NHKのEテレで、不定期に放送されるETV特集。この番組は、ここ何年か政権にすり寄った報道姿勢が目立つNHKにあって、権力や権威に阿ることなく製作されている良質なドキュメンタリー。丹念に資料を掘り起こし、数多くの証言を辿ることで、様々な社会問題に対して疑問を投げかけ、謎に満ちた歴史の深淵に迫ろうとする。これこそ、公共放送に不可欠な正しい社会性を具現したものであり、このような番組を見ると、受信料を払うのが惜しくなくなる。
このETV特集にあって、最近最も興味深かった番組が、太平洋戦争開戦80年の節目にあたって製作された「昭和天皇が語る、開戦への道」。1928(昭和3)年の張作霖爆殺事件から、満州事変、日中戦争、そして真珠湾攻撃と、開戦に至るまでの経緯を語る昭和天皇の姿が、ドキュメンタリーとしてドラマで再現されていた。その基礎となった資料は、終戦後4年にわたる天皇との対話を記録した、初代宮内庁長官・田島道治の「拝謁記」と、侍従長・百武三郎が自身の任期中に記した「百武三郎日記」である。戦争を何とか回避しようとする天皇だが、自分の意に反して、独善的に戦いへの道に突き進む軍部(特に陸軍)を止められない。そんな無力感が、この番組から伝わってくる。
昭和初年から、中国大陸で暴走を始める軍部。事態は拡大し、やがて泥沼化していくが、誰も止められない。この軍の下克上こそが、やがて太平洋戦争への道となり、300万人以上の死者を出す悲劇へと連なっていく。日中戦争から太平洋戦争へ。それは昭和3年の張作霖爆殺に始まり、6年の柳条湖満鉄爆破・満州事変、12年の盧溝橋での日中両軍の衝突へと続いていく。そして止むことのない戦いは、際限のない戦費の拡大に繋がり、次第にそれが統制となって、国民生活へも波及していく。
すでに政党政治は1932(昭和7)年の5・15事件で、終焉を迎えており、すべからく軍部の顔色を窺わなければ、事は運ばなくなっていた。国家予算における軍事費の占める割合いは膨張を続け、ついに国は、国民に物的統制を強いざるを得なくなる。これが、1938(昭和13)年に第一次近衛文麿内閣が制定した、国家総動員法である。そしてそれは、国民に自己を犠牲にして国家に奉公を求める、国民精神総動員運動となって表れる。「贅沢は、敵だ」とか「欲しがりません、勝つまでは」などの勇ましいスローガンは、この時に掲げられたのだ。
かように1930年代は、戦争の影が忍び寄る暗い時代の始まりと言えるが、最初の方はまだ、自由闊達な大正時代の空気もある程度残っていた。重苦しい世の中の雰囲気を感じつつ、それでも当時の若い女性は、精一杯のお洒落を楽しんでいたのではないか。
今日は前々回の稿でお約束したように、戦前の銘仙に合わせた帯や長襦袢をご覧頂きながら、1930年代の着姿に思いを馳せてみたい。そこには、不自由な時代の中で、自分らしいファッションを求めた昭和女性の思いが感じられるように思う。
今回お客様からお借りした、1930年代に着用した銘仙・名古屋帯・メリンス長襦袢
昭和が始まる直前、僅か15年で終わった大正という時代は、第一次世界大戦や米騒動、関東大震災など重大な事件は度々起こったものの、総体的には好景気で国の経済が安定し、つかの間の平和を謳歌した時代でもあった。こうした世情を背景にして、人々の服装にも変化が表れ、洋装ファッションを楽しむモダンボーイ(モボ)・モダンガール(モガ)が登場して、街に新風を巻き起こしていた。
ただこの時代はまだ、ほとんどの女性は和装であり、スカートやワンピースを着用していたのは、一部の上流階級に過ぎない。しかしながら欧風化の波は、キモノや帯の色や図案となって表れ、この時代の作家・竹久夢二の絵に登場する女性たちの衣裳は、それまでにみられない自由闊達なデザインに彩られていた。それが今日、「大正浪漫」という名前で位置づけられる、独特の雰囲気を持つ意匠である。
そんな新しい時代の図案の特徴は、古典的な植物モチーフである菊や牡丹が西洋風の油絵的な描き方で表現されたり、それまでキモノや帯の模様としてほとんどお目に掛からなかった、洋花のダリアやチューリップ、西洋蘭などを使うようになったりして、それは装う人はもちろん、着姿を見る者にも斬新な印象を与えた。
またこの時代に生産のピークを迎えていた綿織物や各地の絣、銘仙などの、いわゆる普段着の模様も、従来の縞や矢絣を基調としながらも、その幾何学図案を大胆にアレンジしたものが、かなり多く見受けられるようになる。そしてそれはまた、アールデコの影響を強く受けた、不可思議な記号的な図案へとも発展していくことになる。
こう考えて見ると、大正は洋装への転換点であり、この時代のキモノや帯は、色にせよ図案にせよ「和洋折衷」の色合いが濃い。それは、大正浪漫と称される特有の模様形式の誕生を、洋風化が広く一般に行き渡った証と見ることも出来よう。やはり新しいデザインが生まれることは、当時の社会状況や時代背景と深く関わりがあるのだ。それではこれから、銘仙と一緒にお預かりした1930年代の品物を見ていくことにしよう。
ローズピンク色 百合模様・織名古屋帯(1930年代)
帯巾いっぱいに織り込まれた、大きな百合の花。帯の図案として、ここまで大胆に描いた百合は珍しい。そしてこれは、一本から作れる染帯ではなく、ある程度多くの本数を作ることが目的の織帯になっている。しかも地色は、思い切り飛び抜けた明るいローズピンク。こんな個性的で目立つ帯が、当時の売れ筋だったのだ。
百合の花と一緒に、撫子の入った笹の葉があしらわれ、流水とつゆ芝の織り出しも見える。朱の紐を付けることで模様がまとまり、流れのある図案に見せている。
百合は日本に古くから見られる植物だが、ほとんど文様化されておらず、紋の図案としても採用されていない。このようにキモノや帯のモチーフとして取り上げられるようになるのは、この大正期からである。なぜ百合が文様化しなかったのか不思議だが、この気高く凛とした白い花姿は、どことなく西洋的、洋花的であるために、使い難かったのではないだろうか。
柿色 椿模様・織名古屋帯(1930年代)
お太鼓と前を切り離し、付け帯として使っていた織名古屋帯。鮮やかな柿色地に、大輪の八重咲き椿をあしらう。その模様姿は、最初の百合の花同様に、帯全体を大胆に埋め尽くすもの。椿の花は、かなり古くから使われてきた、いわばスタンダードなモチーフだが、花弁を単純化した「光琳椿」にも代表されるように、割と図案化した姿で描かれることが多かった。
この1930年代の帯に見られる百合にしても、椿にしても、織帯でありながら、その模様姿はかなり写実的に描かれている。現代の帯意匠を考えれば、特定の植物だけをこれほど写実的に織で表現することは、本当に少ない。もしリアルな花姿をあしらうとすれば、ほとんどが染帯になる。
アールデコ図案の記号絣の銘仙と、写実的な椿織名古屋帯。全く対照的なキモノと帯の模様だが、こうして合わせて見ても違和感は無い。というより、こんな斬新なコーディネートは、現代の品物では表現できない。インパクトの強い写実的な織表現は、絵画的、それも油絵的な描き方をする、ある種の西洋的模様姿の影響を受けたものであり、これもこの時代の特徴を大きく表した特有の帯姿と言えよう。
帯の前姿。お太鼓は真紅の椿、前は白椿。今、こんなキモノや帯を装えば目立つことこの上無いが、この時代では普通のこと。思い切り大胆なデザインを自由に着こなす。これこそ大正から昭和にかけて、女性たちが求めたお洒落な和装の姿。そしてそれは、古くさく封建的で型に嵌ったデザインを一掃するような、まさに新しい時代の訪れを感じさせる着姿であった。
捺染長襦袢 飛鶴に糸菊模様・水玉に木蓮模様(どちらも1930年代と思われる)
このど派手な模様は、一見してとても長襦袢とは思えない。そもそも外からほとんど見えない襦袢に、これほどの模様は必要かと思うのだが、この時代には少しも珍しくなかった。振りから、ほんの少しだけ覗く鮮やかな模様。隠れたところで、個性的にお洒落を楽しむ。この襦袢は、そんな目的で染められていたのだ。
衿を真紅にして、裏に紅絹(もみ)を張っている。赤の鮮やかさが際立つ襦袢。模様は飛鶴と大輪の糸菊、そして手鞠。地が黒だけに、豪華な模様が前面に出てくる。襦袢として使うには勿体ないほど凝った図案であり、今では絶対にお目にかかれない。
この襦袢はおそらく、スクリーン捺染によって染められたと思われるが、この技法は、まず生地の幅に対応した枠に染める布を置き、ここに模様となる柄に合わせた渋紙や、プラスチックの切込みを張り付ける。そしてこの型の上から、捺染の色糊を摺り込んで染め上げるもの。簡易に多色染めが出来るこの方法は、アメリカで開発された後に、ヨーロッパで技術改良されて完成したが、日本へはドイツを通じて伝えられ、昭和初年辺りから普及し始めた。
こちらは、具体的に何をモチーフとしたのか、明確ではない。赤や青、黄色の大小の水玉に木蓮に似た白い花、そして椰子のように尖った葉も見えていて、小さな撫子や萩の花も付く。どこか洋風なデザインであり、輸入された何かの生地の模様をヒントにしたのでは、と思わせる。最初の黒地は和模様だが、こちらの襦袢では、いかにも大正らしい和洋折衷の模様になっている。
今日は、戦前の女性それぞれが、自分らしく着まわしていた日常着のコーディネートを、お借りした銘仙と織名古屋帯、長襦袢を使いながらご紹介してきた。
こうして改めて品物を見ると、色も図案も実に自由で伸びやかにあしらわれていることが判る。和と洋が混在する意匠は、何の制限もなく、作り手の意思のまま表現されている。もちろん現代のキモノや帯にも、モダンなデザインを施した目新しい品物はある。がしかし、それはあくまで「着用する人を意識しながら」作られているように思う。つまり、売れることが大前提になっているのだ。けれども、大正や昭和初期の品物には、着る人云々などお構いなしに、作り手が「自分の感性だけで」作っている。だからこそ、面白いものが生まれ、それがまた人々に受け入れられて、流行となって現れる。
この自由闊達さは、おそらく1920~30年代特有のもので、長い和装の歴史を考えてみても、他には見当たらない。和装が人々の日常の中に息づき、その旺盛な需要に支えられて、職人たちは懸命にモノ作りに励む。もう、そんな時代は二度と訪れない。 ノスタルジックな思いに駆られるのは、私だけではあるまい。
「贅沢は、敵だ」と消費者たる国民を統制した戦前の政府でしたが、売り手や作り手にも「贅沢品は売るな、作るな」と統制をかけていたことは、あまり知られていません。
1940(昭和15)年に出された「奢侈品等製造販売禁止令(施行された日に因んで、7・7禁令と呼ばれた)」がこれに当たり、宝石や象牙、銀製品は一律に対象となり、染織品も、金銀糸を使う西陣織や高価な京友禅などが、製造を止められました。そして他の品物も販売価格が制限され、高価なものは売ることが出来なくなったのです。
例えば、白生地は三丈モノ(着尺一反分)として、ちりめんは60円、綸子や羽二重は50円まで。またカジュアルモノの銘仙は30円、紬は120円まで。フォーマルモノの裾模様(黒留袖等)は250円、丸帯は350円までと、事細かに制限価格が設けられていました。
この価格は戦前のものなので判り難いですが、昭和15年当時の公務員の初任給が75円だったことを考えると、今の貨幣価値に換算すれば、白生地は12、3万で、銘仙は7万円程度、裾模様のキモノは60万円くらいと想像がつきます。確かにこの価格以上の品物は、庶民感覚からすれば「贅沢品」であり、政府が国民を統制する上では、邪魔になったのでしょう。
この法令のため、作り手は仕事がなくなり、店の棚からは品物が消えました。そして後に、政府が推奨した服装が、モンペや国民服だったのです。江戸時代同様に、為政者が衣服にまで統制をかけてしまう。全体主義国家が、いかに傲慢で恐ろしいか。太平洋戦争開戦から、80年。戦争体験者が少なくなる中で、過去の歴史を学ぶことは、どうしても必要と思います。過ちは、繰り返さない。大切なことは、忘れないことですね。
今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。