ばれる人々や文化に長けた新興町人たちが、贅を尽くした衣装を身に付けるようになっていく。そこで必然的に町家の娘たちも、腋を開け、袖を長くとった振袖を着用するようになったのである。

まだこの時代の袖丈は、せいぜい2尺5寸程度で、中振袖であった。そして加飾方法は、友禅染の登場もあって、刺繍や摺箔のような重厚な技法から、豊かな色彩で表現される模様染めへと、流行が移っていく。そして図案も花鳥や風景をモチーフにしたものが、目立つようになる。この頃の振袖は、礼服としてではなく、日常の中で着用されており、模様も縞モノなどが多く、華やかな加飾が意識されていた訳ではない。

 

その後時代は移り、江戸後期の宝暦・文化年間になると、袖丈は現代と同じ長さ・約3尺となり、装う場面は婚礼が中心となる。それは、振袖が単純に未婚の衣装というよりも、第一礼装の衣装として着用されることを意味する。武家女中にしても町家の娘にしても、婚礼の衣裳となれば、それは特別な品物である。そして、おめでたい席に装うに相応しい「文様」を意匠として選ぶようになっていく。

さて前置きが大変長くなってしまったが、江戸の振袖にあしらわれた文様とは何か、具体的に品物を紹介しながら見て行こう。そしてその図案は、現代の品物にどのように生かされているか、こちらも画像でご覧頂くことにしよう。

 

(松竹梅鶴亀模様・紅白打掛 江戸後期)

身分のある武士に仕えた女性や、豪商の娘の婚礼衣装に着用された打掛。花嫁は、まず白い打掛で式に臨み、三々九度の盃の儀式を終えると、赤い衣装にお色直しをする。意匠は、松竹梅に、飛鶴と亀。「歳寒の三友」とされる三つの植物文の組み合わせは、室町期から吉祥文と認識される。そして「鶴は千年、亀は万年」と言われるように、二つの動物は長寿の象徴である。この組み合わせを瑞祥とする考えは、平安期から。植物文・動物文を代表する二つの吉祥文を重ねた文様は、吉祥中の吉祥文と言えよう。

現代の振袖(平成20年代) 松竹梅文様・黒地型友禅。

江戸後期、第一礼装とした着用された振袖は、豪壮さを感じさせる重厚な品物が多い。そのため加飾も、あっさりとした友禅の模様染は少なく、鹿の子絞りや刺繍、箔が多用された。特に繍には金糸使いが目立ち、糸の輝きで品物を豪奢に見せる施しがなされていた。

松竹梅文様は、現代の品物においても、代表的な吉祥文として意識される。振袖や留袖等のキモノ、そしてそれに相応しい格を持つ帯の図案として、様々にあしらわれている。図案だけでフォーマル感が高まる、特徴的な文様であろう。

 

(枝垂れ柳に桜文様・白地振袖 江戸後期)

枝が枝垂れた柳を、友禅らしい写実的な姿で描き、散らされた桜の花弁は、疋田絞りと金刺繍で加飾される。豪華さよりも、若々しい可愛さを主眼においた意匠。図案からしても、これは礼装用ではなく、日常着とした装われた可能性が高い。

昭和50年代に誂えた、私の妹の振袖。これは枝垂桜だが、上の品物と構図がよく似ている。そして桜花弁には、疋田と繍が使われており、加飾技法も共通する。友禅のデザインは、昔の作品を参考にすることが多く、その意匠が似ることも珍しくない。上質な古典文様は、江戸も現代もほとんど雰囲気が変わらない。

 

(流水に扇面流し模様・朱地振袖 江戸後期)

(扇面散らし文様・黒地振袖 江戸後期)

扇は末広とも言うが、この末端で広がる形を発展や繁栄の象徴と捉え、吉祥文の一つとして古くから扱われてきた。扇は閉じても開いても形として絵になるため、同じ形を一面に散らす「扇面散らし」や、様々な形を散らす「扇尽くし」など多様に表現される。また多くが、花鳥風月の模様を中に入れ込みながら描かれている。

上の二点の振袖とも、主模様はほぼ扇だけ。扇面の中の図案は、鹿の子絞りや刺繍、箔置きなど多彩に贅を尽くした加飾が施されている。シンプルだが、吉祥感あふれる模様の様式。

現代の振袖(平成の終わり頃) 扇面花筏模様に桜散らし 水色地型友禅。

江戸期の振袖には、こうしたパステル系の地色は全く見られず、赤・黒・白が地色の基本形。淡い地合いが使われることは、現代の特徴とも言えよう。ただ扇面の形態は江戸期と同じく、花鳥模様を中にあしらう。色の雰囲気は変わっても、図案の基礎は変わっていないことがよく判る。

 

(観世流水に花の丸文様・白地振袖 江戸後期)

(四季花の丸文様・白地打掛 江戸後期)

花の丸文は、構成する花の種類によって、めでたさを調節することが出来る。上の観世流水花の丸振袖の内容を見ると、鉄線や撫子、萩などが使われていることから、秋の装いを考えて製作されたもの。一方で下の大きな花の丸は、梅の丸や笹の丸、菊の丸などで構成されていて恭しい。打掛だけに、吉祥文としての役割を意識した植物を用いるのは、当然である。

現代の振袖(平成の始め頃) 花の丸花筏文様 白地型友禅。

現代の品物に見える花の丸文も、江戸期とあまり変わっていない。ただ、加飾方法として、刺繍や手糸目の糊置き友禅など手を尽くしたものが少なくなり、挿し色だけを手で施す型友禅がほとんどになった。

 

今日は江戸の振袖・打掛にあしらわれた文様が、現代の意匠としてどのように繋がっているのか、双方の品物を比較しながら見てきた。取り上げたのは、松竹梅、扇、花の丸、枝垂れ桜の四柄で、これは古典図案のほんの一部に過ぎない。

けれども実際に模様を見て頂いて、いかに「変わっていないか」を理解されたように思う。無論、加飾技法には違いがあり、技を尽くした繍や箔、絞りのあしらいなど、江戸の振袖に敵うはずもない。けれども文様の使い方や、意匠としての組み込み方はほぼ同じで、そのままに踏襲されていると言っても過言ではない。

身分制度が厳しい江戸時代に、婚礼の式を挙げることが出来たのは、一部の上流階級だけ。そして婚礼衣装として振袖を装い始めたのは、財を成した有力町人が出現した後期以降。そんな時代の武家娘や女中、あるいは裕福な町家娘の婚礼姿が、そのままに現代に通じているのである。

 

婚礼衣装であるから、当然その意匠は吉祥の意を含んだものが使われる。松竹梅、鶴亀、桐竹鳳凰、熨斗、鴛鴦、橘が中心で、そこに平安王朝的な優美さを醸し出す貝桶、几帳、扇面などの文様が加わる。第一礼装としての役割を主眼に置いた振袖では、意匠を考える時、こうした古典模様から離れる訳には到底行かず、またそれ以外にモチーフを求めることが難しい。

だが、成人式典用の衣装と化した昨今の振袖では、「特別な礼装」の意識が乏しいため、あしらわれている意匠や文様は、古典から外れた、訳の分からぬ「デザイン」が多くなっている。その上、加飾方法も何も無く、インクジェットやシルクスクリーンで印刷してしまうので、衿を正して装う雰囲気になどなるはずがない。

振袖だけでなく、第一礼装として装う黒留袖や色留袖の意匠も、古典模様を念頭に置くのは当然で、変わることはない。けれどもこの先、どれほどの人たちが、和装フォーマルに対して、伝統的な意識を持ち続けてくれるのか。その継承は、全く危惧される。

 

振袖の形骸化や、儀式の簡素化に伴う礼装の変容は、伝統的な古典文様のあしらいそのものを消してしまうことに、繋がっています。その上すでに、優れた技術を持つ職人たちは、一人また一人と消えつつあり、手を尽くした品物は、もう作れなくなっていると言えましょう。

現代の衣裳の中に、脈々と形作っている数々の古典文様。これこそが、伝統衣裳としての和装の神髄かと思いますが、そのあしらいがいつまで続けられるのか、先を見通すことは出来ません。せめて今は、人と人とが自由に会えるようになることを願いたいものです。そうならなければ、その先にある儀礼の場面が復活することなど、考えられませんので。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
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