私は、1959(昭和34)年の生まれだが、この頃はまだ、キモノを日常着として使っていた時代。外に働きに行く女性は少なく、多くの人の日常が家庭の中にあった。未婚女性は「家事手伝い」として家に残り、花嫁修業と称して、料理や洋裁、和裁などを習う。そして、お茶やお花の所作で、女性らしさを磨く方も珍しくはなかった。
そんな時代、日常着の中心にあったのが、ウールと木綿。安価であり、手入れが楽だったことも手伝って、一般家庭でもっとも馴染みのあるキモノになっていた。そして、小紋や紬などの絹モノは、高級なお出かけ着として位置付けられる。新潟・十日町で開発された、金銀のラメ糸を織り込んだ「マジョリカお召」が、一大ブームを巻き起こしたのも、丁度この1960年代初頭のことだった。
さて、ウール以前の日常着は何だったのかと言えば、それは銘仙である。戦後はすでにほとんど廃れていたが、少なくとも終戦までは、庶民の普段着に、あるいはちょっとしたお出かけ着として愛用され、カジュアルキモノの中心的な存在だった。
そのピークは、1930年代。当時の銘仙産地11地域(伊勢崎・桐生・館林・足利・佐野・秩父・飯能・所沢・八王子・村山・青梅)が加盟していた全国銘仙連盟会の生産統計調査によれば、1930(昭和5)年の生産反数は、伊勢崎456万反・足利326万反・秩父204万反などで、全地域を合せると、何と1304万反。この頃の女性人口は約3200万人であるが、人口の三分の一強にあたる膨大な生産反数は、銘仙がどれほど、当時の女性の日常に入っていたかを示している。
そして時は移り、近年アンティークキモノがブームになると、古今東西の装飾文様(アールデコ様式を始めとする)をモチーフにした、銘仙の斬新なデザインと色合いが多くの人の目を惹き、注目を集めるようになる。今も古着ショップでは、状態の良い銘仙は人気商品の一つになっているようだ。
昨年の12月初めに仕事の依頼を受けた、さいたま市在住のお客様のお宅へ伺った際、ご自分やご主人のお母さまが愛用されたという銘仙を拝見した。その品物に織り出された模様は、今の織物にはなかなか見られないモダンさがあり、色も大変美しい。現存する銘仙には、生地が劣化しているものも多いが、この品物はとても着用から90年近く経過したとは思えないほど、良い状態で保管されていた。
そこで私は、銘仙をブログで紹介するにはまたとない機会と考え、お客様から無理を言って品物をお借りしてきた。また一緒に、銘仙と共に使用されたと言う大胆な模様のメリンス襦袢や、可愛い色の名古屋帯も、拝借させて頂いた。
ということで、久しぶりに書く今回のノスタルジアの稿では、銘仙を取り上げることにしたい。今日は前編として、鮮やかな絣模様が生まれた経緯について。そして次回は、一緒に使っていた襦袢や帯を合せ見ることで、流行した1930年代の銘仙コーディネートに、思いを馳せてみようと思う。皆様には、戦前に一世を風靡した、大胆で鮮やかな銘仙の柄行きを楽しんで頂きたい。では、始めることにしよう。
(黒地 幾何学絣・紺地 菱十字絣 産地は不明だが、足利か伊勢崎あたりか?)
銘仙はすでに江戸後期に、「目千、目専」の名前で、秩父(埼玉)や伊勢崎(群馬)などで織られていたが、使われていた糸は、玉糸と呼ばれる節のある太い糸や、煮出した繭から糸口を見つける際(索緒・さくちょと呼ぶ作業)に出来る劣等な屑糸(熨斗糸・のしいと)であった。そのために、仕上がった織物は自然と丈夫な太織となり、庶民の普段着として重宝する実用的なキモノとして定着していた。
銘仙を目千としたのは、使う経糸の本数が多く生地の目が込み入っているためとか、あるいは目専としたのは、柄行きがほとんど縞モノだったから(縞の目ばかりということか)とされているが、本当のところはよく判っていない。それが、明治以後は銘仙、あるいは銘撰の字が当てられるようになる。この語源も不明だが、一説では「優れた」とか「上等な」という意味を持つ「銘」と、織っている場所が「仙境」にあることを掛け合わせ、「銘仙」としたとも伝えられている。
さて初期の目専は、ほとんどが単純な縞モノで、丈夫なことだけが取り柄の日常着であったが、銘仙と名前を変えた明治初期あたりから、糸質や織技法に様々な工夫が加えられ、産地ごとに趣向を凝らした織物が、数多く登場するようになる。これからその辺りのことを、お客様から預った二点の銘仙を画像で見ながら、お話してみよう。
台形、長方形、三角と不思議な幾何学模様を組合わせた、黒地の銘仙。
初期の銘仙は、そのほとんどが縞や無地モノという渋い姿だったが、もしそのままだったとしたら、後年爆発的に流行することは無かっただろう。時代を追って多くの女性から支持された理由は、それまでのキモノには見られなかった、デザインの斬新さとカラフルさが施されていたから。特に若い人たちに、「着てみたい」と思わせる意匠を次々と開発したことが、銘仙の地位を不動にした。
銘仙がデザイン化される契機にとなったのは、1907(明治40)年に日露戦争を指揮した乃木希典将軍が、華族女学校(現在の学習院女子高等科)の校長に赴任した際、華美だった女生徒の服装を改めようと考え、制服として伊勢崎銘仙を採用したことに始まる。この時生まれた図案が、矢絣である。そして、矢絣模様の銘仙に海老茶色の袴を組合わせた姿が、女学生の通学服として定番となり、それは瞬く間に広がっていった。
海老茶色の八掛けを付けて、きちんと袷で仕立てられている。普段着というよりも、お洒落なお出かけ着として愛用されていたと想像される。
織物での模様表現となれば、それは必然的に絣となる。絣は、経糸と緯糸が直角に浮き沈みして組織されるものであり、染色に当たる時には、予め模様に合わせ、経緯双方の糸を括って防染する。この数十本の糸を括り染めすることから、糸の染足に滲みが生まれる。この糸を使って織りなす時、伸縮する糸の性質も相成って、特有のズレが生まれ、このズレと滲みによって美しい絣足が生み出される。
このことからも、絣は人の手仕事の中から生まれた自然な模様姿と言えるが、かなりの手間を要するために、相応の時間とコストが必要となる。明治期に入って銘仙に求められたのは、自由度の高い模様の姿であり、それにはどうしても、新たな絣の製法を考える必要が生まれた。そうした条件の下、産地で考案されたのが、解ぐし(ほぐし)織という技法だった。そしてそれは後に、多彩な意匠を安価で大量に製織するという、これまでにはない斬新な技術の基となったのである。
では、ほぐし織とは、どのような技法なのか。それは簡単に言えば、糸をプリントした織物となるのだろう。普通プリント染とは、布に模様を切った型紙を当てて、柄を出していくのだが、ほぐしはこれを、糸のうちに行うのだ。どのような技法なのか、少し難しくなるが、説明してみよう。
まず経糸にプリントする場合は、長い台に糸を並べて、その上から型紙で柄を染めて、これを織機にかける。この場合、ただ糸を並べただけでは、糸がよれる恐れがあるため、予めざっくりと織り上げておく。織っておけば、糸が少し外れたとしても、とりあえず緯糸で組織されていることから、糸が曲がっても順序が狂うことはない。つまり、糸は布地に近い状態になっている訳で、ここに型紙で何色かの色をプリントし、熱処理を施してから、織機に掛けていく。
製織の際、今度は予めざっくりと織った時の緯糸が、邪魔になってしまう。そこでこの緯糸を切って、ほぐして織ることになる。「解ぐし織」とは、この手間に由来して名前が付けられたのである。
過去にも現在にも、あまり見たことのない図案。何とは特定できないが、独特な意匠。こうした幾何学模様は、1910~30年代に流行したフランスの装飾美術・アールデコに影響されたもの。不可思議な記号的文様のあしらいは、銘仙以外にはあまり見かけない。これは、銘仙がそれだけお洒落で、自由度の高いアイテムである証なのだ。
先ほどは、経糸をプリントする方法を説明したが、緯糸の場合は経糸のように予め織ることはせずに、織る巾と同じ板に、織る時と同じ密度で糸を巻き、経糸と同じ型紙で模様をプリントする。どのような過程を踏もうと、織り上がる模様は、糸のうちに染めて織る絣には違いない。そしてそこには、前述したように、織る時に糸が伸縮して出来るムラがあり、それは間違いなく絣特有の表情になる。当然のことながら、布に直接プリント染した模様とは、全く別物になっている。
こうして銘仙は、経緯糸を共に同じ型紙で染めることから、多彩で自由な絵画的表現が出来る上に、多彩な色使いも可能になった。そして、多少模様が平面的になることを除けば、キモノの上に自在な曲線意匠を生み出せる、魔法の織物となったのである。
ブロックを積み上げたように見える、少し変わった菱形模様。地は、群青色。
昭和初期当時、銘仙の主産地(四大産地とか、五大産地と呼ばれた地域)は、伊勢崎、足利、秩父、八王子、桐生。何れも古くから養蚕が盛んで、織物産地としての歴史も長い。この産地間で、特に覇権を競っていたのが、群馬の伊勢崎と栃木の足利である。
こちらは、明るく蛍光的なエメラルドグリーンの八掛が付いている。表のデザインも立体的で面白いが、裏地の色もなかなかモダン。
伊勢崎は、先ほど述べたように、華族女学校の制服としていち早く品物が認知されただけに、最も早く組合が設立された。そこでは、品物を厳格に検査してから出荷しており、最初から質にこだわる銘仙を目指していたことが理解出来る。そして、技法は解し織だけではなく、多彩な織り方を開発し、多様な絣模様を織りなしていた。
整えた経糸には、何枚もの型紙を当てて捺染し、緯糸も板に巻き付けて型紙捺染し、絣糸を作る。これを手機で織って絣をつくる併用絣(へいようがすり)や、大柄で珍しい経緯絵絣・珍絣(ちんがすり)なども作られたが、いずれも、経糸と緯糸の複雑な模様を合せながら織りなすもので、織手には熟練した技術が求められていた。こうしたことを見ると、伊勢崎の銘仙は、高級品にシフトしていたと考えられる。
四本の縞を縦横に繋ぎ、そこに正方形のブロックを組み立てて十文字を作る。模様に近接して見ると、これも伝統的な菱絣模様ではなく、記号的な幾何学文様。
一方の足利だが、洗練されたデザインの銘仙を、いかに求めやすい価格で世に出すかということが念頭に置かれた。つまり目指すところは、合理的な生産方法の確立である。
その結果として生まれた技法が、半併用絣であった。これは併用絣のように経緯糸を解し織で同一に捺染するのではなく、経糸だけとし、緯糸は簡単に括って染色したものを使い、これを模様に合わせて織っていくもの。この織り方では、模様の周囲が白く抜けるため、図案は浮き上がったように見える。半併用絣は併用絣と比べて、文字通り手間とコストが掛からない合理的な生産方法であり、真っ先に解ぐし織を開発した足利産地の面目を施すものであった。そしてこの半併用絣は、足利の銘仙生産量と消費量を飛躍的にアップさせることに寄与し、高級な伊勢崎の銘仙とは一線を画す存在になった。
もちろん、銘仙産地は伊勢崎や足利に限らず、他の地域でも創意工夫を凝らした個性的な品物が作られていた。流行することは消費されることであり、売れれば売れるほど、各産地は様々な意匠を生み、時には大胆な色や模様の品物が世に出て行くことになる。
誰もが銘仙を着用するようになれば、ありきたりな図案では満足せず、人とは違う模様や色を着て見たくなるのは、今も昔も同じこと。そしていつの時代も、旺盛な需要こそが、飛び抜けた面白いデザインを生み出す。写実的な図案も抽象的な模様も、直線も曲線も自由に表現できる絣技法があるからこそ、銘仙は大流行し、普段着として、そしてちょっとしたお出かけ着として、戦前の人々の日常の中に定着したのだった。
今日は銘仙について、中でも絣で表現されている模様にスポットを当てて、話を進めてきた。いつもながら、歴史的経緯や技法の話は説明することが難しく、読まれた方は途中で飽きてしまったかも知れない。ただ、品物としての基本事項なので、取り上げる時には、どうしても端折る訳には行かなくなってしまう。どうか、お許し願いたい。
次回は、銘仙と一緒にお借りした襦袢や名古屋帯を使って、1930年代に流行したであろう「銘仙コーディネート」を試そうと思っている。おそらく今回よりは、面白い内容になると思うので、またお読み頂きたい。なお最後になってしまったが、品物をお貸し頂いた、さいたま市のT様には、この場を借りてお礼を申し上げたい。
今回品物を貸して頂いた方の故郷は、栃木県。そのことを考えると、お手持ちのお母さまの銘仙は、やはり同じ県内の足利産になるでしょうか。特に黒地の品物には、模様の周囲が白く抜けている特徴があり、これは半併用絣の技法が考えられますので、足利銘仙の可能性が高いように思います。
着用されてから90年あまりが経過しましたが、汚れはほとんどなく、丁寧に保管されていたことが判ります。寸法がかなり違うので、このままキモノとして着用することは叶いませんが、それでも大切にしたいという気持ちが、品物の状態に表れています。
着る着ないに関わらず、手の届くところに置いておきたい。母や祖母が着用したキモノや帯には、そんな気持ちを喚起させる力があるのでしょう。大事に受け継いでいる方がおられるからこそ、貴重な品物を、こうして今に伝えることが出来るのです。 今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。